第8話 空白の空(湊悠真視点)
和泉さんと目が合った瞬間のことは、今でも鮮明に思い出せる。
職員室で教科書に指を伸ばした瞬間のこと、花火の下で輝いていた瞳のこと。あの頃、触れそうになった手を引き戻した自分の選択が、今も心臓を突き刺す。
着任初日の教室で、彼女と田中君のやりとりをたまたま見てしまった。二人の距離の近さに、なんとなく「カップルなのかな」と思っただけだった。……はずだった。
でも、放課後、「CA合格への道」と書かれたノートを手に持つ彼女に声をかけたとき、俺の中で何かが動いた。夢に向かって真剣に取り組む目の輝きが、胸の奥に刺さってくる。「努力は必ず実を結ぶから」と言いながら、その言葉がどこか自分自身に向けられているような気がして、少し苦しかった。
本当にパイロットになりたかった。ドクターにこの視力ではなれないと宣告された日のことは、何度も悪夢を見るくらいだ。この問題で諦めた夢を、彼女の夢に向かう姿に重ねていたのだと、後から気がついた。
◇
あれは彼女の担任になって間もない頃のことだ。
職員室で古賀先生がコーヒーを差し出しながら、軽い口調で言った。
「湊君、和泉さんと仲が良いのはいいけどね、ちょっと近すぎるんじゃない? 生徒との距離感は大事だよ」
苦笑いして頷き、手渡されたコーヒーを一口飲む。この苦い味が今の自分の心情にぴったりだと思った。
頭の中では、別の記憶が蘇っていた。
前の学校で、女子生徒に好意を寄せられたことがある。俺も気があると誤解した周囲が騒ぎ立て、職員会議で注意を受けた。自分は何もしていないのに……。でも、そういう問題じゃなかったのだ。容姿が原因で、生徒との距離を保つことが難しい――あのとき初めて、そう思い知った。
和泉さんには悪いけど、また同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
そう決めて、意識的に距離を置くようにした。でも教室で彼女と田中君が笑い合う姿を見るたびに、胸が締め付けられる感覚が消えない。自分でも、どうかしていると思っていた。
アパートのベランダで星を見上げる夜が続いた。
和泉さんの笑顔が、頭から離れない。職員室で教科書に指を伸ばしてきたときの温かい手。カフェで機内アナウンスを練習するときの真剣な顔。文化祭の花火の下で、腕の中でわずかに震えていた肩。
俺は教師失格だな……。そう呟くたびに、空の星が静かに光って、励ましてくれている気がした。
◇
バレンタインデーの朝、机の引き出しを開けると小さな箱と手紙が入っていた。
手作りだということが一目でわかった。手紙を開くと、丁寧な文字が並んでいる。
「湊先生、私の夢を応援してくれてありがとう。あなたの言葉が私の翼になりました。ずっと忘れません」
丁寧な文字の横に、小さなハートが添えられていた。何度も読み返しながら、一言一句を脳裏に刻んでいく。チョコは小さな箱に入っていて、手間をかけて作ったのが伝わってくる。こんなに一生懸命作ってくれたのに、と思いながら、胃の奥が静かに痛んだ。
このとき俺は、教師としての自分を捨てそうになっていた。
でも、捨てなかった。
放課後、彼女を人気のない教室に呼んで「婚約者がいる」と告げた。嘘だ。彼女を守るための、最善だと思った嘘だ。教師と生徒、その一線を越えれば傷つくのは彼女の未来だから。
でも彼女の表情が曇った瞬間、身体が引き裂かれるような痛みが走る。精一杯の笑顔で「お幸せに」と言って去っていく後ろ姿を、平静を装って見送ったが、ドアが閉まってもしばらく動けなかった。
「まぁ、嘘なんだけどね……これが今の俺にできる、最善の選択なんだ……」
そう呟き、自分の行動を正当化することしか出来なかった。
机の上に残されたチョコを一粒口にすると、甘さと苦さが混じって目頭が熱くなる。
手作りの味がした。どれだけの時間をかけて作ったんだろう、と思うと胃の奥がまた痛んだ。彼女の夢を壊すわけにはいかない。教師の俺にはその資格がないんだ。
拳を握りしめながら自分に言い聞かせる。正しい選択をしたはずなのに、胸の空白は埋まることはなかった。
机の引き出しには、チョコに添えられていた手紙がまだ入ったままだ。再び手に取り、彼女の丁寧な字に目を細めた。その奥にある、英会話部でくれたしおりを取り出し、ぼんやりと見つめる。
「夢に向かって頑張ってほしい……俺なんかに惑わされないで……」
そう呟きながら、ただ大きく息を吐いた。
◇
卒業式の日、桜が校庭をピンクに染めていた。
最後になるかもしれないから、勇気を出して和泉さんに話しかける。傷つけてしまったことを、謝ったときの彼女の表情は忘れないだろう。その笑顔は曇っていて、今にも泣きそうだった。
こんな顔させるなんて……本心を告げるべきか? と一瞬悩んだけど、彼女の夢を応援したくて、その想いは心の要塞に閉じ込めた。
生徒に囲まれながら、彼女の小さな背中を見送る。「先生の言葉は忘れません」と言ったときの切なげな表情が、頭から離れない。風に揺れる制服のスカートが遠ざかっていく。
和泉さんの未来に、俺はいらない。
目を閉じて、自分に言い聞かせたけど、脳内のノイズは鳴り止まない。教師として越えてはならない一線を守ったことは正しい、とわかっている。でも、この選択が自分の人生にこれほどの空白を残すとは、あのとき思わなかった。
しばらくして、田中君が駆け寄ってきた。
「先生って、イロハのこと、好きだったでしょ? 最後だし教えてよ」
遠慮のない奴だな、と苦笑いする。
「何言ってんだ、田中君は、いつもふざけて」
「俺は、イロハより先生の方が好きだよ? イロハとは本当に付き合ってないから。誤解しないで!」
肩をすくめながら、さらりと言ってのける。
正直、驚いた。二人は仲が良くて、彼が彼女のことを好きなんだと思っていたから……ずっと誤解していたのか……複雑な感情を隠しながらも「大学も頑張れ」と激励して、その場を去った。
◇
臨時職が終わった後、学校から継続の打診があったが断った。このままここにいることに耐えられなくて。彼女のことを考えてしまうし、また、生徒を好きになるのが怖いから。
夜間の大学院で英語教育の研究を続けながら、論文を書くことに没頭した後、大学講師の道を選んで、東京の小さなキャンパスに移った。
研究室にこもって論文を書き、学生に教える日々が始まる。英語教育を選んだのは、「英語が人と人をつなぐ力を持つ」とあの日聞いた言葉を俺も信じているからだ。
彼女の事は、忙しさに紛れれば忘れられると思っていた。でも無理だったようだ。
研究室の窓から見える東京の夜景は、ビルの灯りが星空のように広がって、どこか……キラキラとした彼女の純粋な瞳を思わせる。
休日はコーヒーショップで論文の資料を読むことが習慣になっていた。店員の「いつもので、よろしいでしょうか?」という声に、ふと現実に引き戻される。
講義を聞く学生の黒髪ロングの後ろ姿に、思わず足を止めてしまうことや、カフェの店員の丁寧な仕草に息が詰まる日もある。彼女の面影を無意識に探しているのかもしれない。
机の引き出しには、最後の英会話部の日に彼女が忘れていったノートがしまってある。「My Path」と書かれた表紙を指でなぞると、彼女の声が聞こえてくるような気がした。
「世界中の人々をつなぎたい」
英語で夢を語った純粋な瞳が、頭から離れない。カフェでの緊張した声。屋上での震える肩。文化祭の花火の下で見た輝く瞳。すべてが深く刻まれたまま、色褪せることがなかった。
ある夜、同僚と飲みに行ったときのことだ。
同僚に「最近元気ないぞ。まさか、振られたとか?」と聞かれて、苦笑いで誤魔化した。「結婚とか考えないの?」と詰め寄られても、「今は研究に集中したいから」と交わす。色々聞かれても答えるのが辛いから。
モテる方だということは、自分でもわかっている。大学に来てからも、学生や同僚から誘われる機会は多かった。食事に行ったこともあるけど、彼女の笑顔が浮かぶたびに、他の誰かに向き合う気になれなくて……我ながら重症だ。
同僚があまりにもしつこいので、「心が動く相手が一人いたけど、もう会えないんだ。でも、ずっと忘れられなくて」と言ってしまう。すると、哀れむように「お前って、一途なんだな」とポンと肩を叩かれた。一途。その言葉が、自分でも滑稽に思えた。
◇
彼女が高校を卒業して三年が経った頃、夜中に彼女のSNSを見てしまっている自分に気づいた。
本来なら、元教え子のSNSを見るべきではない。理性ではわかっているのに、通知が来るたび、気づけば画面を開いている……。いつからフォローしたのかは覚えていない。
投稿写真は笑顔で溢れていた。「勉強の息抜きにカフェでバイト中♪」というキャプションに、思わずクスリとしてしまう。
元気で前向きに生きていることに安心する。でも同時に、邪な想いも広がっていく。
バイト先に偶然を装って、会いに行けば会えるんじゃないか、とか。もちろん、行かない。ストーカーにはなりたくないし。ただ、そういう考えが頭をよぎる自分が、我ながら怖かった。
スマホを置き、大きな息を吐く。こんなことをしている自分は教師失格かもしれない。そう自嘲しながらも、彼女の近況を知ることだけが満足感をもたらす、それだけは変わらないのだ。
◇
四年目の冬、国際英語教育の学会でアメリカに向かった。
機内でキャビンアテンダントがウェルカムドリンクを配るのを見ていると、目が吸い寄せられていく。その笑顔と丁寧な所作に、彼女が目指しているのは、こんな仕事なんだと想像する。
彼女なら、きっと素晴らしいCAになるだろうなと思いに更けると、胸が温かくなる。
自分が傷つけておいて今さら何を、と思いながらも、その温かさだけは本物だった。
発表を終え、ホテルのバーで一人飲み始めると、隣に座った男性が話しかけてきた。日本からの参加者だという。会話が弾み、互いの研究について語り合ううちに、話題は自然と個人的なことへ移っていった。
「実は、昔教え子を好きになってしまって……」
少し酔った勢いで、自分でも驚くほど、饒舌になっていた。名前は出さなかったけど、彼女の話しをしていたらしい。酔うと抑えている気持ちが溢れ出てきて……。今どこにいるか、どんな夢を持っていたかとか、知らない人間にそこまで話している自分が滑稽だった。
酔うと理性の蓋が外れる。我ながら重症だ……。どうかしてると思いながらも、本心を語り続ける。
「辛いですね。でも、教師としての選択は正しかったと思いますよ」
その言葉に少し救われた気がしたが、同時に心の奥の痛みが露見し、奈落の底に沈んでいった。
◇
五年目の春、桜の季節が来た。
研究室の窓から舞い落ちる桜を眺めながら、論文の校正をしていると、スマホに通知が入った。彼女の新しい投稿だ。
「夢叶いました。CAとして4月から空の旅に出ます」
写り込む制服と、誇らしげな笑顔が眩しくて、画面を長く見つめてしまった。
嬉しさと寂しさが入り混じる、複雑な感情が心を満たしていく。何かが解放されたような気もした。心の中でずっと抑えていたものが、少しだけ形を変えた瞬間なのかもしれない。
その夜、研究室の窓から夜空を見上げていると、言葉が零れる。
「君の夢が叶うなら、それでいい。でも、どこかで……また会いたいって願ってる」
本心だった。やっと口に出来た。
風が桜の花びらを一枚、窓枠に運んできた。それを手に取ると、彼女の笑顔が浮かんで、卒業式の事を思い出す。胸に残った傷は癒えているだろうか。
◇
それから、学会の出張が増えて、航空券を予約するたびに小さな期待が頭をよぎるようになった。
次の海外学会まで、あと一ヶ月。別の航空会社でもいいと思っていたのに、指先は迷いなくJNAの予約ページへと進んでいる。
彼女が笑顔で客室案内をしている姿を見られる日が来るとしたら……俺はどうなるんだろう。想像するだけで幸せな気分になる。もう、五年も経つのに、まだ忘れられないなんて……我ながら、どうかしている。
窓の外に、飛行機雲が一本、空を横切っていく。この空を見るといつも、彼女を思い出し、希望が湧きあがってくる。
三か月後には、友人の結婚式でパリに行く予定だ。こちらも、JNAの航空券を迷わず予約する。理性ではわかっている。百万分の一の確率だと。それでも、確定ボタンを押したとき、なぜか心臓がいつもより早く鳴った。
もしかしたら……と言う気持ちを、抑えられなかった。




