7. 仮初めの婚約
「……婚約、ですか」
病み上がりの身体を押して、私は応接間に連れてこられた。
驚くほどの速さで着替えさせられ、化粧まで施された挙げ句、気づけばふわりとした香油の匂いに包まれている。
鏡を見る間もなく席に着かされた私の前には、穏やかな笑みを浮かべる王太子殿下――シリル・ジ・オルレアン殿下と、いつもより少し険しい表情のお父様が並んでいた。
何の集まりかと思えば、どうやら冗談では済まされない話らしい。
「やっと十三歳を迎えたので、アリーヌ嬢と婚約を結ぼうと思っているんだ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
(やっと? 何を“やっと”なの?)
背筋に冷たいものが走り、思わずお父様を見たが、無言のまま視線を逸らされた。
――嫌な予感しかしない。
「大変光栄なお話ではございますが、私、そのような予定は――」
「どうして?」
こちらこそ、どうしてなのかと問い返したくなった。
王族の正式な婚約が許されるのは十三歳から――制度としてはよく知っている。
けれど、“その年齢になった翌日”にいきなり婚約の席が設けられるなんて、さすがに聞いたことがない。
もしかしてこれも、あの物語の通りなのだろうか。
「殿下のご意向は恐れ多く、我が家にとっても名誉なことではございます。ですが、殿下に相応しいご令嬢は他にも大勢いらっしゃるはずですわ」
「僕はアリーヌ嬢がいいんだ」
言い切られた。笑顔のまま、まったく揺るがない。
ナタリーの言っていた通り、確かにお顔は完璧。
でも、話の流れが強引すぎる。
「そもそも、殿下とこうしてお話しするのは初めてです。なぜ私を?」
「……そうだね、こうやって言葉を交わすのは初めてかもしれない。けれど、これまでの式典やパーティーで、誰よりも礼儀正しく、誰にでも分け隔てなく接する姿を見てきた。皆に慕われる王太子妃にふさわしいと思ったんだ」
(今考えましたね、それ……)
王太子らしく微笑みながら言うその声は柔らかく、反論の隙を与えない。
けれど私は引き下がれない。破滅を避けるには、ここで止めるしかないのだ。
「殿下のお言葉は光栄ですが、礼儀正しい方など他にもいらっしゃいます。私より、もっと慈悲深く聡明なご令嬢が――」
「アリーヌ嬢は、僕のことが嫌いなのかな?」
「……いえ、嫌いも何も、殿下のことをまだ存じ上げませんので」
「なら、可能性はあるということだね。では、“仮の婚約”という形はどうだろう?」
「……ふぁ?」
思わず変な声が出た。
仮、という言葉だけが柔らかく、実態は逃げ道のない首輪のように思える。
動揺していると、殿下が軽やかに立ち上がり、テーブルの上に一枚の書類を広げた。
そこには、すでに私の名前が記された婚約証明書。
横目でお父様を見やると、苦い顔のまま小さく咳払いし、なぜか沈黙を選んだ。
――やはり、共犯らしい。
その後も議論は続き、気づけば二時間が経っていた。
何度説得を試みても、殿下はまるで微笑む壁のように揺るがない。
最終的に、私が折れる形となった。
条件として、学園を卒業するまでは仮の婚約とし、その後、望めばいつでも破棄できるという約定を結ぶことになった。
だが、“仮”とはいえ正式な文書に署名してしまった以上、破棄されて断罪の口実にされる可能性がある。
――完全に失策だ。
殿下を見送った後、部屋に戻った私は、ソファにもたれながら深く息を吐いた。
婚約回避作戦――初戦、完敗。
それどころか、敵は初手から書類まで用意してくる周到ぶりである。
あの笑顔の裏に、どれほどの策略があるのか想像したくもない。
とはいえ、嘆いてばかりもいられない。
次は“作戦B”を立てなければ。婚約そのものを回避できないのなら、せめて破滅フラグをへし折る方法を見つけるのだ。
――けれど、その前に。
明日は、少し街に出てみよう。
気晴らしに外の空気を吸えば、もう少し冷静に考えられるかもしれない。
そう思いながらベッドに横たわると、張り詰めた糸がぷつりと切れたように、意識が遠のいていった。




