50話
カクはハクエンの姿に愕然とし、怒りで身を震わせた。
引き裂かれた衣服、顔にできた痣。何が行われたのかは、あまりにも明白だった。
「貴様――! 何をしてくれる!」
カクはモクランの剣を跳ね除け、ソンキンへ向き直る。
「おっと。これ以上近づくと、この女は死ぬぞ」
カクは奥歯を噛み締めた。
「この下郎が!」
「カク様! わたしに構わず、この男を斬ってください!」
ハクエンの必死の叫び。
「黙れ!」
ソンキンはハクエンの腹を剣で刺した。急所ではないが、腹部から鮮血が流れ落ちる。
カクは激昂し、魔力を振り絞って水の弾をソンキンへ放った。
だが、それはソンキンを撃ち抜くことはできず、兜を弾き飛ばしただけだった。ソンキンは驚き、尻もちをつく。
「はは……もはや魔法を撃つ力も残っていないか。
モクラン殿! 今のうちにやつを討ってください!」
だが、モクランは背を向けたカクを討つことができなかった。
彼女の胸に去来していたのは、カクではなくソンキンへの怒りだった。
一騎打ちに水を差されたこと。
人質を取るという卑怯な行為。
さらには、その前に行われたであろう卑劣な行い。
そのすべてに、モクランは怒りを覚えていた。
―――人の気持ちを踏みにじるやつだ……
モクランは天を仰ぐ。
味方であろうと、ソンキンの人間性を疑い、嫌悪感を抑えきれなかった。
そして、カクに背を向け、味方の兵の方へと戻っていく。
「モクラン殿! 何をしているのです! 早くやつを討つのです!」
ソンキンは、モクランの行動が理解できず、慌てて叫ぶ。
「ここにいる全員、皆殺しだ!」
カクが発狂したように叫び、あたり構わず水弾を放つ。
目からは血の涙が流れ、鼻や口からも血が噴き出していた。完全な暴走だった。
やがて水弾は次第に威力を増し、敵味方の区別なく倒れる者が続出する。
ジュンカンは石の壁を作り、うなだれるモクランを守った。
モクランには、もはやカクを討つ意思はなかった。
ケイは火の矢を構える。サクは、ケイがカクに止めを刺そうとするのを見て、目を伏せた。
―――嫌な役目を、ケイに押し付ける……
だが、ケイは唇を噛み締め、覚悟を決めた。
非情なことも受け入れなければ、上へは行けない。
ハクエンは、ケイが矢を構えていることに気づき、腹の血を押さえながら、やめろと叫ぶ。
火の矢が放たれた。
それはカクの体に突き立ち、一気に炎が燃え上がる。
ハクエンは膝から崩れ落ち、号泣した。
モクランは、カクという男のために涙を流した。
ジュンカンも、ケイも泣いた。
カクは死に、燕軍は武器を捨てて投降した。
ソンキンは王を引っ立て、ラクヨウへ向かう。
モクランは優しくハクエンの縄を解き、自らの衣服を裂いてハクエンの腹部を押さえた。そして、その汚れた白い肌を隠すように、旗で体を覆った。
ハクエンは何も言わなかった。
涙も枯れたようで、虚ろな目で俯いているだけだった。
ハクエンは簡易的な担架に乗せられ、従軍していた治癒士の治療を受けた。命に別状はない。だが、言葉で表せないほど、心に深い傷を負ったに違いない。
モクランは首を振り、全軍に帰還を命じた。
―――
ヒョウは北へ北へと馬を駆った。
付き従う兵は、もはや僅かしか残っていない。
ようやく北部駐屯軍のいる遼東へ辿り着く。
「いやはや、危ないところであった。ボヨウタクよ。しばらく世話になるぞ」
ヒョウは、北部駐屯軍を預かる将軍ボヨウタクに、匿われて当然だと言わんばかりに声をかけた。
だが、ボヨウタクの軍は四万しかいない。
ヒョウが連れてきた兵も僅かだ。
さらに、夏の秦の侵攻で田畑は焼かれ、兵糧の備蓄も底をついていた。
この状況で、数倍の兵を擁する秦と戦うなど、不可能である。
「あっ! あれを」
ボヨウタクは唐突に指をさした。
「あーん?」
ヒョウが振り向いた瞬間、ボヨウタクは剣を抜き、ヒョウの首を刎ねた。
「秦に降る。
誰ぞ、その汚い首をフケンの元へ持っていくのだ」
燕王は捕らえられ、宰相は死に、軍は破れた。
燕は、名実ともに滅びた。
―――
太原へ向かい帰還するモクラン軍。
モクランは口を閉ざしたまま、何も語らない。
戦いは、確かに秦の大勝利だった。
だが、帰還する軍の足取りは、敗残兵のように重かった。
―――これで燕が滅びた。
あの淝水の戦いは、もう近いのか?
ケイは馬上で考える。
この世界の歴史は、ケイの知る史実とは違って動いている。だが、大きな流れは変わっていないようにも思えた。
秦の北半分の統一は近い。
そしてフケン、さらにはケイ自身にとっても転機となる、あの戦いを迎えるのか。
ケイは、近い将来に不安を覚える。
―――いずれにせよ、今の身分のままではダメだ。
この立場では、まだ大局を動かせない。
もっと強くならねばならない。
ケイは決意に、身を震わせた。
その横で、ケイの様子を見ていたジュンカンは落ち着かなかった。
なぜだか、ケイがいずれ遠い存在になる予感がしたのだ。
ケイが視線を感じ、横を見る。
目が合う。
ジュンカンは、精一杯の笑みを浮かべた。




