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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第7章

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第6話 白き実の眠る月夜のティータイム

 カリ、コリ、カリ、コリ。

 波の音に重なって、実が砕かれる感触が指先に伝わる。

 それは、朝の礼拝にも似た、神聖な時間だった。


「……ふう。いい香りだ」


 シーウィンド号の甲板。

 朝の柔らかな日差しの中で、悠は愛用の手挽きミルを止めた。

 挽いているのはアーラの実だ。コーヒーに似た芳醇な苦味の中に、ナッツのような甘いコクが隠れている。

 前世、営業職としてコンクリートジャングルを駆けずり回っていた頃、缶コーヒーはただのカフェイン摂取手段だった。だが今は違う。

 一杯のアーラを味わうこと。それは、かつて働きすぎた彼が手に入れた、《人生を楽しむ》ための儀式。


「おはよう、悠さん。今日もまた、すごい顔でミルを回してましたよ」

「えっ、すごい顔?」

「はい。なんというか……この世の真理を探究する学者みたいな顔で」


 焼きたてのパンが入ったバスケットを抱え、ノアが苦笑いしながらやってきた。

 ノアの焼くパンの香りは、アーラの香りと相性が良い。


「おはよう、ノア。いや、あながち間違いじゃないよ。僕は今、真理に挑もうとしているからね」

「真理って……朝ごはんの話ですよね?」

「いいや、もっと重要なことだ」


 悠は挽き終わった粉をドリッパーにセットし、温度調節したお湯を、一滴、また一滴と落としていく。

 ふわり、と土と風の混じったようなアロマが立ち昇った。


「ノア。サリヴァンさんが昔聞いた噂なんだけど、『満月の夜にしか開かない幻のアーラ』があるらしい」

「幻の?」

「その名も『ホワイト・アーラ』。ミルクを入れなくても、まるで極上のカフェオレのように甘く、飲むだけで魂がとろけるような味がするそうだ」

「うわあ……。なんですかそれ、僕のパンに絶対合うじゃないですか」

「だろう?」


 湯気を吸い込みながら、悠はテーブルの上で力説した。

 大の大人が、宝の地図を前にした子供のような目をしている。

 そこへ、優雅な足音と共に、アイリスが現れた。彼女の手には清潔なリネンが抱えられている。


「悠さん、並びにノアさん。心拍数がわずかに上昇しています。興奮状態は消化に良くありません」

「アイリス、聞いてくれ。次の目的地が決まったかもしれない」

「……無人島シレントのことでしょうか?」

「さすがアイリス、話が早い。そこだ」


 アイリスはわずかに首をかしげさせた。

「記録データベースを検索……該当地域にモンスターの反応なし。危険生物の報告もゼロ。あるのは『放置された古い諸島』のみ。……推奨します。悠さんの精神衛生上、きわめて良好なピクニックコースかと」

「魔物がいない、というのは最高だね」

「はい、実に効率的です」


 そこへ、上空から「ピィー!」という鳴き声が降ってくる。

 白い翼を広げたカモメのシロと、それを追いかけるよう甲板に降りてきたリィア。


「なになにー? どっか行くのー?」

「おはよう、リィア。美味しい実を探しに、ちょっと夜の散歩に行こうかと思ってね」

「おいしい実! 行く行く! 私、その島の風の匂い知ってるかも! 甘くてね、なんかこう、フワフワした匂いなのよ」


 釣り糸を垂らしていたサリヴァンんが、のんびりと振り返った。

「そいつは楽しみじゃな。昔、その海域で金色のトビウオを見たことがある。釣竿の手入れをしとかんといかんな」


 悠は満足げに頷いた。

 仲間たちの賛同は得られた。敵はいない。あるのは静寂と、まだ見ぬ美味のみ。


「よし。じゃあ今夜は満月だ。風任せ……いや、この場合は“風石”任せで、シレントへ行こう」

 悠は出来上がったばかりのアーラを一口飲み、海へ向かってカップを掲げた。


「目的は、究極のティータイム!」


 夜の海は、昼とは全く違う顔を見せる。

 船が進むたび、船首が切り裂いた波が光の飛沫となって舞い上がる。


 シーウィンド号は、そんな幻想的な海の上を、音もなく滑るように進んでいた。

 風石ウィンドストーンエンジンは、静かに帆を押す推進力だ。

 ユウは舵輪を握り、心地よい夜風を全身で感じていた。


「悠さん。目的の島影を視認しました」

 隣で双眼鏡を構えていたアイリスが、静かな声で告げる。

「ありがとう。……すごいな」


 海上に浮かび上がったのは、綿菓子のような霧に包まれた小さな島だった。

 不気味さはない。むしろ、雲が海面に降りてきて休憩しているような、神聖な静けさが漂っている。


「うわあ……真っ白。悠さん、これ入れるんですか?」

 ノアが不安そうに霧を見つめる。

「大丈夫だよ」


 《海風(ブリーズ)()加護(ギフト)》が、静かに働いて、霧がまるでカーテンを開けるように左右へ割れていく。

 開かれた視界の先――。

 月の光を浴びて、苔むした石造りの桟橋と、植物に覆われた古いゲートが姿を現した。


 朽ちているのに、寂れてはいない。

 花々は主がいなくなった今も自由に咲き誇り、煉瓦の隙間から伸びた蔦が芸術的な装飾のように絡まっている。

 島全体が、巨大な箱庭のようだ。


 桟橋に船を寄せ、もやい綱を結ぶ。

 波の音さえ、ここでは遠慮がちに響く。

「ピィ……」

 いつもは元気なシロも、この空気を読んでか、小声で鳴いてサリヴァンの肩に止まった。


 ゲートの入り口には、風化した木の看板が立っている。

 悠がランタンの光を近づけ、掠れた文字を読んだ。


『――お静かに。木々が眠っています』


「木々が眠ってる、か。粋な看板だな」

 サリヴァンが感心する。

「では、僕らもお邪魔させてもらおうか。……シーッ、足音は忍ばせてね」


 悠たちは、侵入者ではなく、夜更けの訪問者として、足を踏み入れた。


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