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アーシェル・ブルー  作者: ニート
第8章

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第1話 幻の港町と”価値”の天秤

遠い潮騒の音に、悠は静かに目覚めた。


シロの「ピィ!」という甲高い鳴き声が甲板に響き、船が完全に停止していることを知らせる。悠が起き上がると、リィア、ノア、そしてサリヴァンも目を覚ましていた。


「まるで、時間が止まったみたいだね」リィアが、太陽の光が穏やかに差し込む水面を見つめて呟いた。


「ピィ!」シロが船のへさきから飛び立ち、何かに誘われるように岸へと飛んでいく。


シーウィンド号は、いつの間にか小さな入り江に停泊していた。そこには、石畳の通りが続き、古びた木造の建物が立ち並ぶ、不思議な港町が広がっている。華美さはないが、一つ一つの建物が丁寧に手入れされ、どこか郷愁を誘う。


「これは一体……」サリヴァンが目を細めた。「わしの長年の勘だが、ここは普通の場所じゃない。潮の流れや星の位置が、すべて狂っておる」


船を下りると、港町からは静かな活気が伝わってきた。市場が開かれ、人々が穏やかに言葉を交わし、品物をやり取りしている。しかし、その雰囲気は悠たちが知るどの街とも違っていた。まるで、ある一定の時で文化と技術の進歩が止まってしまったかのように、街全体が時代遅れで静謐な空気を纏っている。


アイリスが報告する。 「この街の空気組成、気温、全てが外の世界と一致します。しかし、微細な大気の振動が、極めて古い感情のエネルギーによって満たされていることを示しています。ここは、時の流れから意図的に切り離された場所のようです」


一行は街の中心へと歩を進めた。石畳の道は磨かれて光り、店の戸口からは香辛料や焼きたてのパンのような優しい匂いが漂ってくる。


ノアはパン屋の前で立ち止まった。 「うわあ……。すごくいい匂いです。この焼き色、完璧だ。師匠にも見せてあげたいな」


パン屋の老婦人は、古風な服装をしており、悠たちを一瞥したが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。


悠は空腹を覚え、通貨の入った袋を取り出し、パンを指差した。 「すみません、このパンをいくつかいただけますか?」


老婦人は優しく首を振った。 「お客様、ここでは”金”も”銀”も、”紙幣”も”価値”を持ちませんよ」


悠は戸惑った。「では、何を?」


老婦人はカウンターの隅に置かれた、手のひらサイズの”真鍮の天秤”を指さした。それは、装飾がほとんどなく、使い古された道具のように見えた。


「私たちがここで用いるのは、”記憶の欠片(メモリウム)”と呼ばれる”価値”です」


老婦人の言葉に、リィアが尋ねた。「”記憶の欠片”? それは、どのようなものなの?」


「それはね、”物語”そのものですよ」老婦人は目を細めた。「私たちが知らなかった”体験”、心が動かされる”感動”、誰にも語られていない”真実の欠片”。情緒的な”価値”のみが、ここで生きるための貨幣となります」


ノアが不安そうな声をあげた。「じゃあ、僕たち、何も買えない……」


老婦人は静かに言った。「貨幣を持っていなくとも、あなた方には”生きた証”があります。それが、ここでは一番の財産です。さあ、何か、私たちを笑顔にする”物語”を分けていただけませんか?」


この街の”価値観”を肌で理解する。ここでは、”人の心を動かす力”こそが生活の糧になる。


悠は、たまらずサリヴァンに目を向けた。(最も深い人生経験を持つ人物なはずと)


サリヴァンは悟ったように頷き、パン屋のカウンターに身を乗り出した。 「では、わしから語らせてもらおうか」


サリヴァンが話し始めたのは、数十年前、彼が初めて船を持ったばかりの頃の、静かで小さな”物語”だった。


「あれは、漁に出て何日目だったか。全く獲れず、嵐が迫っておった。皆が諦めかけて船室に引きこもる中、わしは夜通し舵を握り、必死に船を守った」


それは漁師としては平凡な体験のように聞こえたが、サリヴァンは語り口に感情を込めた。


「空は真っ暗で、”希望”など見えんかった。だが、夜明け前に、船の真横を”一頭のクジラ”が泳いでいったんじゃ。巨大で、その皮膚は海面を滑る油のように滑らかで……」


サリヴァンは、そのクジラの目が、まるで「行け」と導くように見えた瞬間を語った。恐怖と疲労に囚われていた心が、その一瞬でどれほど解放され、力を得たか。それは、”奇跡のような大漁”につながる話でもなければ、”命を救われた”ような劇的な話でもない。


「ただ、あの闇の中で、一瞬だけ”生きていることの静かな歓び”を思い出させてくれた。それだけの話じゃよ」


語り終えたサリヴァンは、老婦人を見つめた。老婦人の目元には、微かな涙が浮かんでいた。


「ああ……」老婦人はそっと息を吐いた。「なんて”穏やかな孤独”でしょう。その時、あなたが感じた、大海原での”小さな希望の灯り”……。それは、ここで暮らす私たちにとって、とても大切なものです」


老婦人は、パンを一つ選び、”天秤”の片側に置いた。そして、空いたもう片側に、サリヴァンが語った”物語”の重さを計るように手をかざした。


カチン、と微かな音を立て、”天秤が傾いた”。パンが乗った皿が、わずかに持ち上がったのだ。


老婦人は微笑んだ。

「これで、”記憶の欠片”が3枚分と出ました。どうぞ、このパンをお持ちください」


悠たちは驚きと”感動”で言葉を失った。ノアは、3枚分の”物語のパン”を大事そうに受け取った。




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