79話
青州は異質な土地であった。王侯や軍による統治は行き渡らず、独自の支配体制の下にあった。
それは宗教である。
二百年以上前の昔、漢は宦官や外戚による腐敗政治や飢饉によって全土が疲弊していた。民は重税に苦しみ、もはや政治に期待していなかった。そこに現れたのが太平道のチョウカクである。彼の教えは、この世に絶望し救済を求めていた民の間で急速に広まっていった。
「蒼天すでに死す。黄天立つべし」
信徒が何十万になった時、チョウカクは反乱を起こした。信徒たちは黄色の布を頭に巻いていたので、それは黄巾の乱と呼ばれた。
やがてチョウカクが死に、黄巾の乱は後の三国志の英雄たちに平定されるのだが、青州にはその残党たちが残り続けた。魏のソウソウは青州を平定し、黄巾の残党を青州兵と呼び従えていたが、その子孫たちがなおも青州を拠点に活動を続けていたのだ。
晋が崩壊し、多くの民族が国々を立てる群雄割拠の時代。戦争と裏切りが当たり前になるにつれ、民は再び太平道に救いを求めるようになっていた。
「なんだ……ここは?」
青州に入ったトクは、その異様な雰囲気に息を呑んだ。ほとんどの民が頭に黄巾をつけている。太平道の信徒は燕の役人を追い出し、軍を作り自治をしていた。
信徒たちとは戦争にならなかった。信徒軍を率いる者が、トクに信仰を認めるならば従うと言ってきたためだ。トクは余計な血を流さずに済むのであればと考え、彼らの信仰を認める代わりに税を受けることにした。
トクは太平道の現教主に会った。男を予想していたが、教主はビャクレンという女性であった。彼女は清楚でもあり、妖しげでもある。
トクを見る視線は慈愛に満ちてもいて、妖艶でもあった。トクはその両面を持ったビャクレンに魅了された。トクが太平道の信徒になるのは時間が掛からなかった。
信徒になる儀式は妖しげな雰囲気を醸し出していた。仄かな蝋燭の灯りの中、ビャクレンが生米を咀嚼し、それを入信する者に口移しで与える。
普通の信徒であればそれで終わりなのだが、トクは燕の将軍である。ビャクレンはトクの手を引き、奥の寝室へ誘った。ここから先は信徒を束ねる大司祭となる者に行われる儀式であった。
灯りが一つ、また一つと消えていく。
ビャクレンの低い声が暗闇の中に響いた。言葉ではなく、祈りのような音であった。トクは何も考えられなくなっていた。ただビャクレンの存在だけが、闇の中に浮かび上がっている。
どれほどの時間が経ったのか分からなかった。
夜明けの光が差し込む頃、トクは静かに目を開けた。体の奥から何かが変わった感覚があった。儀式は終わった。トクは太平道の大司祭となったのだ。
「王などくだらない……民を救うのは信仰だけだ」
トクはいつしかそう考えるようになり、自分らが奉戴した王ボヨウイを殺害した。ボヨウスイに不満があったわけではないが、結局は王侯貴族が支配する世になることは変わらない。トクは信仰が支配する世に変えるべく、太平道の国家樹立を宣言した。
ボヨウスイはトクの行動に驚愕した。弟であり、長年付き従ってきた副将である。それが太平道に溺れ、国を建ててしまうとは思ってもいなかった。
燕は、ボヨウスイ、チュウ、そしてトクの三国が乱立する異常な地域となった。トクが独立した事で、ボヨウスイはこれ以上の北上をすることが出来なくなり、鄴を拠点に体制を整えた。
東晋のシャアンも、燕の情勢が不穏すぎて動くことが出来ず、秦の襄陽に矛先を変えた。燕は三すくみとなり、膠着するのであった。
ヨウチョウは軍備を整え、長安に向けて再度侵攻した。ヨウコウには三万を与え、陳倉攻略を命じた。先鋒をリョコウの二万とし、ヨウチョウ本隊四万はそれに続いた。
陳倉の守備は五千である。この城は秦の食糧庫である。山間の隘路に建ち、城門は一つしかなく、城壁は普通の城の三倍はあり、とても分厚かった。城門に繋がる道も蛇行していた。
かつて蜀のショカツリョウが魏を討つために十万の軍で陳倉を攻めた。だが、魏将カクショウはわずか三千で守り抜き、蜀はカクショウが生きているうちは陳倉を落とすことが出来なかったのである。
レイは陳倉を五千で守っている。ケイの千人隊は主力であった。ケイはあの夜以来、レイに会いに行くことは出来ていない。軍議の場で顔を合わせ、作戦について話す程度であった。ランカの目が光っている。ケイは悶々とした日々を過ごしていた。
フトウはトウ兄弟に三万を与え、敵の先鋒を迎撃せよと命じた。そしてエイゲツの率いる旧モクラン軍三万に、後から来るヨウチョウへの奇襲を命じた。フトウ自身は二万で長安に籠った。そこにはジュンカンの五千人隊も居たのだ。
フトウは、ジュンカンが名家の出であり美貌の持ち主であったことから、側に置きたいと考え、ジュンカンを旧モクラン軍から切り離したのである。
フトウはレイの献身に心を打たれ妃としたのだが、レイの真っ直ぐで頑固な性格に触れ、尻に敷かれているように感じていた。そしてレイが軍でも活躍し、人気が高まるのを見て、フトウは自身の影が薄くなっていると感じ、レイを遠ざけるようになっていた。レイを陳倉に押し込めたのも、それが主な理由だったのだ。
「どうだ、ジュンカン。今宵、朕のもとを訪ねよ」
フトウはジュンカンに手を出そうとした。だが王であるフトウに、その自覚は無かった。
「いまは戦時ですので……」
ジュンカンは戦時中であることを理由に断った。フトウは内心不満そうであったが、そう言われると無理に呼び付けるわけにいかなかった。
ジュンカンは舌打ちした。こんな奴のために戦うなど、ケイもレイも可哀想だと思った。また、王の側に居たら自分の身も危ういと感じ、なるべく長安の郊外に野営することにした。
「ケイ……早くレイを連れて逃げ出してこい……」
ジュンカンは、このままヨウチョウとの開戦となることに、嫌な予感がしていたのであった。




