第四話 友達と忘却
家に帰れば、たくさんの笑顔に包まれる。小鳥の家はそういうところだ。戦時下にある日本で、孤児はその前と比べてとても多くなった。政府はそのような孤児たちに対してかなり寛容的だった。戦争に金を使っているのだから、投資されても当面返すあてのない孤児に対して払う余裕などないはずなのに。
それに気づいたのは、それに気づいて抵抗しようという気が起きるほどの、反抗的な感情がしぼんでしまったあたりだった。
考えてみれば、僕は幸せ者なのかもしれない。苦しむことなく、たくさんの兄や姉、弟、妹に囲まれて生活ができて、貧乏ではあるが満たされた生活を送ることができて。
「それではこの問題が解けた者は・・・おお、如月、お前だけか。他にいないのか」
誰も手を上げようとしない教室。
「しかたがないな。如月、前に出て黒板に回答を書きなさい」
「はい、先生」
彼女はかなり馴染んでいた。女子の友達もできているようだし、男子とも話す機会が何回かあったようだ。
カツカツと黒板に彼女の白いチョークが刻まれていく。書いているうちに斜めになってしまうことが多いのに、彼女は教師顔負けに綺麗に見やすく字を書く。
正直先生の板書をするよりも、彼女のノートを見た方が早いというのは、この教室ではほとんどの人が納得している。
「よし、満点だな。戻っていいぞ」
彼女がこちらを振り返った時、僕と目があった。彼女はほんのわずかだけ寂しそうな瞳をこちらに向けた、ような気がした。確信が持てない感情に付き合うことはできない。僕はとっさに下を向いて彼女の視線をなかったことにしようと、いつもしていた。
「ねぇ未来、今日放課後暇?カラオケ行こうよ!」
彼女は連日誰かから誘われる。女性からはもちろんのこと、男性から合コンの誘いとかも多い。
「うーん、今日はパス。ちょっと用事があるんだ」
「え〜、あれか、彼氏かこのやろう」
冗談混じりでクラスの女子が言った言葉に、一瞬教室が静まり返った。それの要因の一人に間違いなく僕は含まれていた。
「ちがうよ〜。ただ、あれ、ボランティアがあるのよね」
冗談めかしていう彼女の言葉を間に受けているのは一人もいない。ただ話をしている女子は、マジで?うけるわ〜と笑っている。彼女がボランティアなんかしている姿見ている人はいないし、嘘に決まっているが、そう言われたら誰も何もいえない。彼女には、何か強いオーラのようなものを感じることがある。
「ただいま」
19時くらい。食事時のこの時に帰れば、騒がしい食べ物争奪戦が聞こえてくるはずだった。
「ふむ、今日の戦いも彼の勝ちか」
冷静な女のことが何やらぶつぶつと言っている。
「いえーい!!今日も俺がミートボールを取ってやったぜ!」
一人の歓声が聞こえる。
扉を開けると、その男の子を果穂が咎めている最中だった。
「まったく、今まではこんなことなかったのに、最近どうしたの?お行儀悪いわよ」
「はぁ?俺はいつも通りしてるだけだし!果穂ねぇの方がおかしいんじゃねぇの?」
「そうだよ、いつもあいつがご飯とってくじゃないか」
取られた男の子が泣きながら言っている。
それを聞いた果穂は少々の動揺を隠しながら、
「とにかく、ご飯を取り上げるのは禁止。みんなで分け合って食べるのよ!」
果穂の言葉に渋々ミートボールを返す男の子。彼も含めて、怒った果穂自身も、そしてこの場の雰囲気もなんだか違和感の立ち込めるものとなる。
「あ、おかえり優一・・・・・・どうしたの?浮かない顔して」
「・・・いや、特に何も・・・大丈夫」
「優一が沈んでる!」
「え、なに?!ふられたの!」
「この前の綺麗なおねぇちゃんでしょ!バカだなぁ!」
「ふられた!ふられた!ふられた!」
一気に騒がしくなる。そんな子供たちの元気な姿を見て、少しだけ元気が出たような気がした。
「お前らに心配かけることはないよ」
僕はそれだけ言い残して、部屋を後にした。子供たちの興味はすぐに目の前のご飯に移ったが、果穂だけは相変わらず僕の姿を見つめているような気がした。
学校生活は大して変化したようには感じなかった。如月さんは相変わらずクラスの輪の中心にいる。その格好が嫌に似合っているように感じた。誰かを引っ張り、楽しませる。それが如月さん本来の姿のように感じた。
「おい、おい!鈴支那!返事しろ!」
耳元で叫ばれてようやく気づくと、僕の隣には、クラスの委員長である佐藤がいた。
「お前だけ今日の提出物を出していないんだが、早く出してくれないか」
佐藤はこめかみにしわを寄せながら話す。彼は基本的にはニコニコしていてあまり怒らないのだが、僕みたいな人間と話すときは高圧的になる。
それに関しては何も思うところはない。実際僕はそうされて当然のような性格をしているのだから。
「わかったから・・・すぐに出す」
僕はカバンの中から問題集を取り出した。あまり意味のなさそうな、英語の問題集。ヨーロッパはほぼ壊滅し、アメリカは軍事力においてロシアに圧倒的に差をつけられた。ならばもうこんな言語を頑なに習わせる政府は何を考えているのか。
佐藤に問題集を差し出す。しかし佐藤はそれを受け取ろうとはしなかった。
「なぁ鈴支那。話があるから放課後、屋上に来てくれないか」
僕は驚いて佐藤の顔を見つめた。僕に対してそんな問いをしてきたのは、如月さん以来だ。もしかしてこいつも世界征服とかを企んでいるんじゃないだろうか。如月さんが僕以外を誘ったという可能性も十分にある。僕が断ったから彼を誘ったのかもしれない。それならそれは正しい選択だろう。彼は僕なんかよりずっと優れた人間なのだから。
「頼みがあるんだ。お願いだ」
「・・・ああ、わかった」
かといって放課後に何かがあるというわけでもないのだから、断れない。
放課後になり屋上に行ってみる。屋上はいつもは施錠されていて立ち入り禁止になっている。だがその日に行くと、扉が開いていた。屋上に出ると、きつい風が吹く中に、佐藤が立っていた。
「鈴支那、お前に頼みがあるんだ」
佐藤はこちらに歩いてきた。そして大きく息を吸い込んで、意を決したように話し出す。
「頼む、俺に如月さんの連絡先を教えてくれ!」
「・・・・・・はぁ?」
僕は自分の耳を疑った。あの真面目な佐藤がこんなこと頼むはずないと思っていたからだ。
「一目惚れだったんだ」
それから佐藤は如月さんと出逢ったとき運命を感じたということ。彼女にいつもの女子とは違う反応をされて、どうしても付き合いたいと思ってしまったことなどを吐露される。
それに対しては若干気持ちの悪い表現も含まれていたので反応しにくく、僕は曖昧に苦笑いを返すことしかできなかったのだけれど。
だいたい、どうして僕に?他に親しい人なんてたくさんいるだろうに。
「実は俺、こんなこと相談したの初めてなんだ・・・」
そんなことを言う佐藤はいつもの頼りがいのある様なんかは微塵もなく、本当に普通に、友達として相談しているように感じた。
「他の奴には、俺って頼り甲斐があってモテるやつだと思われているだろう?けど本当は違うんだよ。そりゃ、多少なりとは女に人気のある顔立ちをしているとは思っているが、俺は、本当はめっちゃ小心者なんだよ」
その発言にムカつきを覚えるのを止めることはできなかったが、彼は話を続けた。
「けどお前には・・・その、なんというか素の自分が出るんだよ。だから頼んでるんだ」
驚きの連続だった。佐藤がそんな言葉を僕に投げかけてくるとは理解できなかった。
「具体的に何をすればいいんだ?」
僕がそう言うと、佐藤は目を輝かせながら、「協力してくれるのか?!」と尋ねてくる。
「まだ決めたわけじゃないんだけど・・・」
「よっしゃ、それじゃあ男同士の約束な」
そう言いながら彼は僕の手を掴む。まだ返事をしていないと言うのに、強引な奴だと思った。
「まずは連絡先を手に入れたいんだが・・・お前は持ってるか?」
「いや・・・というか、そんなのは他の女友達から経由して手に入れればいいんじゃないか」
「バカ!そんなことしたら、如月さんに俺が気があるってバレてしまうだろうが!もっとこう、自然に手に入れたいんだよ!」
「じゃあ・・・例えばクラスの連絡をしたいからメーリスを作りたくてとか言ったらどうなんだよ・・・」
「そうじゃなくてだな・・・如月さんに、俺が如月さんを気にしていると言うことが伝わるような感じで教えてもらいたいんだよ。もしくは俺が教えるか!」
よくわからない。
「つまりだな、俺みたいなモテるやつはな、他の女との接触も自然と多くなる。それを見た如月さんが俺のことを諦める可能性があるんだよ。ああ、彼があんなにモテるんだったら、私には勝ち目はもうないわ、って。そうならないために、俺は如月さんを特別視しているんだよって、如月さんにわからせる必要があるんだよ!」
なんていうか、如月さんに対して失礼なやつだな。如月さんの美貌があれば、そこらへんの女子生徒なんて石ころみたいなものなんだから、彼女がそんなこと思うわけないのに。
「まぁ・・・言いたいことはわかるんだが・・・つまりどうすれば?」
「つまり、お前が彼女に連絡先を聞いて、これを俺が欲しがっていたって言って、それで俺が如月さんのことを気にしていたんだぞって伝えればいいんだよ。そうすれば自然と連絡先を手に入れられるし、彼女に俺が印象付けられるだろう?」
納得はできない。でも佐藤の熱心さは伝わってきた。
「僕が彼女の連絡先を手に入れろと?」
「そういうことだよ。頼むこの通り!」
彼は両手を合わせて、頭を下げる。
そうまでされて断ることはできなかった。僕はいつになるかわからないけど、努力はしてみる、といった。
正直、望みはかなり薄いのだと思うのだけれども。まぁこう言うのは深夜テンションと一緒で自分が何をしているのかわからなくなるものなんだろうけど。
そんな経験を思い出し、恥ずかしさが若干こみ上げる。
だが、人から何かを頼まれると言うのは悪い気はしなかった。むしろ嬉しいと言うのか。
なぜだろうか、僕は何か大切なことを忘れているような気がした。
人形が落ちた。動かなかった。手足がバラバラになった。子供の人形だった。瞳から涙がこぼれているような気がした。お母さんと口が叫んでいるように見えた。手が助けを求めるように天井を仰いでいた。
それを助けたいと思ってしまった。手を伸ばした。それが何かに止められた。柔らかい、女性の手に掴まれた。構わず手を伸ばし続けた。人形に触れた瞬間、砂になって消えた。なぜかそれが異様に悲しかった。涙が溢れて止まらなかった。腕が引っ張られた。よろよろとそれに従うと、目の前の光景は消えて無くなっていた。
暖かかった。抗いがたい、暖かさだ。思わず、お母さん、とありもしない偶像に手を伸ばしそうになった。
大丈夫、と言っているような気がした。何が大丈夫なのかは言っていないような気がした。大丈夫だからと言っているような気がした。そう言わなければならない何かがあるような気がした。でも、それがなんなのかを語ってくれることはなかった。
瞼をあげると、目の前には湯気の立つマグカップがあった。チョコレートの香りが鼻をついた。
眠たさに瞼をこすると、指が濡れていた。
「おはよう」
隣の椅子がぎしりと音を立てた。パジャマ姿の果穂が隣にいた。
時計を見ると、深夜の2時。どうやら眠ってしまっていたようだ。
「・・・なんで・・・・・・起きてる?」
果穂は自他共に認める健康優良児だ。必ず決まった時間に寝て、決まった時間に起きる。こんな夜遅くに起きているはずがないのに。
「最近眠れなくて」
てへっ、と舌を出す果穂の瞳は、まるで今が昼間だというほどに大きく開かれていた。
「ていうか、泣いてるの?」
「・・・いや、なんだろう、あくびだろ」
そう言ってごまかすが、何かとてつもなく悲しいことがあったような気がする。それが何かはわからないのだけれど。
コチコチと進む時計はまるで砂時計のよう。大切なものがさらさらと、時の流れに逆らえず無慈悲に落ちていく。
「優一さ、何か嫌なことでもあった?」
その言葉をゆっくりと理解し、果穂を見る。マグカップからココアを飲んでいて、目は僕を見てはいなかった。
「いや、特に・・・」
そう反応すれば、彼女は何も言わずにマグカップをテーブルに置いた。
沈黙。果穂とのそれがこんなにも気まずいものになるとは思わなかった。コチコチと時計が針を刻む。僕は少しずつまた眠くなってきた。ココアの甘い味と暖かさがそうさせている。
「眠い?」
果穂が尋ねてきた。頬杖をついて、机に寄りかかるように座っている。その瞳は眠たそうには見えなかった。
「お前こそ早く寝たらどうだ。明日も早いだろ」
果穂は学校には通っていない。正確には自主退学した。小鳥の家の管理人がいなくなった後、子供達の面倒を見る人がいなくなったから。それと、もう一つ、体の調子によるもの。
「眠くないって言ったじゃん。付き合ってよ」
コトリ、とマグカップを机の上に置いた。
「ココア代」
そう言って悪戯っぽく微笑んだ。確かにそう言われてしまえば断れない。何年も一緒に過ごしてきたのだからそれぐらいはお見通しと言うわけか。
「あのさ、例の如月って人とはどうなったの?」
いきなり聞いてきたのは、かなりデリケートな質問だった。もう少し空気を読んでくれよ、とか思ったりもしたが、お互い空気を読みあうような間柄でもなかった。
「まぁその・・・喧嘩した」
「喧嘩?・・・優一が悪いの?」
どちらが悪いか・・・どっちが悪いわけでも・・・なかったような気がする。確か、
「僕が大切にしていた人形を・・・彼女が壊したから・・・」
自然とそんな言葉が口を突いた。何かが違う気がする、と思ったけどそれ以外の回答を思いつかない。
「え?なんて?」
かなり小さな声で呟いたからだろう、果穂はもう一度尋ねてきた。
そして、喧嘩の理由がかなり男らしくないことだということに今更ながら気がついた。
「いや、まぁ・・・僕が悪いのかな・・・」
苦笑いでごまかした。思えば聞かれたくないことは大抵こうして避けている。いい加減、果穂もそれに気づいているというのに。
「・・・そう・・・続かないか」
彼女の返答はどういうものか捉えきれないものだった。心配している表情と、残念そうな表情。果たしてがっかりしている対象は如月さんか、それとも僕か。
また沈黙。それでもさっきよりは気まずいものではなくなっていた。コチコチと、時計の針が進む。随分と遅く感じる。1秒1秒、大切に時計が鼓動をしているようだ。
「最近さ、子供の成長って早いよねってめっちゃ思うんだけど」
いきなり何を言い出すかと思えば、
「・・・お前がそんなことを言い出す年齢になるなんて、そっちの方が驚きなんだが」
「そうよね〜私も歳くったわ」
まだ未成年のはず。何を言ってるんだ?といようとしたけど、やめた。
「子供の成長がさ、なんかこう、泣きそうなくらい・・・・・・」
果穂は急に言葉を止めた。見ると目が天井を仰ぎながらウロウロしていた。なんだか不気味に思って、
「おい、どうしたんだよ」
「ん、ああ、なんでもない。なんの話だったっけ」
「・・・寝ぼけてるだろお前絶対」
「そんなことないって全然眠くない」
確かに眠たそうには見えない。だが、どうせ深夜テンションみたいに頭がハイになっているだけなのだろうて。
「子守唄でも歌ってやろうか?」
「優一の方が頭おかしくなってるじゃない!ちょ、やめてよクソ音痴!」
耳を手で塞ぎぎゃあぎゃあ騒ぐ果穂。それに負けじと歌う。なんだか大昔にもこんなことがあったような気持ちになった。懐かしい、そしてなぜか悲しい気持ちになった。




