108話
「余の大事な娘を殴っただと!?」
ボヨウスイは間諜の報告を聞き、立ち上がった。さらにヨウカがケイから遠ざけられていること、ケイの周りには美しい女性が多くいることなど、あることないこと吹き込まれ、ボヨウスイの怒りは頂点に達した。
「王よ。お鎮まりください」
サイコウはボヨウスイを宥める。
「ヨウカが粗雑に扱われているのだぞ! 許すことは出来ない!」
ボヨウスイは手にしていた団扇をサイコウに投げつけた。これほど怒り狂ったのは生まれて初めてのことだった。
「まずは使者を派遣し、真偽を問い正しましょう」
サイコウの進言に頷き、玉座に座り込んだ。体はまだワナワナと震えている。ここで怒りに任せて出兵しないだけの理性は残っていた。
ボヨウスイは深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
「わかった。ソンキンを使者として派遣せよ」
サイコウはボヨウスイの人選に目を見開いた。ソンキンはケイの父を裏切り殺害している。魏がどう出るか反応を見ようというわけだ。
「ケイに何か官職を与えよ」
ボヨウスイはさらに追加した。後燕の官職を与える。魏を属国として扱うということなのだ。
ケイに与えられる官職は征東将軍とされた。同時に東の高句麗を討てと命令も付けられていた。
――ケイが受けるかは五分五分だ……いや、間違いなく魏を刺激し、絶縁とするであろう。
サイコウはソンキンに命じながら、失敗に終わると感じていた。ソンキンでは役不足だ。確実にケイを怒らせる。ボヨウスイは分かってソンキンを指名している。
サイコウはボヨウスイの考えを察して、ソンキンとは別の者を送り出した。
ソンキンは緊張していた。ケイと対面し、頭が真っ白になり言葉が出なかった。
ケイの表情は怒りそのものである。もはやモクラン軍にいた時の将校ではない。相手は王なのだ。しかもソンキンはケイの父を殺している。
居並ぶ廷臣の視線も痛かった。誰もが静かに怒りを滾らせている。ソンキンは恐る恐る顔を上げ、見渡した。
ハクエンと目が合う。ソンキンはハッとした。燕が滅んだ時、自分がしたことを思い出した。ハクエンは今にも斬りかかろうと言わんばかりの表情であった。
ソンキンはボヨウスイからの書状を落としてしまった。慌てて拾い上げようとするが、脚が絡み無様に転んでしまった。
誰も何も言わない。ただソンキンを見ていた。
見かねて、ソンスウが前に出た。座り込みガクガク震えているソンキンに代わり、書状を拾い上げ目を通した。ソンスウの顔が曇る。
「義父は何と言っているのか?」
ケイの声は驚くほど低く冷たかった。ソンキンはその声を聞き、体をビクンとはねらせ平伏した。
ソンスウがケイに書状を渡した。ケイが読み、ソンスウに返す。ケイは読み上げよと言った。
「ケイを征東将軍とする。高句麗を討て」
廷臣たちはざわついた。
「我が王を愚弄する気か!?」
「魏は後燕の属国ではないぞ!」
ソンキンは囲まれ怒号を浴びせられ、額を床に擦り付け震えながら平伏するだけであった。
ケイが手を挙げる。静まった。
「ご苦労であった。使者どのはごゆるりと休まれよ」
ソンキンは逃げるように玉座の間を出た。
「王よ。どうするおつもりですか?」
ソンスウが尋ねる。他の廷臣もケイの発言に固唾を飲んで待っていた。
「ヨウカを呼べ」
だが、ヨウカはすでに盛楽を離れていた。サイコウが送った間諜部隊に連れ去られていたのである。
ケイはヨウカがいないと聞き、ため息をついた。ボヨウスイは魏との同盟を続けるつもりはなかったのだと察した。
「ソンキンは拘束せよ。後燕には征東将軍を受けると伝えよ」
そんな返答をしてもボヨウスイは油断はしないであろう。後燕は今頃、戦の支度をしているに違いない。
春が訪れ、草原は霜が張ることもなくなった頃。
後燕軍が八万の軍を率いて盛楽へ向けて侵攻を開始した。ボヨウスイの子、ボヨウホウとボヨウノウが率いていた。
ボヨウスイは自ら出陣しなかった。体調が悪く吐血することもあった。何十年の間、戦争に身を費やしていた。そろそろ後継者も決めなければならない。ホウとノウ。この戦で活躍した方を後継者に据えることにした。
後燕軍はボヨウスイによって鍛えあげられた精鋭である。ホウとノウを支える将軍も歴戦の強者である。ボヨウスイ不在でも負けるとは思えなかった。
ケイも八万の軍を率いて出陣した。
出陣に際し、ケイは閲兵をした。その場にソンキンを引きずり出す。
「何か言い残すことはないか?」
「助けてくれ! 反省している! 命だけは!」
ソンキンは必死に命乞いした。涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃであった。
「お前は父の仇だ。許すことは出来ん」
断末魔。
ソンキンの首が転がる。
裏切り者がついに粛正された。兵たちは大歓声を上げた。
ケイはエイゲツ、ボクスウを従え進軍を開始した。シトウは柔然の抑えとして残し、ジュンカンも後秦への備えとして統万城に置いている。
黄河中流域。後燕軍は先に渡河地点に着く。だが、おりしも暴風が吹き荒れ、すべての船が沈んでしまった。魏軍もまた、暴風に晒され黄河を渡ることが出来なかった。
大河を隔て両軍睨み合う形となった。世に言う参合陂の戦いが始まった。




