53話
次の日も訪れた。ケイはやはり部屋の中に入らない。
「よく眠れているか?」
ケイは何と言っていいか分からなかったが、無難な言葉を選んだ。
「おかげさまで……」
「そうか……それはよかった」
その後の会話は、やはり続かなかった。
だが、しばらくしてハクエンの方から口を開いた。
「いつまでそこに立っているつもりなの?」
「入っていいのか?」
ハクエンは小さく頷く。
ケイは部屋に入った。二脚の椅子と机がある。椅子に腰掛け、ハクエンの方を見る。
「あなたは何者なの? なぜ、わたしの所に来るの?」
ケイは何と答えるべきか悩んだ。
モクランの命令で来たと言うべきなのか。
カクを焼いたことへの謝罪などは、かえってハクエンを傷つけるだろう。
それに、ケイは許してもらうために来ているわけではない。ケイの贖罪は目的ではなかった。
モクランからの命令云々は関係なく、ただ、この目の前にいる月のように美しい存在が尊いと思ったのだ。
「正直言って……分からないんだ……」
ハクエンは不思議そうな顔をした。
てっきり、モクランの命令で来たとか、許してくれと言うのかと思っていた。
だがケイは「分からない」と言い、何ともはにかんだ表情で困っている。
「ふふ……面白いことを言うのね」
ハクエンは小さく笑う。
ケイはそれを見て、微笑んだ。
「そろそろ行くよ」
ケイは立ち上がる。
「また来てくれるかしら」
ハクエンは、自然に出た自分の言葉に驚いた。
会話らしい会話はしていない。
だが、ケイがいてくれると、どこか心が落ち着くのを感じた。
⸻
モクランのもとに出兵の指示が来た。
次の敵は氐であった。氐は元は秦と同じ民族である。
何でも、フケンを正統な王として認めない者たちが建てた国なのだという。
モクランはエイゲツ、ジュンカン、そしてケイを集め、一か月後、冬が終わった頃の出陣を伝えた。
「王が即位してから何年も経っています。
いまさらになって正統ではないと言うのですか?」
ケイは疑問を呈した。
史実でも、フケンを正統と認めない勢力が反乱を起こしたのは事実である。
だが、それは王になって間もない頃の話だ。
この世界とは時系列が異なることは知っているが、それでも秦が燕を滅ぼし強大になってから反対の声を上げるのは、不自然に思えた。
「時々、ケイは難しいことを言う……
我らは王の命に従い、戦うまでだ」
モクランはそう言い、出陣に向けて軍を仕上げよと命じた。
そして、ケイを呼び止める。
「ケイ……話がある。わたしの所に来てくれ……」
⸻
ケイは頷き、その夜、モクランの幕舎を訪れた。
前にも一度、こういうことがあった。
その時は、純粋なモクランが宮女に騙され、色気全開の雰囲気でケイを迎えたのだった。
ケイは胸の高鳴りを抑え、幕舎に入る。
「よく来てくれた」
モクランの姿は、残念なことに透けた衣ではなく、普通の軍袍であった。
だが部屋には香が焚かれ、蝋燭の火がほのかに灯っている。
「ケイ……聞きたいことがある」
ケイは息を飲んだ。
「お前は、代の国王とどのような関係なのだ……」
モクランは、カクを討ったあの日、ケイが異様な怒りの表情でソンキンを睨みつけていたことが気になっていた。
ソンキンの行為は外道そのものだ。
だが、それ以上の反応を、ケイは見せていた。
「前にも言いましたが、わたしは代の出身で、
代王によく似ていると言われていました」
モクランは僅かに頷き、さらに問う。
「では、ソンキンとはどういう関係なのだ?」
ソンキンの名を聞き、ケイの顔が一瞬歪んだ。
モクランは、その変化を見逃さなかった。
「やはり、何かあったのだな」
ケイは答えなかった。
だが、モクランは言葉を続ける。
「お前は、代の王の皇子なのだな。
似ているだけではない。王族は魔力の適性が高い。
ケイ……お前の魔力は、常人より遥かに上だ……」
ケイは、もはや隠しきれないと悟った。
「誰にも言わないでください……」
モクランは、ケイの境遇に胸を痛めた。
皇子から奴隷へ。
父の仇は秦の将軍となり、同じく奴隷に落ちたレイの行方も知れない。
「王は、代の皇子が存命と知れば庇護しようとするでしょう。
ですが、それはわたしの自由を奪うものです」
ケイは、すがるような目で訴えた。
「分かったわ……誰にも言わない……」
モクランはそう答えた。
―――
「ところで、ハクエンはどうなのだ?」
話題を変えたモクランに、ケイは答える。
「少しずつ、心を開き始めています……」
モクランは頷きながらも、胸の奥に小さな嫉妬を覚えた。
その夜、モクランはケイを引き止めなかった。




