第5話 目覚めは女神の腕の中で
シーウィンド号の船室。
ベッドで眠る悠の顔には、この世界の潮風がもたらした穏やかな日焼けと、健やかな血色が滲んでいた。
彼は、心地よい船の揺れに合わせて深い眠りに落ちてゆく。
その穏やかな安寧は、冷たい記憶によって破られてゆく。
意識が波音から、深深く沈み込む。
やがて、その意識が底についた時、彼は別の肉体、別の場所で、再び呼吸を始めた。
朝、耳元でけたたましく鳴り響くアラームの電子音。
体は鉛のように重い。
昨夜、深夜3時過ぎ倒れ込むように寝たはずなのに、少しも疲労がとれてない。
目覚めの冷たい吐息と共に、今日のノルマが頭に浮かぶ。
「……行かなきゃ」
蛍光灯の冷たい光が照らす狭いキッチンで、インスタントのコーヒーを流し込み、体を無理やり起動させる。
スーツを着込み、駅へ向かう。
朝の通勤ラッシュ。
人、人、人。
体温と、生ぬるい吐息と、香水と、汗とが混ざり合った、この世界の生臭い匂い。
満員電車の中で、悠は体の自由を奪われる。
背後からの無言の圧力が、まるで人生の重圧そのもののように、彼の胸を押し潰していた。
午前9時。
デスクに辿り着いた瞬間から、悠は“営業”という名の戦場に立つ。
モニターには次々に届くメール。
その一つ一つが、取引先の不満、上層部のプレッシャー、そして絶対に達成しなければならない“数字”。
昼休みは、時計の針が回りきる前に、コンビニのサンドイッチをデスクで詰め込む。
太陽の光を浴びる余裕もない。
彼は午後、取引先のビルの前で、深々と頭を下げる。
「申し訳ありません。来週までになんとか……」 深々と誠心誠意、頭を下げる。
責任感の強い男だった。
顧客の期待を裏切れない。
数少ない部下を守らなければ。
会社を支えなければ。
その強すぎる性分が、彼を泥沼の奥へと引きずり込んでいく。
「疲れた」という感情は、もう数カ月前から彼の辞書に存在しなかった。
あるのは、ただの義務と、持続する疲労だけだ。
午後8時。外はもう真っ暗だ。
部下たちが帰り始める。
「藤川さん、お先に失礼します!」
「ああ、お疲れ」
笑顔で送り出すが、悠は知っている。
自分は、終電のない世界に一人残されるのだ。
壁の時計は午後11時を回り、日付が変わる。 午前0時。午前1時。
――カタカタカタ。
深夜のオフィスに、キーボードの音だけが、虚しく、そして乾いた旋律のように響き続ける。
壁の時計はすでに午前1時半。
モニターに並ぶのは、取引先とのメール、予算資料、そして進まない社内調整。画面の向こうの誰かを、今日も納得させるために。
デスクに突っ伏したまま、疲労で腕が震え、マウスを動かす手がもう言うことを聞かない。だが、彼の内側にある“責任”が、彼を解放してくれない。
(……動け。終わらせろ。今日中に、これを。これをやらなければ、明日の自分が破綻する)
しかし、明日の自分が破綻しないために、今日の自分はすでに限界を超えている。
悠はマウスに手を這わせようとするが、指一本動かない。 瞼の奥が焼け付くように熱い。
体中の熱が引いていく。
そして、彼は悟る。
この作業が終わっても、明日も明後日も、この孤独な戦いは終わらない。終わらない日常のループの中に、自分は永遠に囚われているのだ、と。
「……」
深い、静かな諦念が全身を包み込んだ。
そして、その重苦しい徒労感の中で、彼の意識は冷たいまま、静かに途絶えた。
――その、底のない闇の中で。
ふわりと、柔らかな温もりが彼を包み込んだ。
凍えきった心を溶かすような、慈愛に満ちた抱擁。
耳元に触れる、その安らぎに導かれ、沈んでいた魂が浮上していく。
ザザア……
耳に、潮の満ち引きと、船底を撫でる穏やかな波の音が響き渡る。
悠はハッと目を開けた。
白いシャツの胸元が、冷や汗で湿っていた。
しかし、そのシャツの下にあるのは、かつての42歳の肉体が発していた警報のような痛みではない。
潮風に晒され、太陽を浴びて鍛え上げられた、健康で充実した肉体だ。
身を起こすと、窓から射し込む朝の光は、オフィスの蛍光灯のような冷たい白ではなく、熱帯の海を思わせる、深く暖かな金色をしていた。
「……ふう」
前世では決して吐き出せなかった、安堵のため息を吐いた。
彼はそっと船室を出る。
手には、アーラの実を挽いて淹れるための、コーヒーミルと、使い込まれたお気に入りのマグカップを持って。
太陽の光を浴びながら、デッキで静かにコーヒーを淹れ始めた。
《シーウィンド号》は、次の島を目指して、ゆっくりと波を割って進んでいる。




