追憶と兆し
彼は研究員だった。第四研究所副所長。それが彼の肩書きだった。所謂窓際部署だった。多大な資金と人材がある第一、第二研究所と比べると、富士山と砂山のような差がある。富士山とは、かつて日本において、もっとも高く、もっとも美しいとされた山だ。
今は火山が噴火し、その美麗は失われ、周辺住民は火山灰と火砕流に飲み込まれた。
彼は飴玉を口に放る。タバコが懐かしい。健康に悪い、と言われ、やめたのだ。やめさせられたのだ。
ビーカーがぶくぶくと泡を立てる。そこに浮かぶのは、乳白色をしたかけら。
彼は敬虔なロシア正教の信者だった。毎日祈りを捧げ、神を感じていた。こうやって科学の道を歩んでからも、それは変わらなかった。
ある日、彼の研究室に北極で発見されたそれが運び込まれた。それを彼がみた時、彼は叫んだ。神よ!ああ、神よ。あなたは私が作り上げた盲信だったのですね!
その時の彼は笑っていたのか泣いていたのかわからない。悲しかったのか嬉しかったのかわからない。希望に溢れていたのか、絶望に打ちひしがれていたのかわからない。
その日彼は、物心ついた時から1日たりとて欠かさなかった日記をつけるのを忘れていた。
彼はそれから無神論者になった。
「ねぇねぇ、なんか、変な感じがするの・・・」
小鳥の家の一室。小さな子供がみんな一緒に眠る大きな部屋。水谷も一緒にそこで眠り、子供達を見守っている。
そして子供というのは夜中突然起きるものだ。夜泣きするようなのも入れば、おねしょをしてしまったという子もいる。そして幽霊が見えたから一緒に寝てほしいと怖がる子も。
やってきたのは5歳になる男の子。その子は、眠そうな瞳で、水谷にそう訴えてきた。変な感じがする、という言い方になんだか違和感を覚えたが、いつもの幽霊とかお化けとかそういう類の話だろうと水谷は考えた。
「なら一緒に寝ましょう。何かあっても私が守って上げるから」
水谷は優しくそう言った。彼女の布団の中に潜り込み、水谷に抱きつく男の子。よほど怖かったのか体が震えている。水谷は優しく彼女を抱きとめ、瞼を閉じた。
海岸。砂浜。白い波。浮かぶ産業廃棄物とヘドロ。落ちているゴミ。漂う重油。およそ生物の気配すら感じ取ることのできないくらい海。押し寄せる波は、泡立っていた。
ポコリ、ポコリ、と気泡が立ち込む。何もいない、誰もいないはずだった。
「ききいききききこここききき」
生物の声とは思えない、甲高い耳障りな声。黒い油まみれの体を起こすと、スモッグでくすんだ月光がそれを照らす。それは生物ではなかった。地球上の生物の定義には当てはまらない道の生き物だった。




