89話
陳倉は落ちた。すでにフトウは死に長安は落ちている。完全に秦は滅んだ。ヨウチョウは陳倉の本丸の中に抜け道があるのを見つけた。
「おい。あの抜け穴はどこに通じている」
ヨウチョウはランカの顎を掴み、ぐいっと顔を引き上げて皇后がどこへ逃げたか聞いた。
「誰が答えるか!」
ランカはそう言い、ヨウチョウに唾を吐き掛けると、ヨウチョウはゆっくりとその唾を拭った。
「まあよい。皇后が逃げたところで秦が滅んだ事は変わらん。どうだ、お前。皇后の代わりに俺の妾にならんか?」
ランカの容姿も悪くない。それにヨウチョウは気の強い女が好みでもあった。
「皇后様の代わりだと!?誰がお前の妾になどなるか!この王殺しの裏切りものめ!」
頬を叩かれる乾いた音が響く。
「大将、玉を潰されたくせにまだ助平根性丸出しなのか?俺に褒美でその女をくれよ」
リョコウはヨウチョウにランカを寄越せと迫った。ヨウチョウは度重なるリョコウの玉無し発言に怒り心頭であった。
「黙れ!取り立ててやったのになんだその態度は!?貴様に与える褒美などない!」
「あ!?ふざけるなこの玉無し!てめえには女など不要だと言ってるんだ!」
ヨウチョウは剣に手をかける。リョコウも剣に手をかけ、睨み合った。ヨウアンとヨウコウは割って入り、リョコウに謝罪せよと言う。
「ふん!やってられるか!こいつは貰っていくぞ!」
リョコウはランカを引き立て本丸を出た。ヨウチョウは切ってやろうと剣を抜いたが、ヨウアンとヨウコウに止められて、リョコウの背中に散々、悪態をついた。
やがてリョコウが1万を連れて立ち去ってしまった。
「敦煌に帰るぞ。女、お前もついてこい」
ランカは何故、リョコウが自分を連れて行くのか分からなかった。だが、あの場に残されたらヨウチョウに屈辱的な事をされていたであろうことは容易に想像出来た。ランカは殺してくれと言おうとした。だが、リョコウが圧倒的優位な状況にも関わらず一騎打ちに応じた事を思い出した。あれは武人の矜持というものであったのか。また、リョコウの手が予想に反して温かった。ランカは何も言えなかった。
リョコウを追う軍は無かった。ヨウチョウの目は長安に向いており、リョコウに構っている余裕は無かったのである。
日が暮れてくる。敦煌までは何日もかかる。軍営の中でリョコウはランカの縄を解き、ゆっくりと口付けた。戦場の荒々しさと、あの口の汚さからは想像も出来ない優しい口付けであった。ランカはもうどうにでもなれと思いリョコウに身を寄せた。
ケイは夢を見ていた。モクランが薄衣を脱ぎ白い肌をケイに密着してくる。ケイは息を飲んだ。そこはしっかり反応し、モクランのそれを押しこもうとしている。
やがて、モクランの顔が、ジュンカンに変わり、サクに変わり、エイケヅに変わっていく。
ケイは困惑した。さらにエイケヅからハクエンへ、そしてレイに変わり、ケイはハッとして目を覚ました。
「レイ….レイどこだ!?」
ケイはレイを探して辺りを見渡した。ケイは馬車の荷台にサクと一緒に乗っていた。レイは居ない。
「ケイ、気づいたのね」
サクはそう言うと、ケイのあれを見て眉を顰めた。
「何かいやらしい夢でも見ていたようね」
ケイはサクの視線の先を見て、顔が赤くなった。それと同時に、頭の中ではレイの事が心配なのに、体の素直な反応に困惑した。中身は60歳近いのに、それを忘れてしまうほど、もはやケイの体は心と一体になってきていた。
「気づいたかケイ!盛楽に向かってるぞ」
ジュンカンは馬を寄せケイに行き先を言った。盛楽は遥か北にある代の発祥の地であった。もう何日も夜通し駆けているらしい。兵たちは疲れた顔をしていた。
万里の長城が見えてくる。この辺りはどこの影響下にも属さない空白地であった。
「長城を越えると草原だ。何が出てくるか分からない。この辺りで休もう」
ケイはジュンカンに伝えた。兵たちはようやく休めると安堵していた。軍営が立てられ、炊飯を始める。
ハクエン、ジュンカン、サクがケイを囲むように座った。エイケヅは居なかった。どうやらヨウチョウに破れ行方不明なのだという。陳倉がどうなったかも分からなかった。
「みんなすまない。俺の為に….」
ケイは頭を下げる。
「あたなのせいではないわ。ところで盛楽に行って、何かあてがあるの?」
ハクエンの問いにケイは思案した。正直、今の北の情勢がどうなっているかは分からなかった。史実ではケイは奴隷にならず、北に逃れ母方の賀蘭部という部族に匿われている。この世界でも賀蘭部が味方になるのか確信は無かったが、それしか思いつかなかった。
「母方のガ氏を頼ろうと思う」
代の滅亡後に母がどうなったか分からなかった。生きているのかも、死んでいるのかも。だが、母の出身地であるオルドス地域の賀蘭部はまだ存在していた。
「ケイ!馬蹄の音が聞こえるわ」
サクが警戒し弓を手にした。ジュンカンも戦闘準備と兵たちに合図を送った。不眠不休の逃亡で、みな疲労の極みにあった。ここで襲撃されると一溜まりも無かった。
馬蹄が近づいてくる。あたりは薄暗く相手がどれ程の数なのか判別できない。ケイは手に汗をかいた。馬車で運ばれていたのだ。他の誰よりも疲れていない。剣を抜いた。
「どこの軍だ!この地に何の用だ!」
呼び掛ける声は少し緊張しているようであった。こちらは1万の軍なのだ。それが突如現れたとあれば、脅威であるに違いない。相手は斥候のようで五百ほどしかいない。ケイは一か八か名乗った。
「代王タクバツセキの子、ケイである。軍を従え代の地に帰還するものだ!」
相手はそれを聞き騒ついているようだった。やがて1人の男が前に出た。
「本当にケイ様なのですか!?わたしの名はガナツです!覚えたおられますか!?」
ケイは記憶を辿る。史実ではなく本当のケイの記憶だ。史実ではガナツは北魏建国の功臣である。だが、この世界は史実通りではない。本当にガナツが味方なのかケイ本人の記憶を頼りにするしかなかった。
沈黙と緊張が走った。
代が滅ぶ前に誰がいたのか。母の顔も思い出せる。その側には何人か賀蘭部の者もいたはずだ。ケイは剣を持ったまま前に出た。サクは弓を引き絞っていたが、ケイは手を上げ納めろと言った。
「おお!本当にケイ様だ!ご立派になられて!」
ガナツと名乗った男はひざまつき涙した。ケイも思い出していた。間違いなく母の側に居た男だ。ケイはガナツの肩にそっと手を掛けると、ガナツは号泣した。その様子を見て兵たちは安堵する。
月明かりがケイを照らす。ケイの顔は覚悟に満ち静かであった。




