第6話 白き実の眠る月夜のティータイム
カリ、コリ、カリ、コリ。
波の音に重なって、実が砕かれる感触が指先に伝わる。
それは、朝の礼拝にも似た、神聖な時間だった。
「……ふう。いい香りだ」
シーウィンド号の甲板。
朝の柔らかな日差しの中で、悠は愛用の手挽きミルを止めた。
挽いているのはアーラの実だ。コーヒーに似た芳醇な苦味の中に、ナッツのような甘いコクが隠れている。
前世、営業職としてコンクリートジャングルを駆けずり回っていた頃、缶コーヒーはただのカフェイン摂取手段だった。だが今は違う。
一杯のアーラを味わうこと。それは、かつて働きすぎた彼が手に入れた、《人生を楽しむ》ための儀式。
「おはよう、悠さん。今日もまた、すごい顔でミルを回してましたよ」
「えっ、すごい顔?」
「はい。なんというか……この世の真理を探究する学者みたいな顔で」
焼きたてのパンが入ったバスケットを抱え、ノアが苦笑いしながらやってきた。
ノアの焼くパンの香りは、アーラの香りと相性が良い。
「おはよう、ノア。いや、あながち間違いじゃないよ。僕は今、真理に挑もうとしているからね」
「真理って……朝ごはんの話ですよね?」
「いいや、もっと重要なことだ」
悠は挽き終わった粉をドリッパーにセットし、温度調節したお湯を、一滴、また一滴と落としていく。
ふわり、と土と風の混じったようなアロマが立ち昇った。
「ノア。サリヴァンさんが昔聞いた噂なんだけど、『満月の夜にしか開かない幻のアーラ』があるらしい」
「幻の?」
「その名も『ホワイト・アーラ』。ミルクを入れなくても、まるで極上のカフェオレのように甘く、飲むだけで魂がとろけるような味がするそうだ」
「うわあ……。なんですかそれ、僕のパンに絶対合うじゃないですか」
「だろう?」
湯気を吸い込みながら、悠はテーブルの上で力説した。
大の大人が、宝の地図を前にした子供のような目をしている。
そこへ、優雅な足音と共に、アイリスが現れた。彼女の手には清潔なリネンが抱えられている。
「悠さん、並びにノアさん。心拍数がわずかに上昇しています。興奮状態は消化に良くありません」
「アイリス、聞いてくれ。次の目的地が決まったかもしれない」
「……無人島のことでしょうか?」
「さすがアイリス、話が早い。そこだ」
アイリスはわずかに首をかしげさせた。
「記録データベースを検索……該当地域にモンスターの反応なし。危険生物の報告もゼロ。あるのは『放置された古い諸島』のみ。……推奨します。悠さんの精神衛生上、きわめて良好なピクニックコースかと」
「魔物がいない、というのは最高だね」
「はい、実に効率的です」
そこへ、上空から「ピィー!」という鳴き声が降ってくる。
白い翼を広げたカモメのシロと、それを追いかけるよう甲板に降りてきたリィア。
「なになにー? どっか行くのー?」
「おはよう、リィア。美味しい実を探しに、ちょっと夜の散歩に行こうかと思ってね」
「おいしい実! 行く行く! 私、その島の風の匂い知ってるかも! 甘くてね、なんかこう、フワフワした匂いなのよ」
釣り糸を垂らしていたサリヴァンんが、のんびりと振り返った。
「そいつは楽しみじゃな。昔、その海域で金色のトビウオを見たことがある。釣竿の手入れをしとかんといかんな」
悠は満足げに頷いた。
仲間たちの賛同は得られた。敵はいない。あるのは静寂と、まだ見ぬ美味のみ。
「よし。じゃあ今夜は満月だ。風任せ……いや、この場合は“風石”任せで、シレントへ行こう」
悠は出来上がったばかりのアーラを一口飲み、海へ向かってカップを掲げた。
「目的は、究極のティータイム!」
夜の海は、昼とは全く違う顔を見せる。
船が進むたび、船首が切り裂いた波が光の飛沫となって舞い上がる。
シーウィンド号は、そんな幻想的な海の上を、音もなく滑るように進んでいた。
風石エンジンは、静かに帆を押す推進力だ。
ユウは舵輪を握り、心地よい夜風を全身で感じていた。
「悠さん。目的の島影を視認しました」
隣で双眼鏡を構えていたアイリスが、静かな声で告げる。
「ありがとう。……すごいな」
海上に浮かび上がったのは、綿菓子のような霧に包まれた小さな島だった。
不気味さはない。むしろ、雲が海面に降りてきて休憩しているような、神聖な静けさが漂っている。
「うわあ……真っ白。悠さん、これ入れるんですか?」
ノアが不安そうに霧を見つめる。
「大丈夫だよ」
《海風の加護》が、静かに働いて、霧がまるでカーテンを開けるように左右へ割れていく。
開かれた視界の先――。
月の光を浴びて、苔むした石造りの桟橋と、植物に覆われた古いゲートが姿を現した。
朽ちているのに、寂れてはいない。
花々は主がいなくなった今も自由に咲き誇り、煉瓦の隙間から伸びた蔦が芸術的な装飾のように絡まっている。
島全体が、巨大な箱庭のようだ。
桟橋に船を寄せ、舫い綱を結ぶ。
波の音さえ、ここでは遠慮がちに響く。
「ピィ……」
いつもは元気なシロも、この空気を読んでか、小声で鳴いてサリヴァンの肩に止まった。
ゲートの入り口には、風化した木の看板が立っている。
悠がランタンの光を近づけ、掠れた文字を読んだ。
『――お静かに。木々が眠っています』
「木々が眠ってる、か。粋な看板だな」
サリヴァンが感心する。
「では、僕らもお邪魔させてもらおうか。……シーッ、足音は忍ばせてね」
悠たちは、侵入者ではなく、夜更けの訪問者として、足を踏み入れた。




