106話
西燕には不穏な空気が流れていた。長安を得た代償に、中山を失っていた。ボヨウチュウはそれでも構わないと考えていたが、臣下たちは違った。故郷である河北・遼西の東側に帰りたがっていたのだ。
ボヨウチュウはそんな臣下たちの声を黙殺した。次第に不満が積み重なり、ついに爆発した。
将軍のカンエンがボヨウチュウを殺害し、ダンズイを新たに燕王に推戴したのである。だがダンズイはボヨウ氏ではなく、ボヨウ氏の一族はこれに激しく反発。ダンズイはすぐに殺され、王位はボヨウ氏の手に取り戻された。
しかしボヨウ氏同士の殺し合いが始まり、ボヨウギ・ボヨウヨウ・ボヨウチュウと次々に王が殺され、最終的にボヨウエイが即位した。この間に西燕は大きく弱体化した。
「愚かな者たちだ。自滅するとは」
ヨウチョウはこの機会を見逃さなかった。長安に出兵し、あっという間に西燕を駆逐。ボヨウエイは東に逃れたが、ボヨウスイの軍に粉砕され斬首された。西燕は滅んだ。
後秦はここで最大の版図に広がった。関中を抑え、西は敦煌まで支配下に置いたのだ。
「長安を落としました。次は統万城を奪い返すために軍を起こしてください」
カクレンはヨウチョウに頭を下げた。カクレンはかつての金魔法の反動で、体は完全に女性のそれへと変わり果てていた。
「ふん。お前は何の武功をあげたというのだ? 俺は草原などに興味はない」
カクレンは唇を噛み締めた。西燕があまりに不甲斐なかったため、自分が活躍する余地がなかったのだ。
「今のお前に出来ることは、夜の伽くらいだろう?」
ヨウチョウの手がカクレンの腰に伸びる。カクレンは抵抗する力を失っていた。
ヨウチョウは執拗に、しかしどこか冷たく、カクレンの体を弄んだ。金魔法の反動で、カクレンの体は以前よりも遥かに敏感になっていた。ヨウチョウはそれを熟知していた。
触れるたびに震え、声を抑えきれず漏らす。夜は長く、カクレンはただ耐えるしかなかった。
朝日が差し込む頃、ヨウチョウは満足げに笑った。
「まあ今日はよかったぞ。褒美に千人貸してやる。草原を切り取って来い」
カクレンは睨みつけた。その程度の軍では何も切り取れない。震えながら再び頭を下げた。
「お願いします。もう少し兵を貸してください」
ヨウチョウは大笑いし、再び手を伸ばした。
だが結局、後秦は外に向かって兵を出すことはなかった。関中や河西回廊の都市統治がまだ不安定で、涼や西燕の残党が反乱を起こしていたからだ。カクレンはその平定に駆り出され、草原へ向かう余裕はなかった。
こうして後秦が内を固めている間、魏が動いた。
後燕からボヨウスイの娘が嫁いできていた。あの英雄の子とは思えないほど大人しい女性だった。
名前はヨウカといった。ケイよりずっと若く、愛らしい顔立ちである。ケイを前にして緊張していた。
「怖がることはない。顔をあげよ」
ケイは優しく言った。ヨウカが顔を上げる。
―――レイ……俺はこの女性をどうしたらよいのだろうか。
ケイはここにいるのがレイであればいいのにと思い、心が沈んだ。ヨウカに対してこれ以上かける言葉が思いつかなかった。
「王は心に傷を負っておいでなのですね」
ヨウカの声は落ち着いており、なぜか心が癒される感じがあった。
彼女がケイの服をそっと脱がせようとする。ぎこちなく微かに震えていたが、そこに優しさを感じた。ケイはそっとその手を取り、導くように抱き寄せた。
サイゲンハクを登用したことで、内政は整い経済も回ってきた。後燕や西域との交易も活発になり、交易路と軍の移動を兼ねた道が整備されていった。
魏はまだ貨幣経済が発達していなかった。絹や布が実質的な貨幣として使われていた。ケイはサイゲンハクと議論を重ね、通貨を発行した。史実ではこの時代の通貨は私鋳が多く質が悪かったが、ケイは通貨局を作り、鋳造の精度を高め、私鋳する者を厳しく処断した。それにより魏の通貨の信用が上がり、交易でも使われるようになった。
「王は政治にも商売にも明るい。これほどの王は見たことがございません」
サイゲンハクはケイに関われば関わるほど、その発想と才覚に惚れ込んでいった。
魏からは絹や鉄製品、穀物が輸出され、西側からは馬や宝石、ガラス、金銀器などが輸入された。特に馬は軍事的にも重要だった。
盛楽は繁栄した。
「いつからわたしは大工になったんだ」
統万城からジュンカンが派遣され、土魔法で石の建築物を作っていく。ジュンカンは文句を言いながらも、盛楽が発展していく様子を見て笑顔であった。遊牧から定住へ変わっていく。街には胡人や漢人だけでなく、遠くサマルカンドやブハラに住むソグド人の商人も見られるようになった。
こうして多くの富が魏にもたらされ、内政だけでなく軍事面でも充実していった。
「一度、柔然を叩くとしよう」
ケイは柔然を叩くべく行動を起こした。密かにボクスウに陰山に砦を築くよう命じた。
ケイはハクエン、サクを従え自ら出撃した。目指す先は盛楽の北に聳え立つ陰山山脈であった。山脈を越えると柔然の地である。
魏軍は陰山の床山に一万を先行させ、ボクスウが準備した砦に入る。ケイは六万を率い、床山を見下ろすように布陣し、周辺の集落を襲撃した。ただし略奪も殺戮もしなかった。民や羊など、集落ごと陰山山脈の南側に拉致した。
柔然のシャロンはその動きに苛立ちを隠さなかった。
「漢人かぶれどもが調子に乗りおって」
シャロンは八万の軍を床山に進軍させた。床山を背に布陣する。
ケイの動きは早かった。柔然軍が到着するなり即座に攻撃を開始した。
砦からボクスウの軍が飛び出し、床山を駆け降りる。本隊からもハクエン、サクが突撃を開始した。魏軍は三方から柔然軍を包囲する形を作り、騎兵による連続突撃を繰り返した。
柔然の騎兵は機動力を活かそうとしたが、床山の斜面と魏軍の統制された陣形に阻まれ、散開もままならない。魏の騎兵は柔然の側面を突き、馬上から矢を浴びせ、槍を突き立てた。柔然の騎兵は馬から落とされ、馬蹄に踏み潰され、悲鳴が草原に響いた。
「馬鹿な! 伏兵だと!」
シャロンは魏の軍を侮っていた。床山に既に潜んでいたボクスウの軍に気づいていなかったのだ。柔然はこれまで強敵と戦った経験が少なく、統率が乱れていた。
魏軍の包囲網はさらに狭まり、柔然軍は混乱の中で次々と討ち取られた。シャロンは必死に散開を命じたが、すでに遅かった。魏軍の騎兵が柔然の後方を突き、逃げ道を塞いだ。柔然の騎兵は四散し、草原は阿鼻叫喚の場と化した。
「ひけ! ひけ!」
シャロンは敗走を決断したが、すでに二万騎以上が失われていた。シャロンは北へ逃げ延びたが、柔然軍は壊滅的な打撃を受けた。
ケイは柔然への深入りを避けた。本拠地は遥か北のオルホン川近くにある。攻め込むには危険が伴っていた。
「南に向かう」
ケイは諸将に短く告げた。レイの仇を討つ。ケイの心は静かに滾っていた。




