第7話 ホワイト・アーラの揺り籠
そこは、時が止まった楽園だった。
かつては温室だったと思われるガラスドームの骨組みだけが残り、月光を通して幾何学的な影を地面に落としている。
野生化したハーブの香りが、霧と共に漂い、吸い込むだけで胸の奥がスーッとする。
「すごい……。これ、全部ハーブですよ悠さん! カモミールに、レモングラスに……」
ノアが興奮して小声で叫ぶ。
「食材の宝庫だな。あとで少しだけ分けてもらおう。でも今は、その奥だ」
アイリスのセンサーと、リィアの「甘い匂い」の探知を頼りに、彼らは庭園の最奥を目指す。
モンスターは本当に出ない。時折、草むらから光る羽蟲がふわりと飛び立つだけだ。
戦う必要はない。警戒する必要がない。ただ、この美しい風景の一部になるように歩くだけでいい。
それは悠が、派手な魔法バトルよりも望んでる冒険だった。
「前方に魔法の残滓反応。並びに、芳香成分の数値が異常値を検出しました」
「ビンゴだね」
彼らがたどり着いたのは、泉のある広場だった。
泉の水面は鏡のように月を映し、その中央にある小さな中州に、一本だけ、白銀に輝く巨木が立っていた。
その枝には、満月と同じ色をした、真珠のような実がいくつもぶら下がっている。
――幻の『ホワイト・アーラ』。
「きれい……。ランプみたいに光ってる」
リィアが感嘆の声を漏らし、宙を舞って木に近づこうとする。
しかし。
「あっ、れれ? 近づけない?」
木の周囲数メートルの空気が、柔らかい壁のように彼女を押し返したのだ。攻撃的ではないが、「今はダメ」と諭すような弾力。
「拒絶されている……というわけじゃなさそうだ」
悠が一歩進み出る。
実をもぎ取ろうと手を伸ばせば、おそらく弾かれるだろう。あるいは、この静寂を壊して実が散ってしまうかもしれない。
無理やり奪うのは、世界のルール違反だ。
「看板に書いてあった。『木々は眠っている』って」
悠は目を閉じ、右手をゆっくりとかざした。
発動するのは《潮風の記憶》。
この場所を吹き抜けた風、泉に溜まった水が覚えている「過去の記憶」を読み取る魔法。
視界がふわりとセピア色に染まる。
――記憶の中に現れたのは、一人の年老いた庭師だった。
背中を丸め、ジョウロで水を撒く庭師。彼は植物たちに、子供に言い聞かせるように、あるいは恋人に囁くように、いつも歌を口ずさんでいた。
とても優しく、穏やかで、単純な旋律の子守唄。
『よく育っておくれ、良い実を結んでおくれ。ここは静かな安息の庭……』
木々はその歌を聴いて安心して眠りにつき、そして甘い実をつけていたのだ。
「……なるほど。そういうことか」
悠は目を開け、仲間たちを振り返った。
「攻略法がわかったよ。ノア、アイリス、手拍子を頼む。ただし、うんと優しくね」
「えっ、手拍子ですか?」
「サリヴァンさんは足踏みでリズムを。リィア、風で葉っぱを擦り合わせて、伴奏をしてくれ」
悠は一息つくと、記憶の中で聴いたあの旋律を、低いハミングで奏で始めた。
♪~~……。
誰も知らないはずの曲なのに、どこか懐かしい。
悠の声に合わせ、仲間たちが小さなリズムを刻む。シロも「クルックゥ」と喉を鳴らした。
それは音楽というより、自然音のハーモニーだった。
リィアが風で枝を撫でる。サワサワと葉が歌い出し、悠のハミングと共鳴する。
庭園の空気が、ふわりと緩んだ。
先程まで張り詰めていた《拒絶の壁》が溶けていき、代わりに甘い、うっとりするような香りが爆発的に広がった。
ポト、ポトン。
木が満足したように枝を震わせると、白く輝く実が数個、自ら雫のように落ちてきた。
それは地面に落ちる前に、リィアによって優しくキャッチされ、ノアが差し出したバスケットの中へ吸い込まれていく。
「やった……! 悠さん、獲れましたよ!」
ノアの歓喜の囁きに、悠はウィンクで応えた。
「ありがとう。……おやすみ、素敵な夢を」
悠は巨木に向かって小さく一礼する。
枝葉が風に揺れ、まるで手を振り返すようにざわめいた気がした。
帰りの船の上。
戦利品を抱えた一行のテンションは最高潮に達していた。
だが、誰一人として騒ぐものはいない。心地よい疲労感と、達成感が、体をふんわりと包んでいるからだ。
「よし。じゃあ、いよいよ《ホワイト・アーラ生搾り会》を始めようか」
悠が宣言すると、キャビンのソファに座った全員がゴクリと喉を鳴らした。
幻のホワイト・アーラは、焙煎の必要がない。
殻を割ると、中から現れたのは純白の種子。それを粗く砕いてポットに入れ、お湯を注ぐだけ。
それだけの工程なのに、立ち昇る湯気からは、信じられないほど甘美な香りがした。バニラビーンズと温かいミルク、そこに微かに春の花の蜜を混ぜたような匂い。
「……この香りだけで寿命が延びそうだな」
サリヴァンが目を細める。
「解析不能……未知の成分ですが、危険性はゼロ。むしろ精神疲労の回復効果が絶大です」
アイリスがお茶請けとして焼いたクッキーを並べながら言った。
「さあ、召し上がれ」
全員のカップに注がれる、琥珀色ならぬ乳白色の液体。
悠も自分の分を手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
――!
舌に触れた瞬間、温かい甘みが広がり、ほどけるように消えていく。
苦味は一切ない。けれど、アーラ特有のコクはある。まるで温かい毛布に全身を包まれたまま、雲の上を漂っているような味だ。
体中の強張り、筋肉の緊張、明日への微かな不安……それらがすべて、湯気と共にとけていく。
「んぅぅ……おいしぃ……」
リィアが最初に撃沈した。空っぽのカップを抱えたまま、ソファのクッションに顔をうずめる。
「ダメだぁ、これ。力が入んない……」
ノアもだらしなく背もたれにもたれかかり、幸せそうな顔で天井を仰いだ。
「こりゃあ極上だ……。王様の酒より、こっちのほうがいいな……」
サリヴァンも釣りの話をする元気すら失い、シロと一緒にうつらうつらとし始めている。
「……私の動力炉の出力が……低下して……」
アイリスでさえ、普段のシャキッとした姿勢を保てず、カクンと機能停止モード(スリープ)に入りかけている。
そういう悠もまた、指一本動かすのが億劫なほどの脱力感に襲われていた。
これがデバフだというなら、世界で一番幸せな状態異常だろう。
働く? 無理だ。
帳簿をつける? 鉛筆の重さすら今の自分には耐えられない。
甲板の方から、シーウィンド号の柱がきしむ音が聞こえる。船もまた、波に揺られてゆりかごになっている。
(……ああ、これは。)
悠は薄れゆく意識の中で思った。
前世で求めても得られなかった、完全なる休息。
何もしない贅沢。
手元のサイドテーブルには、彼の日記帳が開かれたまま置かれている。
そこに、走り書きで一文だけ書き足した。
『幻のホワイト・アーラ、効果は絶大。美味しいけれど、仕事が全くできなくなるから、休日にしか飲めないな(笑)』
ペンを置き、悠もまた、深く、温かいソファの海へと沈んでいった。
部屋に残るのは、誰もいない静寂と、湯気の甘い香り、そして仲間たちの安らかな寝息だけだった。




