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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第7章

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第3話 星降る真夜中のヘッドハンティング

「あれ? ヤマダさんはどこ行った?」

 骨付き肉を頬張りながら、ノアがキョロキョロと周囲を見回した。


 《珊瑚環礁群》の広場で催された宴は、最高潮を迎えていた。


 松明の炎が爆ぜる音、島民たちの笑い声、そしてリィアが歌う音色が、夜風に乗って混ざり合う。


「……あそこだ」

 悠が指差した先。


 宴会場の喧騒から一歩引いた薄暗がり――厨房と客席を繋ぐ動線上で、その男は上着を脱ぎ捨て、ワイシャツの袖をまくり上げて走り回っていた。


「あ、こちらのテーブル、空いたお皿が溜まってますね。お下げします!すぐに新しい取り皿を!」


「お酒のペースが少し速いようです。次の樽の開栓準備をお願いします!あ、そちらの方にはお水も。悪酔い防止です、チェイサーは大事ですよ!」


「こらこら、お子様たちは走り回らない。料理を持って転んだら大変です。ほら、このエプロン代わりの大きな葉っぱをつけてあげましょう」


 修は、誰よりも忙しく、そして誰よりも生き生きと働いていた。


 その動きには、一切の無駄がない。

 空いたグラスを見逃さない動体視力。

 料理がなくなる数分前に次の皿を手配する予測能力。

 酔っ払い同士の小競り合いを、笑顔一つと絶妙な話題転換で鎮める交渉術。


 そして何より、給仕をする島民たちへの的確な指示出し。


 日本の過酷な接待文化と、忘年会シーズンの修羅場で培われた

「気配りスキル」が、この異世界の宴で芸術的なまでに発揮されていたのだ。


「……座ってればいいのに。今日の主役は山田さんだろうに」

 悠が呆れつつも、その手際の良さに感心しながら杯を傾ける。


「いや、止めても無駄だろうな。ヤマダ、じっとしてる方が落ち着かないんだろ」

 サリヴァンも苦笑しながら、焼きたての魚に塩を振った。


「見てみろ。ヤマダが動くたびに、酒がうまく回る。

 誰も不快な思いをしてねえ。……大したもんだよ」


 その光景を、隣で果物を齧っていたアイリスが、じっと見つめていた。


 その瞳の中で、幾重ものレンズがカシャリカシャリと駆動し、ヤマダをズームする。


「……理解不能」

 アイリスが可愛らしく首を傾げた。


「分析。ヤマダ個体の肉体的疲労度は上昇中。汗の量も推奨値を超えてる。なのに……脳内物質、ドーパミンとオキシトシンの分泌量が、この島に来てから最大値を記録してます?」


「疲れてるのに、幸せってこと?」

 悠が尋ねる。


「はい。不思議です。ただお皿を運んでるだけなのに、島全体の《幸福効率》を最適化してるみたです。……見てください、彼が動くと、場の混乱エントロピーが減少して、みんなの笑顔の数値が上がってます」


 アイリスの言う通りだった。


 修は、ただ働いているのではない。

 修はこの宴という空間を“管理マネジメント”していた。


 誰一人として疎外感を感じさせず、料理を行き渡らせ、心地よい時間を演出する。

 それは魔法ではないが、ある種のマジックだった。


「ふぅ……! そちらの席、焼き魚追加入りまーす!」


 遠くで声を張り上げる山田さんの顔は、汗まみれだが、日本でマンホールに落ちてきた時の死んだような表情とは別人のように輝いていた。


 宴もたけなわとなり、夜空には満天の星が広がっていた。

 波の音が心地よいBGMのように響く深夜。


 大半の島民が心地よい酔いに微睡み始めた頃、修はようやく一息ついて、宴の輪から離れた浜辺の静かな一角へ向かった。


 手には、自分用に確保していた一杯の果実水。


「ふぅ……。皆様、楽しんでいただけたようで何よりです」

 修は白い流木に腰掛け、ネクタイを少しだけ緩めた。


 日本にいた頃、仕事終わりに一人で飲む缶ビールは、いつも少し苦くて、ぬるかった。


 孤独と徒労感が炭酸と一緒に喉を焼いたものだ。


 けれど今、喉を通る水は驚くほど甘く、冷たい。

 心地よい疲労感。誰かの役に立ったという確かな実感。


「お疲れ様です、ヤマダ様」

 背後から、凛とした声がかかった。


 慌てて振り返ると、月明かりの下に、この島の長である巫女が立っていた。

 儀礼用の杖をつき、星明かりを映した瞳で修を見下ろしている。


「あ、これは巫女様! と、とんでもない! すぐに何か敷くものを……ああっ、名刺の予備しかありませんが!」


 反射的に立ち上がり、ポケットを探る修を、巫女は静かに制した。


「どうかそのままで。……貴方様とお話ししに来たのですから」

 巫女は、山田さんの隣にそっと腰を下ろした。


 波が寄せては返す音だけが、二人の間に流れる。


 しばらくの沈黙の後、巫女は夜の海を見つめたまま語り始めた。


「この島は、《歌う貝》の加護で守られています。ですが、貝は人々の心の“(よどみ)”に敏感です。争い、嫉妬、怠慢……そうした負の感情が蓄積すると、貝は殻を閉じ、私たちは眠りにつくしかないのです」


「……大変なシステムなんですね。セキュリティが厳格というか」


「ええ。長年、私たちはその“澱”を取り除く術を探していました。魔法で清めても、すぐにまた溜まってしまう。……ですが」


 彼女はゆっくりと山田さんに向き直った。


「貴方様の今日の働きを見て、確信しました。貴方様が広場を磨いた時、そして今宵の宴で人々をもてなした時……そこには“奉仕”と“調和”の心がありました。誰も見ていない場所で汗をかき、他者の喜びを我がこととする。それこそが、最も尊い浄化の魔法なのです」


 修は、恐縮して身を縮こまらせた。


「いや、そんな高尚なものでは……私はただ、性分と言いますか、しがない係長でして……」


「ヤマダ様」

 巫女の声が、一段低く、熱を帯びた。


「単刀直入に申し上げます。

 貴方様に、この島の“管理者”になっていただきたいのです」


 波の音が、一瞬遠のいた気がした。


 修は、間の抜けた顔で眼鏡をずり落とした。

「……は? か、管理者、ですか? 私が?」


「はい。神殿の維持管理、祭事の進行、そして外部との外交窓口。貴方様のその類稀なる《気配り》と《実務能力》があれば、この島は二度と深い眠りにつくことはないでしょう。……どうか、我々を導いてはいただけませんか?」


 それは、異世界からの、人生最高ランクのヘッドハンティングだった。


 修は口をパクパクさせた。言葉が出てこない。


 帰る? どこへ?


 満員電車に揺られ、理不尽なノルマに追われ、マンホールの蓋が開いていることにすら気づけないほど疲れ切っていた、あの日常へ?


 それとも、ここで生きる?


 “魔法使い”としてではなく、一人の“実務家”として、これほどまでに必要とされ、感謝されるこの場所で?


 彼は震える手で、ボロボロになった自分の鞄を握りしめた。


 中には、もう配る相手もいない日本の名刺と、インクの切れかけたボールペンが入っているだけだ。


 だが、今の彼にはそれが、何よりも頼もしい“武器”に思えた。


「……少しだけ。朝まで、考えさせていただけますか」

 修の震える声に、巫女は深く一礼をした。


「お待ちしております。風と潮が、貴方様の心を導きますように」

 巫女が去った後も、修はしばらく動けなかった。


 ただ、広すぎる星空の下で、自分の掌をじっと見つめ続けていた。


 その掌にあるのは、ただのマメと、ささやかな達成感。


 夜明けは近い。

 山田修の人生における、一番長い夜が更けていった。

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