98話
カクレンは逃げに逃げた。
血はやがて止まり、乾いていく。体は一回り小さくなっていた。
男であった部分はそげ落ち、急速に女らしい肉体へと戻っていく。
反動なのか、ジセンの魔法を施される前よりも筋肉は衰えていた。
久しく止まっていた月のものも、再び始まっていた。
「……女に戻ってしまったというのか……」
率いていた将兵のほとんどを失い、身の回りに残ったのは千人ほどであった。
カクレンは統万城へ戻った。
ここにはまだ一万の兵が残っており、城を守っていた。
「恐怖では、人を従えることは出来ないと言ったでしょう?」
「うるさい! 黙れ!」
カクレンはレイの頬を平手で打った。
「あなたは終わりよ。草原は、ケイのものになるわ」
怒りに任せ、カクレンはレイを押し倒そうとした。
だが、そこで動きが止まった。
男の象徴が、もはや自分には存在しないことを思い出したのだ。
「どうやら今のあなたは、ただの女性のようね」
その言葉に、カクレンは愕然とした。
叫びながらレイを牢へ放り込み、自室へ駆け込んだ。
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「ケイ……話がある」
エイゲツは深刻な表情で切り出した。
「どうした、エイゲツ……」
だが、なかなか口を開かない。
沈黙が流れる。
「ケイ……心して聞いて。
レイが……レイが、統万城に囚われているわ」
ケイは言葉を失った。
レイは、生きている。
その事実に一瞬、胸が熱くなる。
だが、すぐに表情が引き締まった。
「統万城か……」
あの城を思い出すと、身の毛がよだつ。
城壁に浮かぶ人の顔、乾いた血痕、瘴気のような不気味な気配。
そこにレイがいると思うと、胸が沈んだ。
「ケイ、どうするの?」
ハクエンが問う。
ジュンカンもサクも、ケイの言葉を待っていた。
ケイは逸る心を必死に抑えた。
今すぐにでも救いに行きたい。
だが相手はカクレンだ。
軽率に動けば、レイの命が危ない。
誰も口を開けなかった。
それほど慎重さを要する状況だった。
やがて、ケイが沈黙を破った。
「……レイを返してもらうよう、交渉しよう」
匈奴の大半は、すでにケイに従っている。
統万城は孤立していた。軍を起こせば滅ぼすことは容易い。
だが、レイを救うため、あえて軍事的圧力はかけなかった。
統万城への使者は、ガナツが担った。
条件はただ一つ。
「レイを返すなら、カクレンの命は取らない」。
「いつからレイが、ケイのものになったと言うのだ!」
カクレンは、レイの真の素性を知らなかった。
ガナツの説明に、目を見開く。
「……なんと。代の公女だったのか!」
幼馴染であることを知り、
ケイの執着の理由を理解した。
「少し、考えさせてもらおう」
そう言って、カクレンは牢へ向かった。
「お前……ケイの幼馴染なんだってな」
レイは黙して答えない。
カクレンの表情には、明らかな企みが浮かんでいた。
「殺すつもりだったが……まだ利用価値がある。
一緒に来てもらおうか」
レイは牢から引き出され、縄で縛り上げられた。
ガナツも拘束された。
交渉は決裂した。
同行していた使節団も全員捕らえられ、
その事実は、ケイのもとへは伝わらなかった。
⸻
「……まだ、ガナツは戻らないのか」
すでに三週間が過ぎていた。
統万城からは、
「ガナツはまもなく帰る」
という使者が来ていた。
だがケイは安心できず、探りを入れた。
やがて、衝撃的な報告が届く。
匈奴・後秦・涼――
三国連合軍、十五万が侵攻を開始したという知らせであった。
カクレンは時間稼ぎをしていたのだ。
カクレンはかねてから、水面下で後秦と接触していた。
草原を統一するまでは、
後秦や西燕といった長城以南の諸国に
介入されたくなかった。
後秦のヨウチョウが、
秦のフケンを裏切り殺し、
レイの夫であるフトウも手にかけたことは知っていた。
最後まで陳倉を守っていたレイに、
執着があるであろうことも想像できた。
カクレンはレイを引き連れ、
密かに統万城を出て、
後秦の拠点である天水へ赴いていた。
「支援をしてほしいだと?
馬鹿なことを言うな」
ヨウチョウは、カクレンとの会談でそう言った。
その要求を鼻で笑う。
今、後秦は西燕と長安を巡って戦争をしている。
草原の争いに首を突っ込む余裕はなかった。
「まあ、お前が身を捧げるなら、
考えてやらんでもないがな」
ヨウチョウは、カクレンを揶揄した。
化け物だと聞いていたが、
実際に見る姿は背が高く、
逞しい体つきでありながら、
顔立ちや胸は女のそれであった。
ヨウチョウは、十分にそそられていた。
「まったく、父上は玉が無いくせに旺盛なことだ」
ヨウチョウの子、ヨウコウはゲラゲラと笑った。
――下衆なやつらだ。
普段のカクレンなら、
女扱いされたうえに、
これほどの侮辱を受けて黙っているはずがなかった。
だが今は、唇を噛み締め、
ぐっと耐えるしかなかった。
「わたしなんかを抱くより、
もっとよい女を用意しています」
カクレンが合図を送ると、
縄に縛られた女が連れてこられた。
ヨウチョウもヨウコウも、目を見開いた。
レイであった。
二人は、かつてレイを妃に迎え入れたいと願っていた。
陳倉を陥落させたにもかかわらず、
逃げられた女が、今、目の前にいる。
二人は満面の笑みを浮かべた。
レイを妃とする。
それは、秦を滅ぼした記念として、
最高の戦利品であった。
ヨウチョウは、
エイゲツに玉を潰されたことを、
これほど恨んだことはなかった。
本当は、レイを手に入れたかった。
だが、それは叶わない。
「良い土産だ。
賀蘭部を討つため、軍を出すとしよう」
ヨウコウは上機嫌で言った。
――こいつら、いつか殺してやる。
カクレンは屈辱に耐え、
復讐を心に誓った。
後秦は四万の兵を出した。
対西燕の戦もあり、
これが限界であった。
大将は、ヨウセキトク。
ヨウチョウの血縁である。
「これだけでは賀蘭部は討てません。
涼にも声をかけましょう」
ヨウアンが進言した。
ヨウチョウは顔をしかめた。
涼を建てたリョコウとは、喧嘩別れした仲である。
だが、引き込まねば勝ち目はない。
ヨウアンは自ら使者を買って出て、
敦煌へ向かった。
カクレンは、
ヨウセキトク率いる後秦軍を従え、
統万城への帰途についた。
道中、離反した匈奴の族長たちを斬り伏せ、
再び恐怖で従わせていった。
匈奴軍は、再び膨れ上がっていく。
統万城に着くと、
ヨウアンからの急使が届いていた。
涼も五万を出すという。
「ケイ……首を洗って待っていろ!」
カクレンの胸には、
復讐の炎が渦巻いていた。
斬られた傷は、
まだ生々しく、疼いていた。




