100話
ランカは行軍を急いだ。
匈奴、後秦はすでに統万城に向けて進軍している。賀蘭部は、涼が到着する前に攻撃を開始するはずだった。
ヨウチョウは、すでにレイを得てしまっている。
後秦が本気で戦う理由はなかった。統万城の戦いは、勝っても負けても、後秦軍が大きな被害を受けることはないだろう。
―――天水が手薄なうちに、レイ様を取り戻す。
敦煌を出て十日。
涼軍は天水に到着した。
補給を受けるという名目で、一日の滞在が許可された。
涼からの友好の証として献上品を渡すため、ランカは数十騎を従え、天水へ入城した。
「お前……あの時、リョコウが連れ出した女か!」
ヨウチョウとヨウコウは、ランカの顔を見て驚いた。
陳倉の戦いでは、ランカの投槍に苦しめられた。捕虜としたが、リョコウが褒美に寄越せと連れて行ってしまったのだ。
「今はリョコウ様の妻となりました。我が国との友好の証として、献上品をお納めください」
「そうか。お前も女の幸せを手にしたのか」
ヨウチョウが笑いながら手招きすると、奥から一人の女が現れた。
レイであった。
レイはランカの姿を見るなり、顔を両手で覆って泣き出した。
生きていたことへの喜びと、せっかく逃がしてくれたのに捕らえられてしまった悔しさ。
複雑な感情が一気に溢れ出たのだ。
「どうだ、レイ。この女将軍もリョコウの妻になった。そろそろ覚悟を決めてはどうだ?」
ランカが生き延びていた。
それを見て、レイの心は揺らいだ。
このまま監禁され続けるのは、ランカに申し訳ない――そんな思いが胸を締めつける。
「……分かりました。あなた様に従います……」
レイは、力なくそう言った。
ランカは顔を伏せた。
涙が床に落ちる。
ヨウチョウとヨウコウは、手を叩いて喜んだ。
⸻
その夜、ヨウチョウは喜びのあまり大宴会を催した。
廷臣や軍人が次々と呼び出され、大広間には料理が山と積まれ、酒樽がいくつも開けられた。
レイもランカも、顔を伏せたまま、料理には手をつけなかった。
レイはヨウチョウとヨウコウに代わる代わる肩を掴まれ、酌をさせられた。
どちらの妃にするかという愚かな話が続く。
レイの心は空白だった。
ただ、ケイに会いたい。それだけだった。
やがてヨウチョウとヨウコウは酔い潰れ、寝室へ運ばれていった。
廷臣たちもそれに続いて退出する。
広間に残ったのは、レイとランカだけだった。
「レイ様……今です。逃げましょう……」
ランカは声を潜め、耳元で囁いた。
「そんなことをすれば、涼と後秦の関係はどうなるのです……あなたの立場が……」
「問題ありません。リョコウは、後秦と仲良くするつもりなどありません。
わたしには、自由にせよと言いました」
ランカはレイの手を引き、広間を出た。
だが、すぐに衛兵に呼び止められる。
ランカは剣を抜き、一瞬で斬り捨てた。
燭台を蹴倒す。
火はすぐに広がった。
二人は走った。
引き連れてきた兵と合流し、レイを馬に乗せる。
「駆けるぞ! 止まるな!」
ランカを先頭に、数十騎が天水の街路を駆け抜けた。
異変を察知した門兵が、城門を閉ざす。
ランカは槍を投げた。門兵たちが串刺しになる。
外で待機していた涼軍は、天水に火の手が上がるのを見て、外から城門への攻撃を開始した。
守備兵は矢を放つが、指揮系統は混乱し、涼軍を止められない。
丸太が門に打ち付けられる。
ドシン、という衝撃が城内に響いた。
「早く門を開けろ!」
ランカは開門装置に駆け寄る。
だが門兵は装置を破壊し、鎖を斬った。内側から門は開かない。
怒りに任せ、ランカは門兵を槍で刺した。
そこへ、ようやく兵をまとめたヨウコウが現れる。
「貴様! 何をしているか分かっているのか! レイを返せ!」
ランカはヨウコウに向かって槍を投げた。
後秦兵がまとめて貫かれる。
「盾を並べよ!」
盾兵が前に出るが、槍は盾ごと兵を弾き飛ばした。
ついに、外からの攻撃で城門が破られた。
「レイ様! お逃げください!」
ランカが叫んだ、その瞬間――
刺されたはずの門兵が、最後の力を振り絞り、レイに飛びかかった。
「きゃあああっ!」
ランカが振り返った。
剣が、レイの左胸に深々と突き立っていた。
血が、地面を濡らす。
「……レイ様……」
ランカは絶叫し、兵を払いのけて駆け寄った。
だが、時は戻らなかった。
ヨウコウが迫る。
「貴様……許さん!」
ランカはレイを抱え、門の外へ飛び出した。
涼軍の中へと逃げ込む。
天水は完全な混乱に陥った。
ヨウチョウは判断した。
「……天水を捨てる」
隣接する都市・安定へ撤退し、同時に統万城のヨウセキトクへ撤退命令を飛ばした。
⸻
ランカはレイの亡骸を抱き、号泣した。
剣を抜き、首に当てる。
「おやめください!」
兵たちが必死に止める。
「放せ……放せ! レイ様……!」
叫び声は、炎に包まれた天水の夜空へと消えていった。
⸻
「……レイ……?」
遠く離れた草原で、ケイは剣を落とした。
胸の奥が、えぐられるように痛む。
涙が、止まらなかった。
「ケイ! どうしたの! 戦の最中よ!」
サクの声も、耳に届かない。
史実は、変えられないのか――
ケイは剣を拾い上げ、涙を拭い、前を向いた。
カクレンの軍へ向かって、走り出した。




