表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第7章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/50

第4話 ラスト・プレゼンテーションと、最高の最敬礼

 東の水平線が白み始め、海と空の境界が曖昧に溶け合うとき


 《シーウィンド号》の甲板には、朝露に濡れた手すりに寄りかかる、一人の男の背中があった。


「……眠れなかったの、山田さん」

 悠が声をかけると、修は驚いたように肩を跳ねさせ、それから照れくさそうに振り返った。


 その手には、ボロボロになった革の鞄が握りしめられている。


「ええ。……人生の棚卸しを、少し」

 修は、昇ってくる朝日を見つめて言った。


「悠さん。私、決めました」

 その声には、もう迷いはなかった。


「ここに残ります。日本には……帰りません」

 悠は黙って頷き、隣に並んだ。


 修は、どこか遠くを見るような目で語り始めた。


「日本では、私はただの歯車でした。満員電車に揺られ、頭を下げ、数字を追いかける毎日。マンホールに落ちたあの日も、考えていたのは《謝罪先への言い訳》だけでした」


 修は自嘲気味に笑い、それから愛おしそうに島の方角――まだ眠っている珊瑚の街を見やった。


「でも、ここでは違います。私の“掃除”を魔法だと言ってくれる。私の“気配り”を才能だと言ってくれる。……昨夜、巫女様に言われました。《貴方がいると、風が優しくなる》と」


 修んは眼鏡を外し、袖でゴシゴシと拭った。


「40年生きてきて、こんなに必要とされたのは初めてなんです。……ここが、私の新しい“営業所”です」


 その言葉を聞いた瞬間、マストの影から小さな影が飛び出した。


「……承認アクセプト!」

 アイリスだ。


 彼女はずっと聞いていたらしい。

 歩み寄ると、修のスーツの裾をぎゅっと掴んだ。


「計算終了。ヤマダの選択は、論理的に正しいです。こちらの環境の方が、貴方のステータスを最大限に発揮できる。……ですが」


 アイリスは、修を見上げた。


「……エラー発生。胸のあたりが、チクチクします。ヤマダがいなくなると、船の積載重量は軽くなるのに、どうしてアイリスのコアは重いのでしょう?」


「アイリスさん……」

 修は、彼女の頭を、不器用な手つきで撫でた。


「それはね、《寂しい》という感情ですよ。……私にとっても、光栄なエラーです」


 朝日が完全に昇り、海面が黄金色に輝き始めた。

 新しい一日の、そして新しい人生の始まりだった。


 出発の時。


 《珊瑚環礁群》の桟橋には、島の住人が総出で見送りに来ていた。


 色とりどりの衣装を着た人々が手を振り、楽器を鳴らす。

 その中心に、山田修の姿があった。

 彼はもう、くたびれたスーツを着ていない。

 島特有の、白く輝く麻の衣を身にまとい、首には貝殻の首飾りをかけている。


 だが、その鼻には変わらず黒縁眼鏡があり、背筋はピンと伸び、その立ち姿は紛れもなく《日本のサラリーマン》だった。


「ヤマダさん! 元気でね! パンのレシピ、厨房の人に渡しておいたから!」

 ノアが船べりから大きく手を振る。


「達者でな。働きすぎて腰を痛めるんじゃねえぞ」

 サリヴァンが舵を握りながら、ぶっきらぼうだが温かい声をかける。


「貴方の話は、とても楽しかったわ。……風が、いつも貴方を守りますように」

 リィアが歌うように告げた。


 修は、一人一人に深く頭を下げ、そして最後に悠の方を見た。


 修は懐から、何かを取り出した。


「悠さん! これ、受け取ってください!」

 修が投げたものを、悠は空中でキャッチした。


 それは、白樺の樹皮を薄く削り、丁寧に加工して作られた――“名刺”だった。


 そこには、墨のような植物の汁で、達筆な文字が書かれている。

 《珊瑚環礁群 最高管理責任者 兼 清掃係長  山田 修》


「……ははっ、出世したね、係長!」

 悠が笑うと、修も満面の笑みを返した。


「ええ! これからは、この島が私の“弊社へいしゃ”です! いつかまた皆様が立ち寄られた際は、最高の・お・も・て・な・し、をさせていただきますので!」


 ……音を立てて、《シーウィンド号》が岸を離れ始めた。


 距離が開いていく。


 修は、桟橋の最先端まで歩み出ると、大きく息を吸い込んだ。


「皆様ーッ! この御恩は一生忘れません! 旅の安全を、心よりお祈り申し上げます!!」


 そして。


 彼は、青い海と空に向かって、あの完璧な角度の“最敬礼”をした。


 腰を九十度に曲げ、指先を揃え、微動だにしない。


 それは、彼が元の世界で生き抜くために身につけた処世術であり、今、この世界で彼を“賢者”たらしめる、最大の魔法だった。


「……推奨、映像保存。フォルダ名《大切な思い出》」

 アイリスが、遠ざかるその姿を瞳に焼き付けるように見つめ続ける。


「さようなら、ヤマダ。……お元気で」


 船が見えなくなるまで、その白い姿は頭を下げ続けていた。


 数時間後。


 《シーウィンド号》は、順調な風を受けて航行していた。


 いつもの日常が戻ってきた。

 だが、食料庫は完璧に整理整頓され、甲板はピカピカに磨かれている。

 彼がいた痕跡は、船のあちこちに残っていた。


 悠は、手すりに寄りかかりながら、貰ったばかりの《樹皮の名刺》を眺めた。


「……山田さんなら、うまくやるだろうな」


「はい。計算によると、あの島の観光収入と幸福度は、今後10年で200%上昇する予測です」

 アイリスが、隣に座って空を見上げた。

「ヤマダは『プロ』ですから」


「違いない」

 悠は名刺を大切に胸ポケットにしまうと、視線を前方に向けた。


 空は青く、海は広い。


 どこかの空の下で、今日もあの眼鏡の男が、汗を拭いながら誰かのために頭を下げ、そして誰かを笑顔にしていることだろう。


「さて、行くか! いい風が吹いてるぞ!」


 帆が大きく膨らむ。


 一行は笑顔で、新たな水平線へと進んでいく。

 背中には、世界一腰が低く、世界一頼りになる“管理人”がいる楽園を感じながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ