第4話 ラスト・プレゼンテーションと、最高の最敬礼
東の水平線が白み始め、海と空の境界が曖昧に溶け合う刻。
《シーウィンド号》の甲板には、朝露に濡れた手すりに寄りかかる、一人の男の背中があった。
「……眠れなかったの、山田さん」
悠が声をかけると、修は驚いたように肩を跳ねさせ、それから照れくさそうに振り返った。
その手には、ボロボロになった革の鞄が握りしめられている。
「ええ。……人生の棚卸しを、少し」
修は、昇ってくる朝日を見つめて言った。
「悠さん。私、決めました」
その声には、もう迷いはなかった。
「ここに残ります。日本には……帰りません」
悠は黙って頷き、隣に並んだ。
修は、どこか遠くを見るような目で語り始めた。
「日本では、私はただの歯車でした。満員電車に揺られ、頭を下げ、数字を追いかける毎日。マンホールに落ちたあの日も、考えていたのは《謝罪先への言い訳》だけでした」
修は自嘲気味に笑い、それから愛おしそうに島の方角――まだ眠っている珊瑚の街を見やった。
「でも、ここでは違います。私の“掃除”を魔法だと言ってくれる。私の“気配り”を才能だと言ってくれる。……昨夜、巫女様に言われました。《貴方がいると、風が優しくなる》と」
修んは眼鏡を外し、袖でゴシゴシと拭った。
「40年生きてきて、こんなに必要とされたのは初めてなんです。……ここが、私の新しい“営業所”です」
その言葉を聞いた瞬間、マストの影から小さな影が飛び出した。
「……承認!」
アイリスだ。
彼女はずっと聞いていたらしい。
歩み寄ると、修のスーツの裾をぎゅっと掴んだ。
「計算終了。ヤマダの選択は、論理的に正しいです。こちらの環境の方が、貴方のステータスを最大限に発揮できる。……ですが」
アイリスは、修を見上げた。
「……エラー発生。胸のあたりが、チクチクします。ヤマダがいなくなると、船の積載重量は軽くなるのに、どうしてアイリスの心は重いのでしょう?」
「アイリスさん……」
修は、彼女の頭を、不器用な手つきで撫でた。
「それはね、《寂しい》という感情ですよ。……私にとっても、光栄なエラーです」
朝日が完全に昇り、海面が黄金色に輝き始めた。
新しい一日の、そして新しい人生の始まりだった。
出発の時。
《珊瑚環礁群》の桟橋には、島の住人が総出で見送りに来ていた。
色とりどりの衣装を着た人々が手を振り、楽器を鳴らす。
その中心に、山田修の姿があった。
彼はもう、くたびれたスーツを着ていない。
島特有の、白く輝く麻の衣を身にまとい、首には貝殻の首飾りをかけている。
だが、その鼻には変わらず黒縁眼鏡があり、背筋はピンと伸び、その立ち姿は紛れもなく《日本のサラリーマン》だった。
「ヤマダさん! 元気でね! パンのレシピ、厨房の人に渡しておいたから!」
ノアが船べりから大きく手を振る。
「達者でな。働きすぎて腰を痛めるんじゃねえぞ」
サリヴァンが舵を握りながら、ぶっきらぼうだが温かい声をかける。
「貴方の話は、とても楽しかったわ。……風が、いつも貴方を守りますように」
リィアが歌うように告げた。
修は、一人一人に深く頭を下げ、そして最後に悠の方を見た。
修は懐から、何かを取り出した。
「悠さん! これ、受け取ってください!」
修が投げたものを、悠は空中でキャッチした。
それは、白樺の樹皮を薄く削り、丁寧に加工して作られた――“名刺”だった。
そこには、墨のような植物の汁で、達筆な文字が書かれている。
《珊瑚環礁群 最高管理責任者 兼 清掃係長 山田 修》
「……ははっ、出世したね、係長!」
悠が笑うと、修も満面の笑みを返した。
「ええ! これからは、この島が私の“弊社”です! いつかまた皆様が立ち寄られた際は、最高の・お・も・て・な・し、をさせていただきますので!」
……音を立てて、《シーウィンド号》が岸を離れ始めた。
距離が開いていく。
修は、桟橋の最先端まで歩み出ると、大きく息を吸い込んだ。
「皆様ーッ! この御恩は一生忘れません! 旅の安全を、心よりお祈り申し上げます!!」
そして。
彼は、青い海と空に向かって、あの完璧な角度の“最敬礼”をした。
腰を九十度に曲げ、指先を揃え、微動だにしない。
それは、彼が元の世界で生き抜くために身につけた処世術であり、今、この世界で彼を“賢者”たらしめる、最大の魔法だった。
「……推奨、映像保存。フォルダ名《大切な思い出》」
アイリスが、遠ざかるその姿を瞳に焼き付けるように見つめ続ける。
「さようなら、ヤマダ。……お元気で」
船が見えなくなるまで、その白い姿は頭を下げ続けていた。
数時間後。
《シーウィンド号》は、順調な風を受けて航行していた。
いつもの日常が戻ってきた。
だが、食料庫は完璧に整理整頓され、甲板はピカピカに磨かれている。
彼がいた痕跡は、船のあちこちに残っていた。
悠は、手すりに寄りかかりながら、貰ったばかりの《樹皮の名刺》を眺めた。
「……山田さんなら、うまくやるだろうな」
「はい。計算によると、あの島の観光収入と幸福度は、今後10年で200%上昇する予測です」
アイリスが、隣に座って空を見上げた。
「ヤマダは『プロ』ですから」
「違いない」
悠は名刺を大切に胸ポケットにしまうと、視線を前方に向けた。
空は青く、海は広い。
どこかの空の下で、今日もあの眼鏡の男が、汗を拭いながら誰かのために頭を下げ、そして誰かを笑顔にしていることだろう。
「さて、行くか! いい風が吹いてるぞ!」
帆が大きく膨らむ。
一行は笑顔で、新たな水平線へと進んでいく。
背中には、世界一腰が低く、世界一頼りになる“管理人”がいる楽園を感じながら。




