90話
賀蘭部は、オルドスと呼ばれる地域に位置する。
西側には匈奴がおり、南と東側は、チュウが建てた西燕と接している。
チュウの目は関中に向いており、ヨウチョウ率いる後秦との戦いを繰り広げている。
ボヨウスイはその隙をつき、北上して襄国などの都市を攻略していった。
トクもまた周辺の地を攻め取っていた。
そのため、西燕と接しているとは言え、その影響は弱く、賀蘭部は比較的平和に過ごしていた。
「そうか……」
ケイはガナツに案内され、盛楽へ向かう途中、長安、そして陳倉陥落の知らせを聞いた。
ついに秦は滅んだ。
レイの身を案じたが、それは分からなかった。
盛楽に着いた。
そこは都市というより、大小の多くのテントが立ち並んだ、大きな集落という感じであった。
羊の群れが草を喰んでいる。冬になれば、もう少し南に移動するのだという。
「あなた様の母上様がお待ちです」
代の滅亡後も、母は存命であった。
ケイはレイと共に捕らえられ、奴隷となったが、母はガナツと共に賀蘭部へ逃れてきていたのだ。
母の名はシュクランといった。
ガナツに案内され、一際大きなテントに通された。ケイだけではなく、ジュンカンやハクエン、サクも一緒であった。
ケイは、母の顔を見るのは初めてである。
元のケイの記憶を辿り、母がどのような人柄であったか思い出そうとした。
だが、ケイは母との思い出がそれほど無いようであり、顔と声の記憶がある程度であった。
「よく生きて帰ってきてくれました」
感動の再会を想像していた。母シュクランは目を涙で滲ませていたが、ケイはそれほどの嬉しさも何も感じていなかった。
母との記憶よりも、レイと一緒に過ごした時の方が、深く心に刻まれていたのだ。
「ところでレイはどこにいるのですか?」
母の質問に、ケイの心は沈んだ。
何も答えたくなかったが、代の滅亡から奴隷になり、レイが皇后になったこと、陳倉陥落で行方不明であることを語った。
ジュンカンもハクエンもサクも、ケイの話を沈痛の面持ちで聞いていた。ガナツも同じである。
だが、母だけは反応が薄かった。ケイはその様子を見て思い出した。
母はこういう人なのだ。
他人にあまり関心がなく、素っ気ない。
ケイは母から愛情を感じることができず、小さい時から避けていたのだ。
「では、あなたはどなたを妻としたのですか? 全員?」
母は空気も読まず、ジュンカンたちの顔を見渡して、誰がケイの妻なのかを聞いてきた。
皆、思わぬ質問に驚いた。
「母上! やめてください。この者たちは妻ではありません!」
「あら? どうして? あなたの年頃なら、おかしくない話でしょう?」
ケイは狼狽すると同時に、腹が立ってきた。
奴隷に落ち、戦に明け暮れていたのだ。
代の公子ではない。
誰かを妻に迎え入れるなど、できる立場ではないのだ。
「いまは戦時です。そんな暇はありません」
ケイはそう答えるのが精一杯であった。
その後の会話はたわいもないものであったが、最後に母が聞いてきた。
「あなたはこれから、どうするつもりなのですか?」
ケイは一呼吸つく。
周囲を見渡し、宣言するように言った。
「皇帝となり、天下を統一します」
ケイの言葉に、母もガナツも驚いていた。
当然だとケイは思った。
突然現れた息子が、皇帝になると言っているのだ。
現実離れして聞こえたのであろう。
だが、母もガナツも、どこかバツが悪そうな顔をしていた。
ケイが不思議そうにしていると、ガナツが口を開いた。
「実は、わたしたちは匈奴に従うことにしたのです」
賀蘭部は決して強大な部族ではなく、それをまとめ上げる人物もいない。
どこかに庇護を求めるのは、当然の成り行きであった。
一方で、匈奴には百年に一度の王が現れたという。
かつて漢を苦しめたボクトツの再来なのだと言う。
その王の名はカクレンといった。
――まさか、あのカクレンなのか……。
ケイはその名を知っていた。
史実において、この時代の匈奴の王と言えば赫連勃勃が有名であった。
戦に強いが、それ以上に残虐な王として名を残している。
そのような者の下につくなど、危険であった。
「お考え直しください。賀蘭部が滅んでしまいます」
ケイは母に向かってそう言ったが、意外な答えが返ってきた。
「あら? 何を言っているの? 彼女は素晴らしい方よ?
賀蘭部を守るためには、必要なことだわ」
――彼女? 素晴らしい?
ケイは頭が混乱した。
カクレンは女だと言うのか。
しかも、この世界では善人だとも。
「あなたも会えば分かるわ。あの人の素晴らしさを。
今度、会いに行くの。あなたも一緒にいらっしゃい。
そうだ! いいことを思いついた。
あなたはカクレン様に婿入りするのがいいわ!
そうすれば賀蘭部の未来は明るいわ!」
母が興奮して捲し立てるのを、ケイは愕然として聞いていた。
目の前が真っ暗であった。
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一方、匈奴の国都・統万白。
盛楽と違い低いが、城壁に覆われている。
大小のテントが立ち並ぶのは変わらないが、中央の館だけは石造の建物であった。
カクレンの居城である。
カクレンは寝床に横たわっていた。
その側には、額に傷のある女性が裸で添い寝している。
「ふふん。賀蘭部が降伏してくるそうだ。
奴らを併合したら、関中に出るぞ。
エイゲツ、その時はお主が先鋒となれ」
エイゲツは静かに頷いた。
そしてカクレンはニヤリと笑い、唇を重ねるのであった。




