番外編3 始まりの記憶
ようやく、アリーヌの一日を“俺のためだけに”もらうことができた。
その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
――いや、温かいなんて生易しいものじゃない。今の俺は、浮かれている。
「……殿下?」
向かいの席からシルヴァンが怪訝そうに眉を寄せる。
後ろに控えるエリックまで同じ顔をしていた。
「何?」
「いえ……随分とご機嫌なので」
「ふふ、そうだろうね」
「……妹に何かしましたか?」
心外だ、と口にしようとして、やめた。
反論すればするほど怪しいのは理解している。
「何も。むしろ、アリーヌだって少し嬉しそうだったよ?」
そう返すと、シルヴァンは大きくため息を吐いた。
「ということで――五日後、アリーヌと出かける」
「最近やたら仕事を片付けていると思ったら……やはりそういうことでしたか」
呆れた声は軽く受け流し、机の地図へ視線を落とす。
公爵家のメイドから仕入れた情報によると、魔導士養成所から帰ってきたアリーヌは、好きな街歩きをする余裕がなくなったらしい。
ならば行き先は決まっている。
――公爵領アルベルクだ。
彼女が好きな店に印を付けていく途中、とあるパン屋の名前に、ふと手が止まった。
「……ああ、懐かしいな」
思わず漏れた声とともに、記憶が蘇る。
◇
アリーヌとの出会いは、あの華やかな夜会が初めてではない。
最初は――俺が八歳の頃だった。
雪が解け、街がようやく春を受け入れ始めた頃。
シルヴァンが母君へ届け物があると言うので、開発が進む公爵領の景観を見てみよう、と軽い気持ちで同行した帰り道のことだ。
馬車の中、滅多に表情の変わらないシルヴァンが突然、息を呑む。
視線の先にいたのは――パン屋から軽やかに駆け出してくる少女。
陽光を受けて透き通る薄い茶髪。春の光を閉じ込めたような金色の瞳。
風に揺れる髪先は、小さな光を散らしていた。
目の前に現れた兄に気づいた少女――アリーヌは、一瞬驚いた顔をした。
しかし次の瞬間、無表情に戻り、兄の小言を華麗に無視して逃げていく。
その後ろを、身を隠した護衛が四人追っていった。
公爵家らしい厳重さだと納得しつつ、俺は戻ってきたシルヴァンをちらりと見た。
「……また脱走です。危ないとあれほど言っているのに」
珍しく眉間に皺を寄せているシルヴァンを見ながら、その様子に少し驚いたのを覚えている。
そのときの少女の印象は――ただ一言。
兄に似ている、だった。
王宮で取り繕った笑みしか見せない令嬢たちよりは、ずっと素直で自然体だ。
だが、それ以上の何かを感じたわけでもなかった。
そのうち、どこかでまた会うだろう。
公爵家の令嬢なのだから、と思っていた。
――あの夜会が再会の舞台になるとは、あの頃の俺は知る由もなかった。




