⑦
礼拝堂の祭壇前には、棺が安置されている。その中で眠るのは、元・声果隊員の女性聖務官。今朝、定刻になっても執務館に姿を現さないことを心配した他の聖務官が元・隊員の自室を訪ねたところ、ベッドの上で息を引き取っていたらしい。
棺は、蝋燭と献花に取り囲まれている。蝋燭の大小の炎が、白い花の花弁に色を揺らめかせている。
アルタはその手前で一度立ちどまり、棺を迂回し、説教台へ近づいた。台の上、記念書を手に取る。ページをめくっていく。記念書の存在を知ってからもう何度もこうしているため、目当てのページはすぐに開けるようになっていた。
ずらり、名前が並んでいる。すべて声果隊員の名前だ。逸話の司祭(彼は、厳密には声果隊員ではないが)からはじまり、神様の愛を授かった者たちが記録されている。
そのうちの一つ。アルタはそっと指でなでる。母親の名前、だ。蝋燭の炎を受け、古くなったページが黄色く灯る。母の名を、胸の内で唱える。実際に口にしたことは一度もない。
(どんな歌声だったんだろう)
その名を見ると、いつも考えてしまう。
アルタの記憶には、火事のことも両親のことも残っていない。物心ついた時には母の生家で、叔母のセシルと祖父母と共に過ごしていた。セシルは、よく母の話を聞かせてくれた。しかし、その多くは母が声果隊に入隊する十歳頃までの思い出だった。母は年に何度か帰省していたようだが、それも数日のことであり、脱退後は父と共に各地を回っていたため、セシルが母と過ごした時間は限定的だったのだろう。
それでも、その口ぶりや表情から、姉妹は仲が良く、セシルが母を慕っていたことは充分に伝わってきた。そして、それは、自分に注いでくれる愛情を通しても同じことが言える、と、アルタは感じていた。
声果隊に入隊してから、一年半が過ぎようとしている。
セシルに何度も手紙を書こうとして、結局書けないままだ。書きたいことはたくさんあった。しかし、いざ伝えようとすると、声授してからの自分がどんどん遠ざかり、これは本当に自分が体験している現実なのかわからなくなった。ペンを持つ手が震え、紙にインクが滲んだ。
記念書を閉じる。
礼拝堂はいつも通り、厳かで、潔癖で、自分の内側の淀みを掬われるような居心地の悪さがある。おまけに今日は棺が安置されている。遺体と同じ空間に長い時間一緒にいるのもどうかと思い、アルタは説教台に背を向けた。
その時だった。
身廊の先、扉が細く開いた。
(え――)
アルタは目を見開く。
扉の隙間から、するり、人影が滑り込んできた。プラチナの長い髪。白い祭服に包まれた細身のシルエット。手足が長く、足取りはゆったりしている。身廊をこちらへ向かって歩いてくるその姿には現実感がない……。
あり得ない光景を前に、アルタは呆然と立ち尽くす。その存在が棺の前、自分から一メートルも離れていないところで立ち止まった時、あぁ、意外と背が高いんだな、と場違いなことを思った。はじめて間近で見るその横顔は、天井画から飛び出してきたみたいに美しかった。歌声と同じだ、と思った。きっと神の愛を一心に受けてこの世に生をなしたのだろう。そして、今も、これからもそうあり続ける――
(〈鐘〉、だ)
アルタはハッとした。できるだけ隅へ移動し、顔を伏せる。
(〈鐘〉が、目の前にいる……!)
心臓が激しく鳴る。手に汗が滲む。堂内の空気が急に薄くなった気がした。
……〈鐘〉は塔から出ないものだと思っていた。大聖堂のバルコニーにだけ存在するものだと思っていた。そんなことはないともちろん知っているが、今、交わそうと思えば言葉を交わせる距離にいることが、思考を鈍らせる。
アルタは自分の足元を睨む。〈鐘〉をまじまじと見つめたい。が、容易くそんなことをしていい相手でないことは承知している。だからこそ、余計に気になる。顔を上げてしまいたい衝動と、ただそこにいることの畏ろしさがせめぎ合う。
「死んでるね」
繊細な声音が響いた。この空間によく似合う、穢れのない声。
話しかけれた……? アルタはほんの少しだけ頭を動かし、視線を持ち上げる。
〈鐘〉は、棺を覗き込んでいた。長い髪が垂れ、その先が遺体に触れてしまっている。本人がそれを気にする様子はなく、まるで魂の行き先を決めかねている天使みたいに遺体の顔をじっと見つめている。
「アルタ」
心臓が跳ねた。名前を呼ばれたことに驚き、アルタは顔を上げてしまった。
「やっとこっちを見てくれた。そのままでいいよ。かしこまられるの、苦手なんだ」
「…………すみません」
「どうして謝るの?」
〈鐘〉がおかしそうに小さく肩を揺らす。……笑うんだ、と、アルタはまた場違いにも思った。
「ここにはよく来るの?」
堂内を見回しながら〈鐘〉が言った。
「……その、たまに……」
「そうなんだ。僕は礼拝の時以外は全然だったな。宿舎で生活していた時もいろいろ不安だったけど、ここに来て神様の声を聞こうとは不思議と思わなかった」
アルタもここへは祈りに来ているわけではなかったが、わざわざ訂正するのも憚られ、曖昧にうなずく。
〈鐘〉が棺の周りをゆっくりと回る。小さく風が起き、蝋燭の炎が揺らめき、白い花が香る。
……立ち去るタイミングを逸した。というより、アルタはどうこの場から立ち去ったらいいのかわからない。相手が〈鐘〉でなければおそらく挨拶もせず、とっとと出て行っている。もちろん〈鐘〉を前にそんなことはできない。ただそれは、〈鐘〉という地位がそうさせるのもあるけれど、その存在の前ではできるだけ「正解」の自分でありたいという、自縄自縛だった。
(〈鐘〉を、そこから引きずり下ろそうとしているのに)
自分の中の矛盾にアルタは戸惑う。
目の前にいる〈鐘〉は、イメージしていた通り現実味がなく神秘的な存在そのままのようでいて、その話し方や態度には一切圧がなく、自然体だ。一刻も早く立ち去ってその存在から目を背けたい気持ちと、まだここにいてその存在をもっと知りたい気持ちが、アルタの中で渦を成す。
……思えば、その歌声をはじめて聴いた日から、〈鐘〉に対してはずっと両極端な想いを抱えている。永遠にその歌声に夢を見ていたい一方で、その歌声が夢でしかないことを現実に知らしめたい。
(――だから、〈鐘〉になるって決めたんじゃないか)
手に入れたこの〈声〉が自分をここまで導いたのだと、アルタは考える。夢ではなく、現実を生きるのだ、と。この国をあるべき姿に導くのは、目の前の〈鐘〉ではなく、新たな〈鐘〉となった自分自身なんだ、と。
「〈声〉がどんなものか、知ってる?」
〈鐘〉が唐突に言った。
アルタは心臓が跳ねた。内心の不敬が、顔に出てしまっていたかと思った。しかし〈鐘〉の目はこちらではなく、棺を向いていた。
「どんなもの、か……」
「うん。歌声を増幅させるもの、とか、人間とは思えない声量、とか、そういうことじゃなくて、ね。どんなものか知ってる?」
「…………」
一瞬、目の前が真っ赤に染まる。アルタは慌てて強く瞬きした。頭を振り、小さく息を吸う。
「〈声〉には、それ以外に何かあるんですか? 〈鐘〉さまは、それをご存じなんですか?」
「どうだろう。知っていると言えばそうだけど、本当の意味では知らないんだろうね。僕の友だちはそこら辺、詳しいんだけど」
「友だち……。あの専属警吏の方ですか?」
「そう、ダン。十代の頃からの付き合いだけど、まあ、向こうは僕のこと友だちとは思っていないだろうね。
話したことあるでしょ?」
「はい。ちょっとだけ。二度、遠征に同行してもらったので、その時に」
「二度、か。そっか。羨ましいな」
〈鐘〉がこちらを振り返る。夜明け前みたいな青い瞳と目が合う。
「僕も、今のきみの歌声を聴いてみたい」
「え……」
「入隊直後にレッスンを受けていたでしょう? その時、きみの歌声をはじめて聴いた。素直に、驚いた。とてつもない歌声と詠唱力を持った子がやって来たなって思ったよ。同時に、〈声〉の使い方を理解しているのがわかって、あぁ、この子は本当に『歌うこと』を知っているんだ、って思った。あれから一年半くらい経つ。その間に、きみは、新しい〈鐘〉の候補にまでなった。あの時からどんなふうに歌声が成長したか、興味がある」
「…………」
「だけど、たぶん、もうすぐ聴けるね」
それは……どういう意味だろう。訝しみながら、それよりも、〈鐘〉が、アルタが新しい〈鐘〉になるかもしれないことを知っていることに少し驚いた。あの専属警吏が教えたのだろうか。そして、同時に、うっすらと気づく。新しい〈鐘〉になるかもしれない存在を前にしても、〈鐘〉は自身が〈鐘〉でなくなる可能性を感じていない。アルタを侮っている、というのではなく、自然の摂理のような余裕がそこにはある。
――友だちになりたくないタイプだよ
前に、専属警吏がそう言っていたことをふと思い出した。
「そういえば、ダンに言われてたんだった。『アルタに勝手に会ったりするな』って」
〈鐘〉が肩を竦める。長い髪がさらりと揺れる。「約束、破っちゃったな」
アルタは先に礼拝堂を後にした。
会話が途切れたところで、おずおずと「あの、そろそろ……失礼します」と意を決して声をかけると、〈鐘〉は「うん、またね」と軽くうなずいた。その目はアルタではなく遺体に向けられていたため、どちらに別れの挨拶をしたのかは微妙なところだった。
駆け足で宿舎に戻る。
自室に入り、扉を閉める。ベッドに腰を下ろしたところで、ようやく息を吐き出した。
(びっくりした……)
両手で顔を覆う。緊張の余韻で心臓がまだ高鳴っている。〈鐘〉と会ってしまった。話をしてしまった。会話の内容よく憶えていないのに、礼拝堂に〈鐘〉が現れてからのその動作の一つ一つはなぜか鮮明に思い出すことができる。
そして、声……。〈声〉の反響がない素の声は、歌っている時にも増して繊細さが際立っていた。美しかった。例える言葉さえ見つけられないくらい。言葉よりも音として耳の奥にはっきりと残っている。
自分の中の言葉にならない感情を吐き出すように、アルタは深呼吸する。
と、その時。部屋の扉がノックされた。
驚いて顔を上げる。反射的に「はい」と返事をすると、外側からそっと扉が開かれた。
「……アルタ! やっぱり帰ってたんだね。 久しぶり!」
明るい声と共に顔を覗かせたのはユッシだった。肩から大きな荷物を提げている。たった今遠征から戻ったのだろう。
確かに、ユッシに会うのは久しぶりだった。アルタはここ最近ずっと遠征が続いており、宿舎で過ごす時間はめっきり減っていた。今日は久々に気を抜いて休めると思っていたら、今さっきの〈鐘〉との遭遇である。馬車に揺られている時より身体が強張り、大勢の前で詠唱するより緊張した。今、ユッシと顔を合わせてようやく日常の空気を吸ったような心地になり、アルタは胸の内でホッと息を吐いた。
「遠征先の町でお土産買ってきたんだ。アルタがいたらあげようと思ってたんだけど、まさか本当にいるとは!」
入っていい? と訊ねるユッシに、アルタは「どうぞ」と応える。部屋に一つだけある椅子をベッドの近くに移動させ、勧めた。
ユッシは「ありがとう」と言って、椅子の上に荷物を下ろした。お土産を取り出そうとしているのか、鞄の中を漁りながら、
「ていうか、知ってる? 教会の方、今、大騒ぎになってるよ」
「へえ。そうなんだ。知らない。何かあったの?」
「礼拝堂に『悪魔』が現れたんだって」
「は?」声が上ずった。「中央教会の礼拝堂に……ってこと?」
「うん。司祭はもちろん、聖務官の人たちとか警吏の人たちとか、続々と集まってる」
「〈鐘〉さまは? 無事なの?」
「〈鐘〉さま? なんで?」
ユッシが目を瞬く。
「あ……いや、さっきまで礼拝堂で一緒だったから。『悪魔』と鉢合わせしたら、まずいんじゃないかなって……」
「会ったの?! 〈鐘〉に?!」
ユッシの目が見開かれる。
アルタは戸惑いつつ顎を引いた。
「話した? どんな感じだった? というか、塔から出るんだね! アルタのこと知ってた? 知ってたとしたら、どう思ってるんだろう……。訊いた?」
「ユッシ、落ち着いて」
「でも。ちょっと待って」
ふと、ユッシは真顔になる。
「アルタ、『ついさっきまで』礼拝堂にいたって言ってたよね? この部屋に戻って来たのって、何分くらい前?」
「ユッシが訪ねてくる前だから、まだ三分も経ってないと思うけど……」
「おかしくない……? 礼拝堂に『悪魔』が現れたかもって騒ぎになったの、たぶん十五分くらい前だよ? 僕が広場で馬車を降りた時、ちょうど警吏の人たちが慌てて礼拝堂の方へ駆けて行くところだったから。礼拝堂から宿舎までは十分足らず。ということは、もしかして、『悪魔』は、」
「俺じゃない!」
咄嗟に声を上げていた。ベッドから立ち上がり、肩で息をする。目の前で、ユッシが目を丸くする。
「え、いや、ごめん。アルタを疑ったつもりは全然なかったんだけど……」
ハッとして、アルタはうつむく。そろそろとベッドに腰を下ろす。
「僕が言いたかったのは、その……、〈鐘〉さまはアルタより先に礼拝堂を出たの? ってこと」
アルタは弾かれたように顔を上げた。ユッシを見上げる。困ったように眉を下げつつも、その目には真剣な色が宿っていた。
アルタは口ごもった。それが答えになっていた。
「まさか〈鐘〉さまが『悪魔』だとは思わないけど、『悪魔』の姿を見た可能性は十分にあるんじゃないかな」
遺体がどの程度傷つけられたかはわからない。しかし、ユッシの話を鑑みると、アルタが礼拝堂を去ってから誰かが「悪魔」の犯行に気づくまでには、おそらく多めに見積もっても五分ほどしかなかったことになる。その間に〈鐘〉が立ち去り、入れ替わりで「悪魔」が犯行に及び、誰にも気づかれずにその場を後にする……というのは可能なのだろうか。そもそも、「悪魔」が外部の人間である場合、中央教会内に忍び込むことがまず難しいはず。
「報告、した方がいいんじゃない?」
「報告って、何を」
「アルタが礼拝堂を訪れてからここに戻ってくるまでの一連のこと」
「いや、しない」
アルタは言い切った。
「どうして」
「この話、報告の仕方によっては〈鐘〉さまを疑っているように聞こえる。とんでもない不敬になりかねない」
それは、嘘ではない。が、アルタが本当に気がかりなのは今の自分の立場だ。正式に新しい〈鐘〉の候補になったのだ。だからこそ、今の〈鐘〉を貶めるような言動は絶対に慎みたかった。こちらにそんな意図はなかったとしても、〈鐘〉を推す人々にそう捉えられたら、確実に印象は悪くなる。
それに――誰が「悪魔」だったとして。その行いを咎める資格など自分にないことは、アルタ自身が一番よくわかっていた。
「でも! 遺体を傷つけることは、不敬を通り越して冒涜だよ」
わかる。わかっている。薬師を目指すユッシが遺体を傷つけるという行為に憤りを覚えるのは当然だ。けれど、今、ユッシは声果隊員なのだ。〈鐘〉を疑うような発言をすることで、隊員としての自身の立場をわざわざ危うくする必要などないだろう。
「たとえ〈鐘〉でも、『悪魔』事件の解決には協力すべきだと思う」
ユッシの表情は、言葉とは裏腹に疑念を孕んでいる。もしかして〈鐘〉が遺体を……と。
「前から思ってたんだけど……。ユッシって、〈鐘〉のことどう思ってるの?」
今する話でもないような気がしたものの、アルタは訊ねた。前々からなんとなく、ユッシが〈鐘〉を語る時、その存在に敬意を払いながらも、アルタを含め他の人々とは異なる「距離感」を持っているように感じていた。
ユッシが怪訝そうに眉を寄せる。
「〈鐘〉さまのこと? もちろん、凄い人だなって思ってるよ」
「『人』……」
「うん。だって、そうでしょ? 〈鐘〉さまだって、〈鐘〉になる前は僕たちと同じ一声果隊員だったわけだし。もっと言えば、その前は、この国のどこかで生まれたただの子どもだったわけじゃん。それって僕たちと何も変わらないよね?」
だから人でしょ、と、真面目な顔で首をかしげる。
アルタは静かに驚いた。何気ない問いかけだったのに、まさかこんな答えが返ってくるとは……。
〈鐘〉は、確かに「人」だ。しかし、生まれながらに自分たちとは違う「人」なのだと思っていた。神が授ける愛の量が違う、重みが違う。あの歌声がそれを証明している。〈鐘〉になるような「人」は、神の愛を授かった瞬間から「人」ではなくなる。だから、たった一人、あのバルコニーで歌い続けることができる。
(――もしも、本当に新しい〈鐘〉になっても……)
ユッシはきっとアルタに対して変わらずに接するだろう。そして、アルタは気づく。自分が描く「この国のあるべき姿」の中にユッシがいなかったことを。ユッシだけではない、自分に確かな愛を注いでくれた叔母も、この歌声に応えてくれた人々も、どこにもいなかった。
〈鐘〉の地位を目前にして。アルタは、今、はじめて揺れた。たった一人歌い続ける覚悟を決めたはずなのに。そうして歌うことをやめる決意をしたはずなのに。自分が誰かと共に「人」として生きてきたことに、今、足元をすくわれそうになっている。
「アルタ、」
ユッシが口を開いたその時、扉がノックされた。突然の音に、アルタとユッシは同時に振り返った。
「……はい。どうぞ」
アルタが応えると、扉が大きく開かれた。そこに立っていたのは司祭だった。
「アルタ。〈鐘〉の専属警吏がお呼びです。執務館のこの部屋に来るように、と」
部屋に入って来た司祭が紙片を差し出す。
受け取って開くと「軍事部 七」と書かれてあった。
「至急、とのことです」
(副長ではなく、専属警吏が……?)
一体、何の用だろうか。まさかこの「悪魔」事件についてではないだろう。ユッシの視線を感じる。これ以上ここで「悪魔」の件について話すことも、不用意に心を揺さぶられることも、避けたい。
何の用かはわからないけれど。専属警吏からの呼び出しを口実に、アルタは部屋を飛び出した。




