76話
チュウの軍は十万に膨れ上がっていた。その勢いはすでに太原一帯を飲み込み、長安に迫るほどであった。フケンは潼関でチュウを止めるつもりであったが、秦に対する反乱の波は関所の中にまで侵食していた。
エイゲツやフトウは長安周辺で起きた反乱鎮圧への対応で精一杯で、チュウの侵攻を止めることが出来なかった。
「ヨウチョウの軍はまだ到着しません。いったんは陳倉へ退避しましょう」
フトウはフケンに言った。陳倉は長安の米倉と言っていいほどの補給拠点であった。長安は周辺の反乱の影響で著しく治安が悪化しており、籠城してチュウを迎え撃つには不安が大きかった。
フケンは頷き、フトウに先行せよと命じた。フトウは三万の軍を率いて出発した。そこにはレイの姿もあった。
レイは鎧と弓矢で武装していた。彼女の治癒魔法は、秦のどの治癒士よりも上回り、治癒魔法の根幹である木系統の戦闘用魔法も身につけていたのだ。フトウ軍における精神的な支柱になりつつあった。
「レイを追わなくては……」
ケイは焦った。旧モクラン軍は将軍格であるエイゲツに受け継がれたと見られている。フケンもそう見ており、エイゲツに命令を下していた。千人将であるケイは、フケンの意思に反して旧モクラン軍を動かすことは出来なかった。
「いずれ追いつく。ケイは先に、わたしの命令だとしてフトウ様の援軍に行くといい」
エイゲツはケイに、フトウを追えと言った。将軍から千人将への指示ならば自然で、誰も疑う余地はない。
「すまない……エイゲツ。先に行かせてもらう。ハクエン、サク、行こう」
ケイは千人隊を率いて駆けた。
フケンはチュウの長安包囲が終わるまでに、わずかな護衛を連れて陳倉へ向かった。それはエイゲツら主だった者たちしか知らない、極秘の脱出であった。
「さてと。やるとするか」
エイゲツはジュンカンに声を掛ける。フケンから長安で足止めせよと指示を受けていたが、エイゲツは守るつもりはなかった。ケイはレイを攫い北へ逃げる。エイゲツとジュンカンは、適当に長安を守る姿勢を見せた後、北へ行きケイと合流する手筈であった。
「ところでジュンカン。最後にケイと寝たのはいつだ?」
「な……? 何を言ってるのよ、突然……」
エイゲツの唐突な質問に、ジュンカンは驚き、顔を赤らめた。
「お前、レイにケイを取られると思っているのだろ」
ジュンカンは図星を突かれ、返す言葉がなかった。
「よく聞け。王となると後継をつくらねばならない。正室一人だけなわけないだろう」
一夫多妻が当たり前の世界だ。王となれば、確実に世継ぎを残すため、側室も何人もいるものだ。
「……何が言いたいの?」
ジュンカンは聞いた。
「お前にも機会があると言ってるんだ。だけど、寂しい時もあるだろう。その時は、わたしが慰めてあげるよ」
エイゲツはそう言うと、ジュンカンの肩をそっと抱き寄せた。
「え……女同士で、そんな……」
ジュンカンは戸惑い、身を固くした。だが、エイゲツの腕の温もりは思いのほか柔らかく、抵抗する気が次第に失せていった。
「可愛い娘……これはお互い様なのよ」
エイゲツ自身も慰めを求めていた。ジュンカンはエイゲツの胸に額を預けるように、そっと身を寄せた。
軍営の灯りが消えるのは、ずいぶん遅かった。
チュウは慎重であった。長安周辺の街を押さえることを優先した。長安は腐っても首都である。落とすには時間が掛かる。その間にヨウチョウの襲撃を受けることを警戒したのだ。チュウは長安を遠巻きにするように軍を展開させた。
ヨウチョウは千載一遇の機会にありながら躊躇していた。涼の刺史となり、西域との交易で潤っていた。淝水の戦いでも、留守になった東晋領を荒らし、物資を蓄えていた。フケンには言っていないが、その軍は十万を超えつつあった。
ここでフケンを襲えば殺すことは出来る。だが、一族が殺された恨みがありつつも、王殺しの汚名が生涯にわたって付きまとうことに抵抗があった。
「あなたの恨みなど、所詮そんなものか」
ヨウアンはヨウチョウを嘲った。
「そんなに気になるなら策がある」
ヨウアンは続けた。
「死んだフソウの子に、フヒという者がいる。それを王として立てるのだ」
ヨウチョウは何を言っているのだと思った。フソウは氐が滅んだ時、フケンに打ち首にされていた。だが、考えると妙案に思えてきた。
「なるほど。フケンは正統な王ではない、というわけだな」
「そうだ。乗ってきたではないか。フヒはまだ幼い。用済みになれば病死したことにすればよい」
ちょうどその時、フケンの使者が来た。長安を脱出したフケンを庇護せよ、というものであった。二人はニヤリとほくそ笑んだ。
ヨウチョウは息子のヨウコウを陳倉へ向かわせた。あそこの穀物を、関中に侵入してきているチュウに渡すわけにはいかなかった。
ヨウチョウは自らフケンを出迎えるべく出陣した。いよいよ、その時が訪れたと覚悟を決めて。




