56話
この時代に史実上、秦側で名将とされるのはトウキョウ、チョウシといった人物だった。
その中に一人だけ、詳細なことが分からない武将がいた。名をヨウアンと言った。史実ではこう書かれている。
「ヨウアンは名将であったと」
後世に残るのは、その一文だけであり、ヨウアンがどのように名将であったかは一切伝わっておらず、謎の多い武将であった。
それがこの世界では、フケンと同じ一族である氐の武将となっている。ヨウアンだけが、まだこの世界で登場しておらず、ケイは敵となった時は怖い相手になると危惧していたのだ。
それが現実となる。
川の罠といい、この素早い包囲といい、ヨウアンの策略だと言うのか。ケイは背筋に冷や汗をかいた。
「ふん。初戦は我が軍の完勝か」
ヨウアンは、まんまと秦軍が罠にかかり、所詮はこの程度かと思った。
包囲が狭まる。背後の川はまだ流れが強く、戻ることは出来ない。まさしく背水であった。
背水の陣とは、味方の士気を上げるための決意にすぎない。今のように追い詰められれば、ただの死地であった。
「ケイ、ハクエン。突破しようと考えるな。ここは固まり、近づく敵を屠るのが唯一の策だ」
エイゲツは言う。
「ここに敵が集まるなら、皆殺しにするだけだ! 一人十殺だ!」
エイゲツは檄を飛ばす。一人で十人を殺せという意味だ。
円陣を組んだ。近づく氐軍は次々と射られ、斬られていく。エイゲツもハクエンもサクも、息を切らしながら奮闘した。
エイゲツは石の壁を作る。その合間から、ケイとサクが弓矢を放つ。
石の壁が壊されると、ハクエンが敵を斬りまくる。耐えきれば、モクラン、そしてジュンカンが駆けつけてくれるはずだ。
「ほぅ。この状況で盛り返してくるなど、敵もなかなかやるな。だが、どこまで持つかな」
ヨウアンは余裕の表情で、さらに包囲を強めるよう指揮棒を振る。
まだ川が落ち着くまで時間がある。今は狩りの時間だった。
その時であった。
モクランの軍が川を渡り、突撃してきた。
「なんだと! まだ川は治まっていないはずだ!」
確かに川は、まだ流れが早かった。
だがモクランは俊足の魔法を使い、騎馬を突撃させる。川の流れなどお構いなく駆けた。
「ケイ! 待ってろ!」
モクランが叫ぶ。ヨウアンは初めて驚きの表情を浮かべた。
「どうやら侮っていたか……」
モクランの騎馬隊が氐軍に突っ込む。ジュンカンも続いた。
二人は怒りのままに敵を薙ぎ倒していく。
「被害が大きくなる。兵を引かせよ」
ヨウアンは鐘を叩かせた。氐軍が下がっていく。
モクランは包囲を崩し、エイゲツ軍とケイ隊を救い出したが、この初戦で四千強の兵を失っていた。
氐軍を三千ほどは討ったとはいえ、モクランは敵の手玉に取られたと感じ、悔しさのあまり指揮棒を折った。
氐軍は散りながら山に入っていく。
天水へ続く道は細く、大軍が通るには不向きであった。
モクランはエイゲツ、ジュンカン、ケイ、ハクエンを集め、詫びた。そして気を取り直し、進軍すると伝える。
「この先は慎重に進むしかない。エイゲツ、先行せよ。ただし、本隊の斥候が届く距離を保て」
エイゲツ軍九千が先に進む。斥候を出しながら、慎重に進んだ。
ヨウアンは総大将であるフトを天水郊外まで下げる。
山中に十か所の伏兵を置いた。秦軍を削り続け、山から出てきたところを叩く作戦であった。
日が暮れる。
秦軍は斥候を出し合い、各自の軍の位置を把握して夜営をした。敵は近くにいないようだ。
「ヨウアンだと……」
モクランは、なぜケイが無名の将軍に警戒をしていたのか疑問に感じていた。
ケイには、まだ秘密にしていることがあるというのか。
モクランは満天の星空を見上げながら、ケイのことに思いを馳せた。
エイゲツは軍営の中で、昼間の戦闘を思い返していた。
危ないところだった。ケイの五百人隊が駆けつけなければ、あの大男に組み伏され、殺されていた。
――いや……あの男は、わたしを弄ぼうとする目をしていた……
エイゲツは身を縮ませる。
あのような獣の慰み者になるなど、屈辱以外の何物でもなかった。
その時であった。
突然、外から怒号と闘争の音が聞こえた。
エイゲツが飛び出すと、地面から氐兵が湧き出していた。
「馬鹿な! どこから出てきた!」
ヨウアンは、あらかじめ秦軍が駐屯するであろう場所に、土魔法で地下に石室を作り、兵を潜ませていたのだ。
「このわたしが伏兵に気付かぬとは!」
エイゲツは近づく敵を切り下げ、石礫で撃つ。
だが火の手が上がり、秦軍は混乱して右往左往した。
「落ち着け! 敵は少ない!」
見たところ、千人もいない。
エイゲツは旗を掲げ、集まれと叫んだ。
その時、大男がエイゲツに体当たりしてきた。
吹き飛ばされ、木に叩きつけられる。
「う……うぐぅ……」
呻くエイゲツに、大男が近寄る。
昼間の男ではない。あれはハクエンに斬られた。違う男だ。
エイゲツは髪を掴まれ、無理やり立たされる。
そして体を持ち上げられ、締め上げられた。
「ぐわぁぁぁーー!」
背骨が悲鳴を上げる。足が宙に浮き、地に付かない。もがいても振り解けなかった。
大男がニヤリと下品な笑みを浮かべる。
エイゲツは激昂し、石の壁を大男の股間めがけて突き上げた。
大男が悶絶し、エイゲツを離す。
エイゲツはそのまま、脳天めがけて剣を突き立てた。
大男は絶叫し、力尽きる。
秦軍がようやくエイゲツの元に集まり、氐軍を追い払った。
この奇襲で、三百は討たれていた。
エイゲツは、敵の奇襲を簡単に許したこと、そして大男に締め上げられたことに、屈辱と怒りを感じていた。




