第6話 海の上のティーカップ
「……おい、俺の目がどうかしちまったのか? あれ、食器だよな?」
サリヴァンがタバコを吹かしながら指を指した先。悠たちは目を丸くした。
海の上に、巨大な白いティーカップが浮かんでいた。優雅な曲線を描く陶器の船体。
その下にはしっかりと受け皿までついている。
カップの中には、ちょこんと可愛らしいレンガ造りの家と、巨大なガラス張りのドームが乗っていた。
家の煙突からは、甘いお菓子のような香りの湯気が、ふわりと空へ昇っている。
看板には優美な金色の文字でこうあった。
《喫茶船・ソレイユの庭》 ――迷える旅人に、安らぎの一杯を
「うわぁ! 可愛い~! 入ってみようよ、悠!」
リィアが瞳をキラキラさせてせがんだ。
全員喉も乾いているし、小腹も空いていた。
「へぇ、洒落た真似をする。休憩がてら寄ってみるか?」
サリヴァンの提案に反対する者はいない。
シーウィンド号を横付けし、一行はそのメルヘンな船へと乗り移った。
カランコロン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ、旅の皆様」
出迎えたのは、片眼鏡をかけた初老の執事と、柔和な微笑みをたたえたふくよかな貴婦人だった。
二人はまるで、古い童話の挿絵から抜け出してきたかのような、不思議な品格を漂わせていた。
「ここはメニューのない喫茶店。
お客様が 今、一番必要としているものをご用意いたします」
紳士が恭しく一礼し、奥の扉を開け放つ。
「さあ、テラスへどうぞ。今日は良いお天気ですので」
通された先は、外からは想像もつかないほど広大な空間だった。
海の上に浮かぶ、巨大なガラスドーム――“温室”。
「すごい……! 外は海なのに、ここだけ春みたい!」
リィアが驚きの声をあげた。
そこは、色とりどりの花が咲き乱れる亜熱帯の庭園だった。
ガラス越しに青い海と空が見えるが、中はポカポカと暖かい。
見たこともない極彩色の蝶が舞い、緑の木々の間からは小鳥たちのさえずりが聴こえてくる。
花に囲まれた白いガゼボ(西洋風東屋)の席についた。
潮風とは違う、濃厚な花の蜜と緑の香りが、肺の中を浄化していくようだ。
やがて、紳士と淑女がそれぞれのトレイを持って現れた。オーダーもしていないのに、まるで心を読んだかのように飲み物が置かれていく。
「お待たせいたしました」
まず置かれたのは、ノアの目の前。
「わぁっ!? なにこれ、キラキラしてる!」
『虹色果実のパチパチソーダ』
グラスの中には、七色の層に分かれたソーダ水。
そこには星の形をしたゼリーが浮かび、耳を澄ますとパチパチと小さな花火のような音が弾けている。
「んん~っ! 口の中で踊ってるみたい! 美味しい~!」
ノアが満面の笑みで足をバタバタさせる。
次に、サリヴァンの前には湯気を立てる琥珀色の液体が置かれた。
「これは……」
「故郷のでよく飲まれている、薬草酒を数滴垂らした紅茶でございます。
潮風で冷えたお身体に染みるかと」
サリヴァンは驚いたように目を見開き、そして一口すすると、ふぅと深く息を吐いた。
「……参ったな。こいつは、親父がよく飲んでた銘柄だ。渋みの中に、懐かしい暖かさがある」
リィアの前には、ガラスのポットが置かれた。
「喉を酷使されてる様なので、こちらを」
お湯が注がれると、ポットの中で乾燥していた蕾がゆっくりと開き、美しい青色の花が咲いた。
『月光草のハーブティー』
立ち上る湯気だけで、喉の奥が潤っていくような清涼感がある。
「綺麗……。まるで、お茶の中に小さな宇宙があるみたい」
リィアがうっとりとその香りを楽しむ。
そして、アイリスの前には。
「私は食事を必要としませんが……」
「存じております。ですが、心には栄養が必要でしょう」
置かれたのは、温められたマグカップ。
最高純度オイル入りのホットミルク
ミルクの白さに、黄金色のオイルが数滴、宝石のように輝いている。
「……成分分析。ベースはミルクですが、添加されているこのオイル……私の駆動系に最適な粘度の植物油です」
「ふふ、温まりますわよ」
貴婦人に微笑まれ、アイリスは恐る恐る口をつける。
「……温かい。内部センサーが、システムオールグリーンを示しています。不思議です、ただのメンテナンスとは違う、この充足感は」
最後に、悠の前に置かれたのは。
漂ってきた香りに、悠は心臓がトクンと跳ねた。
それは、この異世界に来てから一度も嗅いだことのない、けれど何よりも馴染み深い香り。
「えぇ……缶コーヒー、ですか?」
「ええ。貴方様が遠い昔、安らぎの時間に飲んでいたものを再現いたしました」
一口飲む。
酸味は少なく、深いコクと苦味。
それは、転生前の日本で、仕事の合間や休日の朝に飲んでいた、あの缶コーヒーやカフェの味にそっくりだった。
「……あぁ、美味しい」
ただそれだけの言葉なのに、声が震えた。
窓の外には異世界の海。周りには新しい仲間たち。
けれど、この中だけには、過ぎ去った“日常”が溶けている。
懐かしい苦味が、心の奥底に溜まっていた小さな緊張の糸を、ぷつりと優しく切ってくれた気がした。
「……ありがとう、本当に美味しいよ」
悠が素直に礼を言うと、紳士と淑女は満足そうに微笑み合った。
温室の天井には、柔らかな陽光。
耳元には、仲間たちが楽しそうに感想を言い合う声と、小鳥の歌。
鼻をくすぐるのは、コーヒーと花々の香り。
「……極楽だなぁ」
「はぁ……生き返る……」
全員が完全に脱力し、癒やしの時を過ごしていた、その時だ。
バァン!!
入り口の扉が乱暴に開かれた。静寂は一瞬にして粉砕された。
「ぜぇ、ぜぇ……! 見つけたぞォ!」
ボロボロの服に、濡れた海藻を頭に乗せた男――バルゴと、その部下たちが雪崩れ込んできたのだ。
「げっ、バルゴ!?」
悠がガタリと椅子を蹴って立ち上がり、サリヴァンも警戒する。
せっかくの至福のティータイムが台無しだ。
ここは受けて立つしかない――そう身構えた瞬間。
バルゴが慌てて両手を上げた。
「ストーップ! ストップだぜェ! オレ様は野蛮人じゃねえ! 『ここ』で暴れるような無粋な真似はしねえよ!」
「はぁ? 何言って……」
悠が拍子抜けしていると、奥から先程の貴婦人が、コツ、コツ、と静かに歩み寄ってきた。
「あらあら。騒がしいお客様だこと」
その穏やかな声を聞いた瞬間、バルゴの屈強な体がビクゥッと震えた。
彼は直立不動になり、冷や汗をダラダラと流しながら、先程までの威勢はどうしたのか、借りてきた猫のように縮こまった。
「あ……か、母ちゃん……じゃなくて、ママン……」
「「「ママン!?」」」
悠たちの声がハモる。
貴婦人――この店の女主人は、ニコニコと、しかし有無を言わせぬ絶対的な圧力でバルゴの頬についた海藻をつまみ取った。
「バルゴちゃん? お店では“店主”と呼びなさいと言ったでしょう?
それに何その汚い格好。また人様に迷惑をかけているんじゃありませんか?」
「い、いいいいや滅相もねえです! 今日はその、海のお掃除をしてただけで……な、野郎ども!」
「へいっ! ゴミ拾いしてました! 海は綺麗がいちばんです!」
部下たちも全員直立不動で敬礼している。
悠はポカーンとした。
「……バルゴの、お母さん?」
「ええ。あの子ったら、家を飛び出してトレジャーハンターだなんて言ってますけど、たまにこうして甘えに帰ってくるのよ。困った子ねぇ」
貴婦人は「うふふ」と笑うと、バルゴの席にドンと大きなジョッキを置いた。
「はい、いつもの『特製メロンクリームソーダ・バニラアイス2個乗せ』お待ちどうさま」
「お、おう……ありがとよ、母ちゃん……」
真っ赤な顔でストローをすする、強面の巨漢。
アイスクリームをつつくその姿は、ただの「お母さんっ子」だった。
その光景に、もはや戦意など湧くはずもなかった。
「……平和的解決、ですね」
アイリスがホットミルクを飲みながら呟く。
「ま、こういうのも悪くねえか」
サリヴァンもニヤリと笑ってグラスを掲げた。
結局、悠たちは赤鮫団と背中合わせの席で、奇妙な休戦協定を結ぶことになった。
お互い、ただの「客」として。
窓の外では、夕日が海を黄金色に染め始めている。
「覚えてろよ悠……! 店を出たら、次は負けねえからな……ズズッ」
「はいはい。クリームついてるぞ、バルゴ」
クリームソーダを飲み干し、少しだけ憑き物が落ちたような顔をしたバルゴたちに見送られ、一行は再びシーウィンド号へと戻った。
その頃、漂流温室の中では、すでに日常に戻る準備が整っていた。賑やかな喫茶店の空気、心地よい香り、そして心温まるひとときが、静かに終わりを迎えようとしていた。
悠は、振り返らずに船に足を踏み入れた。仲間たちも次々に船に乗り込み、心地よい空気と共に、もう一度新たな冒険の海へと漕ぎ出す準備を始めた。
シーウィンド号が再び海原を駆け出すと、太陽はその下に黄金の道を残していった。
それが、悠たちの新たな旅路の始まりだった。




