第10話 パリの空の下で
シャルル・ド・ゴール空港に到着し、乗客が全員降機したあと、機内の忘れ物確認をしていた。先生のお見送りは、持ち場が違ったのでご挨拶が出来ず……。後悔する気持ちは正直あったけど、職務を全うすることを選んだ。当たり前だけど。
客席のチェックをしている時に、先生の席にマフラーが残っていることに気づく。
これは……人生の岐路かもしれない。こんなチャンス二度とないよイロハ、と自分にカツを入れる。
冷静な私が問う。このまま忘れ物として処理するか、届けるか……。
少し迷ってから先輩に声をかける。数秒のことだ。
「あの、これを届けてきてもいいですか? たった今見つけたんです。お客様がまだターミナルにいるかもしれません」
先輩は一瞬目を丸くしたが、ニヤリとしてから頷く。こんな申し出したのが初めてだから、びっくりさせたかもしれない。それと、何か勘付かれてそう。でも、そんなこと今の私は気していられないのだ。
「わかったわ。でも急いで。ミーティングには遅れないようにね」
「はい、ありがとうございます!」
マフラーを手に持ち、小走りで搭乗橋を抜けて到着ロビーへ向かう。人の流れの中に先生の姿を探すけれど、見つからない。もうイミグレに行ってしまったかな……。
少し焦り始めたころ――ロビーへ続く通路の窓際に、一人の男性が外を眺めているのが見えた。
あれは、先生だ! 心臓が大きく跳ねたが、深呼吸をして心を落ち着け、制服の裾を軽く直してから、ゆっくりと近づいた。
「先生! マフラーのお忘れ物です」
「先生」という言葉が、自然と口から出ていた。もう教師と生徒じゃないのに。でも、湊さんと呼ぶのも変かもしれないし……。
振り返った先生は、ネイビーのスーツに白いシャツ、ノーネクタイ。教師だった頃より洗練されていて、都会的になっていた。座席に座っているときは全身見えなかったから、ドキっとしてしまう。
夕陽が窓から差し込んで、二人の間に茜色の光の筋を作っている。
「和泉さん……」
「先生、これ、機内に忘れられていました」
先生がマフラーを見つめてから、ゆっくりと私を見た。思いつめたような表情をしている。しばらく見つめ合ったまま、どちらも動けなかった。
「……わざと置いていったんだ」
「え?」
「君にまた会いたくて、会う口実が欲しかったんだ……」
先生が少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「バカみたいだけど……もう一度会いたかったんだ」
耳まで熱くなり、マフラーをぎゅっと握りしめる。
先生なんで、そんなこと言うんですか? もう一度会いたかったって、なんなんですか? 勘違い……してもいいですか? もう、どうにでもなれ。
「あの……お茶でも飲みませんか? ミーティングまで少し時間があって……」
勇気を振り絞ってお誘いすると、先生の目が柔らかくなった。
「ありがとう、ぜひ」
◇
空港内のカフェは、窓からは滑走路が見渡せて、夕暮れの光が機体を金色に染めあげていた。
向かい合って座ると、五年の時間が不思議な重さで漂う。それでも二人の間に流れる空気は、なぜか変わらない気がした。
「制服、本当に似合ってるね」
先生がコーヒーを手に取りながら言った。
「ありがとうございます。やっと夢が叶いました」
「あの男性客の対応、本当に見事だったよ」
「ああ……あれはマニュアルどおりです」
少し照れて答えたら、先生がフフッと笑う。
「嘘だろ。あんなに毅然としていて、でも優しい対応。マニュアル以上だよ」
恥ずかしくてはにかんでしまう。しばらく沈黙が流れて、先生がゆっくりとコーヒーカップを置き、真剣な表情に変わる。
「実は……謝らなきゃいけないことがあるんだ」
喉が詰まってしまう。これはきっと、聞きたかったことが知れる瞬間だ。
「あの時、婚約者がいるって言ったこと……嘘だったんだ」
指先が、かすかに揺れる。
「なんとなく……そうじゃないかと思ってました」
「そうか……」
先生は少し俯く。
「当時は君が生徒で……君の純粋な気持ちを傷つけたくなかった。でも、正直に断るべきだった。ごめん」
胸が苦しくなる。
「いいえ……私こそ、先生に無理な告白をして……」
「無理じゃなかったよ」
先生の言葉に、動きが止まる。
「君の気持ちは、本当に嬉しかった。でも答えちゃいけないから……」
息を呑んだ。
「そうなんですね……あの、ずっとお礼を言いたかったんです。CAになれたのは、先生が『絶対CAになれよ』って言ってくれた言葉があったからなんです。挫けそうなとき、よく思い出してました。私の夢を信じてくれた先生のことを……」
「いや、全部和泉さんが頑張ったからだよ。努力が実を結んだね。俺も嬉しいよ」
先生が微笑んでくれて、目頭が熱くなる。あの頃と同じ優しい笑顔だ。
脳内に長い間しまっていた言葉が浮かんだ。言葉を選びながら、静かに尋ねてみる。
「先生……覚えていますか……? CAになったら彼女にしてくれるって……」
先生の瞳が驚きで見開かれ、すぐに柔らかな表情に変わる。
「……ああ、覚えてるよ」
先生は一息ついて目を細める。そして、ゆっくりと話し始める。
「それって……今でも有効かな?」
心臓に矢が刺さって動けない――今にも倒れそうなほど。
一瞬だけ迷ったふりをした。なんとなく、すぐYESって言っちゃダメな気がして。
でも……長年抱いてきた気持ちは、変えられるはずがない!
「はい!」
「本気にしてもいいのかな?」
耳の奥まで熱くなり、コーヒーカップを両手で握りしめる。
「はい……私、あれからずっと、誰とも付き合わなかったんです」
言葉がスラスラと溢れ出してしまう。心の中に閉じ込めてたのに。
「バカみたいですけど……先生以上に想える人が現れなくて……」
「俺も同じだよ」
先生の声は静かだったけれど、力強い。これが、本心なんだと思う。
「他の誰も、君以上に気になる人は現れなかったんだ……」
二人の視線が交わり、長い間封じ込めていた感情が溢れ出そうになって、全身に熱が広がっていく。それでも先生から目を逸らすことができない。
勇気を出して言った一言で、世界が新しく動き出した――。
「先生、フランスは初めてですか?」
話題を変えたら、ようやく呼吸ができた。
先生が髪をかき上げたから、顔がしっかりと見えた。瞳が綺麗で吸い込まれそう……。
「うん、友人の結婚式で来たんだ。でも明後日の式まで自由時間で、観光でもしようと思ってる」
ここで逃げたら一生後悔する。そう思った。
「よかったら……明日の午後、お時間ありますか? パリの街、少しだけ案内できます」
先生の顔に、高校の時には見せなかった表情が浮かんでいる。こんな嬉しそうな先生、見た事ない。喜びと期待が滲んでいるみたいな。
「いいの? 是非お願いしたい。詳しいの?」
「はい、パリには月に一度くらい来ているので任せてください!」
先生の目に眩い光が宿った気がした。
これは、デートだよね……? 期待しても……いいんですか? 先生……?
二人の新しいパリの物語が、今始まった。




