65話
モクランは、天水帰還の報告に来たケイの顔が沈んでいるのを見て、何があったのかと心配して尋ねてきた。ケイは長安であった出来事を語った。
モクランは唯一、ケイが代の公子であることを知る人物である。そしてレイのことも知っている。モクランはケイの話を聞いて、何と言ってよいか分からなかった。
もとより、そのような男女の話には疎いのだ。しかも、この話は常人ではとても経験できない内容であった。
「いっそのこと、ケイが代の公子であることを名乗り出てはどうだ?」
モクランはそう言ったが、ケイは首を横に振った。今、名乗り出ると余計に拗れると思ったからだ。レイは、ケイと皇太子が争うことを望んでいないはずだと感じている。
「ならば、ケイ。目指す道は将軍になることだ」
ケイはモクランの言葉に、今度は頷いた。皇太子に自然な形で存在を認めさせるには、将軍という地位が必要だ。そうすれば、レイとも接する機会が出てくるかもしれない。
―――もっとも、俺は将軍より上を目指しているのだがな。
ケイは心の中では、史実通り皇帝になることを目指している。そして、その際に皇后として隣にいる女性はレイであるとも。モクランの言葉によって、ケイはより一層決意を固めた。
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帰還した時間が遅かったせいか、あたりは暗かった。天水は長安や鄴といった大都市とは比べようもなく、太原のような地方都市であり、夜遅くまで開いている店なども少なかった。
ケイはジュンカンの軍営を目指して歩いていたが、その途中でばったりとエイゲツに会ってしまった。この間会った時、エイゲツは戦場で窮地に陥り、ケイに助けられたことを気にしているようであった。
「よう、色男! 長安ではサクちゃんとだいぶ仲良くなったみたいだな!」
エイゲツの突然の言葉に、ケイは面食らった。五百人隊の隊員たちは、今回の長安でケイとサクが仲良くしていたことを知っている。どうやらそれが噂になっているようだ。もしかしたら、ジュンカンの耳にも入っているかもしれない。
「サクちゃんって……」
エイゲツはケイの手を掴む。
「なに、そんな難しい顔してるのさ。ここで会ったら最後、今日は逃がさないよ」
ケイはエイゲツの胸元に視線がいってしまった。その胸元は、誘うように谷間を覗かせている。レイのことで苛立ちもあったケイは、ならばエイゲツにこの鬱憤をぶつけてやると、初めて誘いに乗った。エイゲツはニヤリと笑う。
「わたしとの関係は、お互い慰め合うだけの割り切りだ。それ以上は求めないし、求めるな」
エイゲツはすでに宿に部屋を取っていた。どうやらケイを待ち構えていたようであった。ケイはエイゲツの言葉に、分かったと答えた。こういう女性との関係もあるのだ。
部屋に入ると、エイゲツは振り返りもせず、静かに上着を脱いだ。躊躇いのない動作であった。ケイは息を飲んだ。
あの森では、エイゲツは主導権を奪われる感覚に陥った。今日は、あの時のようにはいかないと思っていた。だが、ケイが近づくと、エイゲツの体から力が抜けていくのが分かった。
「そんな……また……」
エイゲツは呟き、ケイの胸に額を預けた。強がりも挑発も消え、ただ静かに寄り添っていた。
「可愛いね、エイゲツちゃん」
ケイがエイゲツを揶揄う。
「うるさい……」
エイゲツは小さく唸ったが、離れようとはしなかった。ケイはその肩をそっと抱き寄せる。エイゲツの体が、微かに震えていた。
夜は長かった。
朝方、エイゲツは満たされていた。これ以上のことは求めない。偶然、お互いが必要になった時にすればいいのだ。
ケイの横顔を見た。眠っているのかと思ったが、目は開いていた。
「何を考えてるんだい」
「色々とな」
「また難しい顔してる。長安で何かあったのか」
ケイは答えなかった。エイゲツはため息をついた。
「お前は厄介な男だよ。本当に」
そう言って、エイゲツはケイの胸を軽く叩いた。それ以上は何も言わなかった。二人はしばらく、朝の静けさの中に佇んでいた。
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ケイが隊に戻ると、ジュンカンが待っていた。睨みつけられる。
―――しまった……
ケイは口付けして誤魔化そうとしたが、ジュンカンに押し除けられた。
―――俺はいったい何をやっているのだ……これでは、ただのプレイボーイではないか……
「まず、言うことがあるだろう」
ジュンカンがケイに詰め寄る。
―――修羅場だ……
ケイはそう感じ、答えに窮していた。ケイはてっきり、昨晩エイゲツと共に過ごしたことが知られたのだと思っていたが、違った。
「サクのことを、どうするつもりだ?」
どうやらサクとの噂が、ジュンカンの耳にも入ったらしい。
「サクのことは大事に思っているよ。もちろん、ジュンカンのことも。誰か一人には決められない」
ケイの言葉に、ジュンカンは内心では「わたしだけと関係を持ってほしい」と思い、嫉妬していたが、小さく頷いた。誤魔化すなら殴ってやろうと思っていたが、率直に言ってくれたので手を収めた。サクは、ケイの部隊の副官でもあるのだ。
「ジュンカン、俺は将軍を目指すよ」
ケイの宣言に、ジュンカンは驚いた。ケイも、こんなことを言い出すようになったのかと、成長を感じた。
「そうか。じゃあ、先に将軍になれるか競争だ。もっとも、わたしの方が何歩も先に行ってるけどな!」
ジュンカンは笑い、立ち去っていった。
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涼への出陣は、一週間後となった。各軍、最後の仕上げに余念がなかった。長安からはヨウチョウが、別の進路で向かうという。二方面からの攻撃である。
―――ヨウチョウ……
その名に、ケイは不安を覚えた。史実でヨウチョウはフケンを裏切り、殺している。そして、モウ皇后を殺したのもヨウチョウであった。
これだけ史実とはずれている世界だが、重大な場面では史実と一致していることも多い。
ケイは、レイのために、自ら史実を変えると固く決意した。




