30. 感情の歌
水の王と愛し子の姿が消えてすぐ、盟主は私を抱き抱えたまま立ち上がった。
「ウィルっ!」
驚きと共に、思わず昔のように呼んでしまった。
「盟主……もう大丈夫……です……下ろして……」
慌てて取り繕うように言うも、ますます腕の力がこもったように思えた。
「少し力を……使いすぎてしまって……。でも問題ありません。だから……」
「このままランドルフ邸まで送る。」
「……えっ?」
「本当はすぐにでも休ませたいが、ここにいるのは気が休まらないだろう。」
休んでどうなるというのだろう。
早く、早くクレイの元に逝きたいのに。
あのまま、国に祈りながら朽ちてしまいたかった。
クレイのように、国を守って死ぬことが私の最期の役目なのに。
「フィオナ。」
名を、呼ばれた。
ランドルフ家で付けてもらった名前。
夜明けを迎えて与えられた名前。
―――大切な、大切な、名前。
「……頼む。もうこれ以上、自分を傷つけないでくれ。これ以上、苦しませたくない。悪いのは俺たちだ。何も知らずフィオの全てを奪った俺たちなんだ。」
盟主の目が哀しみに満ちていく。
「……ウィル」
「俺の存在が許せないのなら俺が消える。フィオが消えることなど耐えられない。あってはならない。愛し子なんて関係ない……!」
うまく頭が働かない。
愛し子は関係ない?
でも私は愛し子もどきで……私の価値は精霊に選ばれたかどうかで……。
「風の精霊!これを貴方は望んでおられるのか!フィオが傷つき苦しむことが必要なのか!罰せられるべきは貴方から愛し子を奪った俺だろう!」
ウィルの感情的な姿を初めて見た。
いつも穏やかで、理知的で、ウィルといると暖かな風に包まれるような、そんなヒトなのに。
「ウィル……」
「騒ぐな小童」
いつのまにか、リューがいた。
まるで最初からそこにいたように。
「……精霊様」
アリアナ様が思わずといった様子で呟き、膝をついた。
それに続いて父様と兄様が膝をつき頭を垂れる。
「なんだ、お前。感情的に振る舞えるのか。心を無くした器かと思っていたぞ。」
リューがしゃべっている。
私以外と。それは、その意味は……。
「リュー、やめて。」
「もういいだろう?何に抗う。何に惑う。」
「だって……。」
「くだらん人の血か?そんなもの、世界には関係ない。」
「……人には関係あるの。」
「なんだ、こいつも、そこにいるお前の家族とやらも“人”ではないのか?お前の血など関係ないと言っているだろう。こいつも、そこの奴も『愛し子をやめさせる』などと随分不遜なことを言ったものだ。」
挑発するかのような精霊の言葉に、アル兄様が顔を上げた。
まるでそれが当然かのように。
「それは……」
「なんだ面倒だな。やはり風の日にすべて消せばよかったか。」
「そんなこと……思ってないくせに。」
「当たり前だろう。お前が望まぬことなどしない。だが、今お前が望むこともしない。」
「リュー。」
「この者たちが理由になるのは気に入らん。だが、あの人間がいつまでもお前の心を縛るのも気に入らん。」
「クレイは……」
「おい、我が望んでいるか尋ねたな。」
急にリューがウィルに矛先を向ける。
「我が望むと言ったらどうする。」
「先ほども申し上げた。罰せられるべきは俺だ。」
ウィルはただ静かに、リューに告げた。
「……ふっ。何の罰やら。……せいぜい守ることだ。我の力が及ばぬところで消える前に。」
リューの顔に初めて翳りが見えた。
リューの気持ちを蔑ろにしている。そんな当たり前の事実から目を逸らし続ける私はなんて狡いのだろう。
「それにしても、愛し子が消えたいなどと望んでいるうちはこの国も終いだな。」
「国などどうでもいい。守りたい者を守って国が成されている、ただそれだけだ。」
私を抱えるウィルの手にわずかに力が籠る。
『国を守るとか民を守るとか、そんな大層なものではない。私は守りたい者を守っただけだ。偶々それが革命に繋がったまでのこと。』
辺境伯も同じことを言っていた。どこまでも似ている親子に、少しだけ口元が知らぬ間に緩んだ。
リューは私の顔を見て一息吐き、手をかざして私を癒しの風で包み込んだ。
「しばらくは祈るな。もう十分なほど満ち足りている。」
「……うん。」
「『信じろ』」
「……っ!」
心臓が跳ねる。まるでクレイが目の前にいるみたいだった。
「今のお前に必要な言葉だろう?…… お前が望まなくとも我は常にお前の側にいる。」
あの時、神殿の屋根の上で呟いた言葉。
それを再び言い残して、風と共にリューは消えた。




