102話
翌日、ケイは軍営の中に塞ぎ込んでいた。
外からは馬のいななきが聞こえてくる。
歓声。金属音。
すべてが、ひどく遠かった。
「昨日と打って変わって、随分と静かではないか」
カクレンは、ケイの軍が動かないことを訝しんだ。
攻めているのは賀蘭部の側だ。
涼の軍が到着すれば、賀蘭部に勝ち目はない。
「昨日の攻撃は、短期決戦ではなかったのか」
探りを入れるため、カクレンは一万の騎馬隊を前に出した。
だがエイゲツとジュンカンは、石の壁を前面に張り、防御に徹する。
深追いはせず、カクレンは騎馬隊を下げた。
後秦も動かない。
それに対峙する賀蘭部の軍も動かなかった。
二日目は、ただ睨み合うだけの一日となった。
「ケイ……いつまで、そうしているつもりなの?」
ハクエンが、ついに詰め寄った。
大将が塞ぎ込んだままでは、士気に関わる。
「レイが……死んだんだ……」
その言葉を聞いた瞬間、ハクエンはケイの頬を平手で打った。
ケイは驚き、叩かれた頬を押さえたまま、ただ彼女を見つめた。
「これまで、どれほどの人が死んだと思っているの?」
「モクランは、それでも耐えていたわ」
モクランの名を聞き、ケイは項垂れた。
「あなたは、モクランから何を受け継いだの?」
答えは、分かっていた。
受け継いだのは魔法だけではない。
その意思、その覚悟だ。
レイの死は――
乗り越えなければならない。
「……分かった。もう泣かない」
ケイは、ゆっくりと立ち上がった。
「なんだと!? 天水が落ちただと!?」
後秦の将・ヨウセキトクは、天水からの早馬に仰天した。
涼軍が進軍の途上で天水を急襲したという。
ヨウチョウとヨウコウは天水を捨て、安定へ籠っていた。
天水から統万城までは一週間。
今頃、安定も攻撃を受けているだろう。
ヨウセキトクは、急ぎ陣を払った。
「何事だ! なぜ後秦が陣を畳んでいる!」
伝令が告げた。
涼の裏切り、天水陥落、帰還命令。
カクレンは激怒し、兜を伝令に投げつけた。
伝令は転げるように逃げ去った。
「ふざけるな……いったい何なんだ!」
カクレンは、統万城への籠城を決めた。
もはや野戦でケイに勝てる見込みはなかった。
「何が起きている!?」
ケイは軍議の最中だった。
そこへ斥候が駆け込み、後秦が撤退し、匈奴軍が統万城へ向かっていると報告した。
「……本国だな」
後秦が帰る理由は一つしかない。
「追撃する!」
夜間であった。
罠の可能性もあったが、ケイは逃す手はないと判断した。
左翼のシトウ、ブクレン、ソンスウにも追撃命令を出す。
全軍による追撃が始まった。
シトウが匈奴軍の横腹を抉る。
エイゲツとジュンカンが背後を襲う。
「くそ! 動きが早い! 引け! 引け!」
闇の中で襲われ、匈奴軍は大混乱に陥った。
同士討ちすら始まる。
「武器を捨てて降伏せよ! カクレンは死んだぞ!」
ソンスウが叫ぶ。
水面下で族長たちへの工作は進んでいた。
恐怖で従っていた兵たちは、「死んだ」という言葉を聞き、次々に武器を捨てた。
「流言に惑わされるな!」
カクレンは叫んだが、もはや混乱は止められなかった。
統万城に辿り着いた時、従う兵は五千ほどにまで減っていた。
一陣の風が吹いた。
兵たちの松明が、次々に消える。
風の音は、人の叫び声のようにも聞こえた。
「ひぃ……やめろ! まとわりつくな!」
カクレンは馬から転げ落ち、何かを振り払うように暴れ出した。
かつて城壁に埋めた人々。
蠢く壁。伸びる手。
大剣を振るうたび、兵たちが悲鳴を上げ倒れていく。
カクレンは、統万城に入ることが出来なかった。
馬に跨り、ただ駆けた。
草原の闇に、その姿は消えていった。
夜が明ける。
降伏した匈奴兵は四万を超えた。
統万城は門を開き、無血で明け渡された。
ケイが入城する。
城壁からは、かつての血痕や人の顔は消えていた。
まるで、何かが浄化されたかのようだった。
斥候が次々と戻る。
涼が後秦を攻撃したという。
カクレンの行方は不明。錯乱したまま西へ走り去ったらしい。
史実では、カクレンは後に夏を建国する。
再び草原に現れるのか――ケイは探索を続けさせた。
後秦と涼の戦況も伝えられた。
レイは、天水で命を落としたという。
ケイは天を仰いだ。自分の勘違いであってほしかった。
怒りで、体が震えた。
カクレンが後秦の支援を得るため、レイを差し出したのだと知る。結局、毛皇后がヨウチョウに殺されるという史実は、変わらなかった。
ケイは思う。
なぜ自分はこの世界に転生したのか。
知識は役に立たず、史実も変えられず、救いたい命も救えない。
統万城陥落に歓喜する賀蘭部の兵たちを尻目に、ケイはただ、自らの無力さを噛みしめていた。




