42. 指先の距離
「最後に、少し寄り道していい?」
「ええ」
殿下の視線の先には、昔から好きなパン屋――ブランジュリ・リュミエール。
「さすがですわ。このパン屋さん、とても美味しいんですのよ」
「ふふ。それは良かった」
焼きたての香りに包まれながら、パンを選ぶ。
クリームパンを二つと、お土産に食パンと葡萄パンを買った。
「折角だから、ベルヴュー公園で食べようか」
「いいですわね」
歩くたび、手が触れそうで触れない距離が続く。
風が揺れる。人を避けた拍子に――指先が触れた。
数歩後、殿下の小指がそっと私の人差し指に絡む。
横を見ると、彼は前だけを見ていた。
だけど、耳まで真っ赤になっている。
(……ずるい)
高鳴る鼓動のまま、見つけたベンチに腰を下ろし、クリームパンを頬張る。
殿下の表情がふっと緩んだのが嬉しくて、胸が温かくなった。
食べ終わる頃――殿下から小さな袋が差し出される。
「これ、アリに贈りたい」
開けた箱の中には、先ほど店で見つめていたアクアマリンのネックレスがあった。
「さっき、見ていただろう? それ……僕の色だよね。君に贈りたくて」
頬がじんわり熱くなる。
「……ありがとうございます。実は、私も」
私はカバンから、静かな品格を宿した金のカフスボタンを取り出した。
最初に寄った小物屋で買ったものだ。
「……君が選んだの?」
「ええ。似合うと思って」
「……嬉しい」
短い言葉なのに、胸の奥まで沁みていく。
殿下はゆっくりと私の方へ向き直り、真っ直ぐに微笑んだ。
「じゃあ……今度、君の前で正式に着けるよ」
「ふふ、楽しみにしていますわ」
◇
帰りの馬車は、行きとは違う静けさだった。
窓の外では街灯が点り始め、夕暮れが静かに夜へと変わる。
馬車の揺れが、心の余韻をそっと撫でていく。
ふと横を見ると、目が合った。
「……楽しかった?」
その問いは、どこか慎重で。
まるで答えを怖がっているようだった。
「ええ。とても」
「……よかった」
彼はかすかに息を吐く。肩の力がほどけるのがわかった。
(もしかして……殿下も緊張、していたの?)
そう思うと、頬が自然に緩んだ。
やがて馬車が静かに止まる。
屋敷に着いた頃には、空はすっかり夜の色に染まっていた。
玄関までの数歩。
歩幅を合わせてくれるその優しさに、胸がわずかに締めつけられる。
「今日はありがとう。……本当に」
「こちらこそ。お誘い、とても嬉しかったです」
「――また、行こう」
「ええ。ぜひ」
殿下は満足げに、けれど少し照れたように笑った。
「じゃあ……おやすみ。アリーヌ」
「おやすみなさい――シリル」
馬車が遠ざかる。
夜風が静かに頬を撫で、今日の温度だけが身体に残る。
(もし、この優しさを信じて――裏切られたとしたら。
その時、私は……)
答えは出ないまま、馬車の灯りが見えなくなるまで立ち尽くしていた。




