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アーシェル・ブルー  作者: ニート主夫
第7章

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第2話 感謝の海、微笑む貝

 最初の数日、修は船酔いという名の、陸の人間にとっての洗礼を受けていた。


 揺れる甲板の上、青白い顔で手すりに寄りかかりながらも、

「ご迷惑をおかけします……自己管理不足でして……」と繰り返す。


 その姿は痛々しくも、どこか憎めない律儀さに満ちていた。


「無理するなよ、ヤマダ。海のリズムに体が馴染むまでは、誰だってそうなる」

 サリヴァンが、特製のハーブティーが入った木彫りのカップを差し出す。


 修はそれを、九十度の角度で頭を下げて受け取ると、震える手で口に運び、ほっと息をついた。

「ありがとうございます……。御社の福利厚生の手厚さには、涙が出る思いです」


「ふくり……なんだって?」

 サリヴァンが苦笑し、ノアが心配そうに背中をさする。そんな穏やかな時間が流れていた。


 海が凪いだ午後、修は甲板でビジネスバッグの中身を広げていた。


 くたびれた革の鞄から現れたのは、この世界の住人にとっては不思議な工芸品に見えるものばかりだ。


「これは……鏡、ではないわね?」

 リィアが興味深そうに覗き込むのは、バッテリーの切れたスマートフォンだ。


 アイリスはそっとそれを手に取ると、その滑らかな表面を指でなぞった。

「黒い結晶体……非常に精緻な加工。ですが、内部の光は眠っているようです」


 修は、手帳、三色ボールペン、そしてびっしりと名前が印刷された名刺の束を並べ、遠い目をして言った。

「私の商売道具はこれだけなんです。対話と、笑顔と、あとは……そう、感謝の心です」


 その“商売道具”が役に立つ時は、すぐに訪れた。


 《珊瑚環礁群》に近づくにつれ、海の色は深みを増し、巨大な海亀の甲羅のような島々が見え始めた頃だ。


 極彩色の装飾を施した小舟が数隻、《シーウィンド号》に近づいてきた。


 《海遊牧の民》

 日に焼けた肌に貝殻のアクセサリーを身につけた彼らは、大声でこちらを呼び止めた。

「おーい! そこの船! ここは俺たちの庭だぞ! 通るなら挨拶くらいしていけ!」


 彼らの声は大きく、身振りは激しい。


 海の男たち特有の荒っぽい歓迎に、サリヴァンが困ったように眉を下げ、悠がどう返事をしたものかと首をかしげた、その時だった。


「お、お待ちください! ご挨拶が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます!」

 修が、ふらつきながらも甲板の中央に進み出た。


 彼は相手の小舟に向かって、船べりから身を乗り出すと、人生で最も美しく、そして丁寧なお辞儀をして見せた。


「この度は、弊社の航路通過に際し、わざわざのお出迎え、誠にありがとうございます!

 代表取締役ではございませんが、私が責任を持ってご挨拶させていただきます!」


 海遊牧の民たちは、あまりにも丁寧すぎる物言いに、漕ぐ手を止めてぽかんとした。


「あ? なんだその変な喋り方は。お前、どこの国の貴族だ?」


「いえ、貴族など滅相もない! 私、ただのしがない営業職でして……」


 修はすかさず懐から名刺入れを取り出すと、一枚を恭しく両手で掲げた。


「私、株式会社カワダ商事、営業三課の山田修と申します! 以後、お見知りおきを!」


 差し出された白いカード。リーダーらしき男がそれを受け取り、不思議そうに眺めた後、ニカっと笑った。


「丁寧に名乗ってくれてありがとな、ヤマダ! 俺たちはただ、面白い積荷がないか見に来ただけなんだが、随分と律儀なやつだな!」


 修の必死の低姿勢は、彼らにとって《最高の敬意》として受け入れられたようだった。


 そこからは、洋上のピクニックのような交流会となった。


 修は身振り手振りと、営業で培った「相手を安心させる笑顔」を駆使して場を和ませる。


 ノアが焼きたてのパンを「弊社自慢の試供品でございます」と差し出せば、

 民たちは「こんなふわふわな食い物は初めてだ!」と歓声を上げてそれを頬張った。


 お返しにと、彼らは獲れたばかりの果実を投げ渡してくる。


 小一時間後。

 《シーウィンド号》は、たくさんの果物と、海遊牧の民たちから

「夕食に」と贈られた巨大な魚まで得て、彼らの集落エリアを通過していた。


 遠ざかる小舟からは、大きく手を振る彼らの姿が見える。


「……すごいな、ヤマダ。ただの挨拶だけで、あんなに仲良くなっちまうなんて」

 ノアが感心して言うと、悠もまた、穏やかな顔で頷いた。


「何も使わずに、心を掴むなんて」


「いえ、これが私の普通でして……」


 修ははにかんだ。

 その笑顔には、異世界への不安よりも、誰かと心を通わせられたことへの温かな喜びが滲んでいた。


 やがて、水平線の彼方に、陽光を浴びて宝石のようにきらめく島々の連なりが見えてきた。


 エメラルドグリーンの浅瀬がレースのように大陸棚を飾り、空には歌うような声を持つ七色の鳥たちが舞っている。


 《珊瑚環礁群コーラル・リム


 そのあまりの美しさに、誰もが息を呑んだ。


 だが、近づくにつれて奇妙な静けさが気になり始めた。


 アイリスが、その美しい光景を見つめながら、静かに呟く。

「……観測。環礁中心部、極めて静謐せいひつ。生命反応は多数ありますが……全員、穏やかな休息状態にあるようです」


 桟橋に降り立つと、そこは淡いピンクや純白の珊瑚がそのまま家や塔として成長したような、幻想的な街並みだった。

 だが、住人はみな、家の中や木陰でこっくりこっくりと船を漕いでいる。


 広場へ向かうと、そこには巨大な虹色の巻貝が祀られていた。

 しかし、その表面は埃を被り、白くくすんでしまっている。


「これが《歌う貝》……この島の守り神みたいなものよ」

 リィアが小声で説明する。


「海と空の調和が感じられなくなると、この貝は殻を閉ざして、街の人々も一緒に《安らぎの眠り》につく習性があるの」


「つまり、みんなでお昼寝中ってこと?」


「ええ。目覚めさせるには、活気ある《調和の心》と《感謝》が必要なんだけど……」

 リィアが困ったように眉を寄せる。


 その時だった。


「ほう……これはまた、立派なモニュメントですねぇ」

 修が、感嘆の声を漏らして巻貝の前に進み出た。


 彼はスーツの内ポケットからハンカチを取り出すと、誰に言われるでもなく、くすんで汚れた巻貝の表面を、キュッキュと丁寧に拭き始めたのだ。


「お、山田さん? 何してるんだい?」

 悠が驚いて声をかけると、修は手を休めずに笑顔で振り返った。


「いえね、営業の基本は身だしなみと、環境整備ですから。訪問先のエントランスが汚れていては、良い商談もできません。神様だか守り神だか存じませんが、少しお疲れのようですので、せめて綺麗にして差し上げようかと」


 それは、打算のない無心な行動だった。


 ただ、美しいものが汚れているのが忍びない。


 お邪魔するなら、少しでも綺麗にしたい。


 長年のサラリーマン生活で染み付いた“奉仕の精神”と来た時よりも美しくという謎の矜持。


 修は、額に汗を浮かべながら、懸命に巻貝を磨き続けた。

「ここも、もう少し艶が出れば……よしよし、いい輝きだ」


 その姿を見て、ノアが噴き出した。

「あはは! なんか山田さん見てると、難しく考えてたのが馬鹿らしくなってくるな。僕も手伝うよ!」


「私も。風に乗せて埃を飛ばすくらいならできるわ」


「ピィ!」


 ノアが袖をまくり、リィアが優しい風を起こす。


 シロもその辺の海藻を咥えて掃除に参加し始めた。


 呆れていたサリヴァンも、やれやれと肩をすくめて手桶で海水を運び出し、悠は高いところの汚れを《潮風(タイド)()(ハンド)》で拭っていく。


 いつしか、それは儀式ではなく、ただの楽しい大掃除になっていた。


 和気藹々とした空気。働く喜び。そして、何より《綺麗になって気持ちいい》という純粋な充足感。


 アイリスが、ピクリと反応する。

「……エネルギーパターン、変化。《停滞》から《流動》へ。これは――」


 修が、最後の一拭きを終え、ピカピカになった巻貝に満足げに一礼した、その瞬間だった。


 ――ヴォォォォォォォォ……。


 低く、しかし温かい音が、巻貝の奥底から響き渡った。


 それは次第に高らかに、透き通った歌声のような和音へと変わっていく。

 巻貝が虹色の光を放ち、その輝きが波紋のように街全体へ広がった。


「おお……!」


 光が満ちると同時に、周囲の珊瑚の家々の扉が次々と開いた。


 中から出てきたのは、大きく伸びをして、眠そうな目をこする色鮮やかな衣装の人々だ。


「ふわぁ……よく寝たわ」


「なんだか、とっても清々しい気分だぞ?」


「見て! “歌う貝”様が、あんなに輝いている!」


 街の人々は、広場に立つ悠たち――特に、満足げに汗を拭うスーツ姿の中年男性を見て、どよめいた。


 一人の年配の女性が、笑顔で進み出る。


 彼女こそ、この島の長たる巫女だった。


「あなた方が、この場を清めてくださったのですか? 目覚めた時、こんなに気持ちが良かったのは初めてです。まるで、古い友人が訪ねてきてくれたような……」


 全員の視線が山田さんに集まる。


 修は、慌てて背筋を伸ばし、名刺入れを取り出した。

「あ、いえ、友人だなんて滅相もございません! 私、通りすがりの株式会社ヤマダ商事、山田修と申します。少しばかり、掃除をさせていただいただけですので!」


 一瞬の静寂の後、広場は割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。


「歓迎しよう、海と風の友よ!」


「さあ、宴だ! 最高の魚と果物を持ってこい!」


「……すごいな、山田さん」

 悠が感嘆の声を漏らすと、修は照れくさそうに頭をかいた。

「いやぁ、日本の年末大掃除に比べれば、これくらい楽なものですよ」


 陽光と歌の島で、かつてないほどの温かい歓迎を受けることになったのだった。

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