52話
エイゲツは、なぜモクランに「ケイにハクエンを任せよ」と進言したのか、自分でもよく分からなかった。
なんとなく女の勘で、ケイにならハクエンは心を開くと思ったのだ。
エイゲツの本心は、ケイにこれ以上美しい女性が近づくのが我慢ならなかった。あの月のように静かな美しさを持つ女が、ケイの傍に置かれることへの苛立ちは、自分でも持て余すほどだった。
だが理性では、ハクエンを救うことはケイにとって良い経験になるとも感じていた。人の痛みに寄り添える者だけが、真に人の上に立てる。ケイにはその素質がある。エイゲツはそれを誰よりも知っていた。
薄暗い自室の中で、エイゲツは天井を見上げた。
遠くから篝火の揺れる音が聞こえる。見張りの兵が行き来する足音も。だが、この幕舎の中だけは、妙に静かだった。
満たされない思い。何をしても満たされないことは分かっている。
だが、どうにもならなかった。
脳裏に、あの森の出来事が蘇る。薄暗い木漏れ日の中で見たケイの顔。あの時、素直になれていたら――。
――もっと素直になれたらよいのに……
エイゲツは歪んだ自分の気持ちを嘆く。強くあろうとするほど、この感情は厄介な形で首をもたげてくる。
だが、もうそれは直しようもなかった。
体の奥から熱が込み上げてくる。瞼を閉じると、ケイの姿が浮かんだ。それを振り払おうとすればするほど、像は鮮明になっていく。
これほど感情が昂ったのは久しぶりであった。
全身が熱で火照り、やがてその熱は静かに、ゆっくりと消え去っていくのであった。
エイゲツは目を開け、天井をぼんやりと見つめた。
――馬鹿みたいだ。
自嘲するように小さく笑い、寝返りを打った。外の篝火が、幕舎の布を薄く照らしている。
今夜もまた、眠れそうになかった。
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ケイはサクにも事情を話した。
サクの反応は、ジュンカンよりも素直だった。
「だめよ! あの女に刺されてしまうわ!」
サクは、たとえモクランの命であったとしても、ケイにハクエンへ近づいてほしくなかった。
あの美女にケイを奪われるような気がしたのだ。
最初のうちは問題ないだろう。
だが、いつかはハクエンがケイのことを受け入れる時が来る――サクはそう感じていた。
「大丈夫だよ。ハクエンは刺すような真似はしないさ」
ケイはサクの嫉妬に気づいていたが、わざと言葉を選び、サクを安心させるように言った。
サクが抱きついてくる。
ケイは、その細い体を優しく抱いた。
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ハクエンは無為な日々を過ごしていた。
決まった時間に食事が運ばれる。
何度も死のうと思った。
だが、死んではカクが浮かばれない気がして、無理に食べた。
夜には湯に浸かることもできた。
ハクエンは何度も体を拭った。
だが、何度拭っても心の傷は消えなかった。
あの日のソンキンの下品な笑み。
背中の痛みがなければ、ソンキンごときに遅れを取ることはなかった。
いや、背中の痛みがなければ、カク様と共に戦っていたのだ。
塞がれた口。
肌にまとわりつく感覚。
すべてが体に残り、不快であった。
そして、カク様の最後。
火で焼かれていくのを、ただ泣きながら見ていた。
死にたかった。
だが、「生きよ」というカクの声が聞こえる。
秦は許せなかった。
ハクエンからすべてを奪った。
今は療養し、体力を戻すことだ――そう考えた。
モクランは、どこか甘い。
いつか機会は訪れるはずだった。
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そんな時に、あの男が現れた。
カク様を焼いた男だ。
―――思いのほか、若い。
近くで見るのは初めてだった。
男は部屋の外に立ったまま、入ってこなかった。
「何をしに来た」
ハクエンは睨みつける。
「俺の名はケイだ。あなたの最愛の人の命を奪った男だ」
沈黙が流れる。
ハクエンもケイも、続ける言葉がなかった。
「わざわざ、そんなことを言いに来たのか?」
ハクエンが重い口を開く。
ケイは答えなかった。
何と言えばいいのか、分からなかったのだ。
「また来る……」
ケイはそう言って、背を向けた。
「もう来なくていい……」
ハクエンの言葉は、悲しく、切なかった。
ハクエンが最も許せない男の一人が現れた。
だが、ハクエンの心は驚くほど冷静であった。
もっと取り乱してもおかしくない。
殴りかかってもおかしくない。
だが、ケイの顔を見ても、そんな衝動は湧かなかった。
―――あれは、戦だった。
理性が告げている。
ケイは悪くない。ただ任務を果たしたに過ぎない。
だが、違和感があった。
思い返せば、モクランはケイにカク様への止めを任せたように感じた。
―――モクランは、最後で居た堪れなくなり、逃げたのか……
ケイとは何者なのだ。
ただの百人将にしか見えない若者が、モクランの気持ちを受け取れる人物だというのか。
最も許せない男の一人であるはずなのに、なぜかケイという男に興味を持っていた。
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次の日も、ケイは現れた。
やはり部屋には入ってこない。
「もう来るなと言っただろ……」
そう言いながら、その言葉に本当の拒絶がこもっていないことに、ハクエン自身が驚いた。
「あなたの顔を見に来たんだ」
ケイはそれだけ言うと、踵を返して立ち去った。
―――なんだ、あの男は……
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ケイは、このやり方で良いのか確信が持てなかった。
気は進まなかったが、エイゲツのもとを訪れた。
「あら、お前の方から来てくれるなんて、嬉しいじゃないか」
エイゲツは戦に備え、剣を振っていた。
その剣は石で巨大化し、大木を撃ち倒す。
ジュンカンの魔法の師匠とも言える存在だ。
その魔法は、やはりジュンカンのものより上だと感じた。
エイゲツの汗が、開いた胸元を伝い落ちる。
露出した肌は薄く汗ばみ、どこか危険な香りを漂わせていた。
「で? あの綺麗なお嬢さんとは、上手くいってるのかい?」
エイゲツは椅子に座り、わざと脚を組んでみせる。
太もも、そしてその奥が見え、ケイは目を逸らした。
そのまま、これまでの経緯を語る。
「ふん……思ったより健闘しているじゃないか。悪くないね」
「そう思うのか? まったく会話が進まないのだぞ」
「馬鹿ね。愛する男を殺したやつと、会話が弾むわけないだろう……」
当然であった。
ケイはハクエンの顔を思い浮かべる。
モクランが太陽なら、ハクエンは月だと感じた。
別の美しさがあった。
その表情は静かで、怒りも憎しみも感じ取れなかった。
心の奥に押し込めているのか。
だが、ケイは戦場で、ハクエンがモクランに激しく感情をぶつける姿も見ている。
この反応は、想定外だった。
怒鳴られ、殴られる覚悟もしていたのだ。
エイゲツと目が合う。
それは、いつもの挑発的な目ではなく、どこか寂しげであった。
「なあ……たまには、わたしを慰めてくれても、バチは当たらないのよ……」
ケイは誘惑を振り切り、部屋を出た。
エイゲツはため息をつく。月の明るさが目に痛かった。




