⑥-2
東地域にあるその町は、主要都市ほど大きくなく、かといって緑ばかりでもなく、ほどよく長閑な雰囲気に包まれていた。町の中心には教会と広場があり、そこから伸びる大通りには商店が建ち並んでいる。人の流れがゆったりとしていて、忙しさは一切ない。
ダンは町の駐在所を後にすると、大通りから手近な横道に入った。駐在所で貰った地図を頼りに、狭い路地を進んでいく。
間もなく、周囲が民家ばかりになる。どの家も背が低く、外壁が薄い黄色で統一されている。路地は大人二人が横並びでは歩けない狭さであるものの、家同士の感覚が広くとられているからだろう、不思議と窮屈な感じはしない。簡素な塀の隙間からは植物が花を覗かせ、生垣を道しるべに羽虫が先へ先へと進んでいく。誰ともすれ違わない。人の気配もない。出口のない迷路にたった一人迷い込んでしまったような気分になる。
(……ここで、アルタは育った)
生後間もなくから十四歳まで過ごした町。
石畳の道を、ダンは目的地を目指して黙々と進む。
何度か路地を曲がり、やがて少しひらけた通りに出る。緩やかな長い坂道の手前でダンは足を止めた。坂の先は林になっているのか、鬱蒼とした緑が確認できる。
制服のポケットに地図を仕舞う。坂道を上る。上りながら、数日前、副長室でヒューゴと交わした会話を思い返す。
一通りの話が済んだ後、ヒューゴが「そういえば」と口を開いた。
「アルタの母親は声果隊員だったようです」
ダンは目を上げた。この国の最重要機密を知ってしまった今、もう何を聞いても驚かないと思っていたが、目を瞬く。
「それは……また珍しいですね」
「珍しい、というか、異例ですね。親子やきょうだいで声果隊に所属していた例はありません。そのため〈声〉は『遺伝性のものではない』という結論が出ています」
「その母親は今どうしているんです?」
「すでに亡くなっています」
ヒューゴの言うところによると……
アルタは、生後間もなく両親を亡くした。宿での火災に巻き込まれてのことだった。アルタの父親は行商人であり、その仕事につきそう形で、家族はとある町のその宿に泊まっていた。火災の原因は、宿の火の不始末だった。アルタの両親の他にも、死傷者は合わせて十数名に及んだ。また、火は周辺の建物にも燃え広がり、鎮火にはかなりの時間を要したらしい。
「その中でアルタは奇跡的に生き残ったのです」
両親が咄嗟の判断で機転を利かせ、安全な場所に避難させたのか、たまたま家具などの隙間に入り込み、身を守れたのか。ヒューゴにもそこまではわからない。
「アルタの母親も、脱退後は定期的に中央教会に居所の報告をしていましたから、教会は、火災の件を把握すると、直ちに彼女の遺体の回収に向かいました」
ですが、と、ヒューゴは目を伏せる。「遺体は、とても回収できる状態ではなかったようです。そこで教会は〈声〉だけを持ち帰ることにした。〈声〉は熱に強いですからね。人間の身体が焼け焦げても、〈声〉は残ります。しかし、結局それも発見できなかった」
「その町の駐在所は遺品を管理していなかったのですか?」
「人間を含めほとんどのものが灰と化している中、〈声〉の存在を知らない者が〈声〉を見つけるのは奇跡に近いでしょう。万が一、運よく見つけられていたとして、それが〈声〉とは知らないのだから、管理も通常のそれと変わらない。遺品とすら認識されていなければ、事件の処理中に紛失していてもおかしくはない。教会も、そこら辺をとやかく言うことはできなかったはずです」
「なるほど……」
「……ダン。前に、一度、アルタの遠征に同行したことがありますね?」
ダンは、ヒューゴを見る。慎重に「ええ」とうなずいた。
「それは、なぜです?」
「〈鐘〉さまが、以前からアルタの歌声に関心を抱いているようだったので。どんなものか一度ちゃんと聴いてみたかったんです」
「〈鐘〉さまが……。では、アルタの方はどうでしょう? 〈鐘〉さまについて、何か言っていませんでしたか?」
「いいえ。特には……」
なぜそんなことを気にするのか。ダンは怪訝に思いながら、あの時の会話を思い起こす。遠征の夜。教会前の広場。アルタから「〈鐘〉さまって、どんな方なんですか」と訊ねられた覚えがあるが、たいした話はしていない。それより、こちらが「〈鐘〉になりたいか」と訊ねた時、はっきりと「はい」とうなずいたその迷いのなさの方が印象に残っている。
「今の〈鐘〉の就任式の日なのです」
ヒューゴが言った。「あの火災は、就任式の最中のことでした。〈鐘〉さまが詠唱されているまさにその時、アルタは両親と共に火災に巻き込まれた」
「……就任式は中央教会で行われていました。アルタたちが滞在していた町とは距離があります。因果関係はないように思いますが……」
「ええ。その通りです」
ヒューゴがそっと顎を引く。
少し待ってみるも、ヒューゴがそれ以上言葉を重ねることはなかった。無表情は変わらない。しかし、その顔には確かに「引っかかる」と書いてある。
(アルタは一体何者なんだ……)
大事故の生き残り。持って生まれたあの声。十四歳での声授。元・声果隊員の母親。新たな詠唱の確立。高揚をたぎらせる、〈声〉。新しい〈鐘〉の候補……。すべてが奇跡的だ。アルタにも確実に十六年分の一日一日があるのだが、その時々を知らないダンにとっては、突如現れ、すべてをひっくり返そうとしている驚異的な存在に思えてならない。
「…………」
坂道を登り切る。
ひらけた場所に出た。想像通り、林がある。その手前に、一軒、家が建っていた。
その家は、通りすがりに見て来た民家とは外観が異なっていた。二階建てで、窓の数も多く、レンガ造りの外壁は重厚感があった。ただ、屋根や壁には蔦が絡まり、窓はどれも埃のせいか曇っている。家全体を飲み込む勢いで雑草が生い茂り、あと数年も放置すれば辺りの林と一体化してしまいそうだ。
ここが空き家になってから二年が経っている。
名前のわからない下草を踏み締めながら、ダンは家に近づく。門は施錠されていなかった。そのまま進み、玄関の扉を引く。こちらもすんなりと開いた。
砂埃が舞い上がる。制服の袖で鼻と口を覆う。外観ほどではないが、屋内もあちこちに空き家特有の劣化が見えた。内装はそのまま、家具も調度品も残されているが、時の流れにすべてがその輪郭を失っていた。
廊下を進む。点々と黒い染みが落ちている。血の跡だ。所々掠れて乱雑な線を描いているのは、血溜まりを踏んだ足で屋内を歩き回ったためだろう。
ダンは軽く息を吸う。当時の凄惨さを物語るにおいはしない。埃と緑のにおいが鼻腔をくすぐるだけだ。
二年前。この家で強盗殺人が起きた。
被害者は、この家の一家全員と、使用人、十代の少年少女、計九名。全員が殺害された上で、家からはあらゆる金目の物が盗み出された。
事件当夜、家ではホームパーティーがひらかれており、少年少女たちは、この家の息子の友人だった。
その息子の名前は、オットー。当時十四歳。声果隊員だった。帰省中、家族や友人と束の間のひと時を楽しんでいたところ、命を落としたことになる。
ダンは、パーティーが行われていたとされる客間に入る。
大きな窓がある、広々とした部屋だ。ソファ、テーブル、絨毯、壁、柱時計、カーテン、窓……まるで模様のようにすべてに血の跡が染みついていた。被害者のほとんどはここで殺害されたらしい。突然の襲撃に成す術もなかったのだろう。現場保存の目的をそのまま、収納棚の扉や引き出しが中途半端に開けられたままになっており、犯人たちが金品を物色した事実を生々しく物語っている。
柱時計が、二十一時四十一分で止まっている。何らかの衝撃を受けて壊れてしまったのだろう。被害者たちの死亡推定時刻はこれより少し前だった。
この町に着いてまず、ダンは駐在所に足を運び、事件の資料に目を通した。凄惨極まりない凶悪事件であったことと、容疑者に一時「悪魔」の名前が上がったことで印象には残っていたものの、詳細については知らなかった。資料によると、事件発生から間もなく犯行グループは全員捕まり、物的証拠等から犯行が立証されると、全員が極刑に処された。犯行動機は金銭目的、この家を選んだ理由は条件が良かったから。周囲に他に家がなく、犯行後は裏の林に逃げ込めば姿をくらませられる、と考えたらしい。
ダンは、ソファに近づく。大型のものが二脚、ローテーブルを挟んで向かい合って置かれている。ソファとローテーブルの下には絨毯が敷かれており、壁に近い方のソファの脚元には……、まるでぽっかり空いた穴のような黒く大きな染みが広がっていた。
オットーが倒れていた場所だ。
一時とはいえ、容疑者に「悪魔」が浮上したのは、オットーの遺体に残された傷が理由だった。他の被害者たちは、全員、腹部や頸動脈といった致命傷となる箇所を一突きされていたのに対し、オットーだけは腹部の刺し傷とは別に、喉元に不自然な刺傷を負っていた。頸動脈を狙ったものではない、執拗に何度も何度もナイフを突き立て、喉を掻っ切らんとする、それ……。
ダンは事件発生当時を思い返す。身に覚えのない「声果隊員の喉が掻っ切られた」この事件のことは気になっていたため、中央教会の動きには注意を向けていた。記憶が正しければ、教会はオットーの遺体を回収していない。刺し傷はあっても、回収不可能な状態ではなかったはずだ。ということは、考えられる理由は一つ。オットーの喉には〈声〉が残っていなかった――
(……持ち去ったんだ)
もちろんダンではない。犯人グループでもないだろう。事件当夜、この家には、第三者がいたのだ。その人物は〈声〉が器官であることを知っていて、明確な意思の下、オットーの喉を裂き、〈声〉を持ち去った。
……足元の、穴のような染みが広がった気がした。
ダンは一つの仮説を持って、この町を訪れた。あの機密文書を読んだ後、様々な不可思議が一本の糸で縫いつけられていくように、あるいは絡まった糸が解けていくように、仮説は出来上がった。その上で、本当なら、この現場より先に立ち寄るべき場所があった。そこに行けばきっとすべての空白は埋まる。しかし、そうして仮説に確信を得てしまったら、やるせない失意に打ちのめされ、ここには来られなくるだろう予感があった。
(はずれていてほしい)
この仮説こそ、覆してほしい。誰のためでもない、彼のために。
ダンは事件現場を――おそらく、すべてのはじまりの場所を後にする。
これから向かうのは、アルタの叔母・セシルの家だ。
その家は、坂道を下って十分ほど歩いたところにあった。
周囲の他の家と同じく、背が低く、外壁が黄色い。簡易的な塀に囲まれた敷地内では可愛らしい花をつけた植物が多く育てられていた。入口に近づくと、間口の広さに気づく。窓からちらっと中を覗くと、織機が目に入った。セシルは織物業を営んでいるらしい。
ダンは軽く身なりを整える。玄関扉をノックし、「ごめんください」と声をかけた。
扉の向こうから足音が聞こえる。はーい、と、軽やかな声がした後で扉が開いた。現れたのは、小柄な女性だった。アルタの叔母・セシル本人で間違いないだろう。指通りの良さそうな黒髪と意志の強そうな目が、アルタとそっくりだった。
「えっ、何か……?」
ダンを見上げ、セシルは怪訝そうに眉をひそめた。突然警吏が家にやって来たのだ、当然の反応だろう。
「〈鐘〉の専属警吏」という肩書で融通が利くのは身内に対してだけだ。一般的には知られていない役職だ、正直に名乗ったところで怪しさが増すだけだろう。ダンは、自分は中央駐在の警吏であり、二年前にこの近所で起こった強盗殺人事件を調査し直している、と伝えることにした。
「でも、あの事件は解決して、犯人にも刑が執行されたんじゃ……」
「ええ。ただ、今になって、捕まった者たちの他にも事件に関与した者がいる可能性が出てきまして。凶悪な事件でしたから、野放しにするわけにはいかない。わずかでも真相に繋がる情報が得られればと思い、こうして近所の方にお話を伺っているんです」
正直に「アルタの身辺調査をしている」とは言えない。その理由が新しい〈鐘〉の候補になるかもしれないから、とも。伝えることによって肝心な話を引き出せなくなっては困る。
「犯人グループの残党ってこと? それは怖いわ。でも、わたしがお役に立てることなんてないと思うけど……」
「どんな些細なことでも結構なんです。ご協力お願いします」
ダンが頭を下げると、セシルは困惑した表情のまま小さく顎を引いた。
ダンは一先ずホッとする。この町の事件をなぜ中央の警吏が調べているのか、と疑問を投げかけられたら、さらに「設定」を重ねなければならないところだった。余計な手間が一つ省けた。
セシルの背後、家の奥に目をやる。できれば、家の中を見せてもらいたかった。アルタはここで十五年間過ごしている。その人生の痕跡が絶対に残っているはずだ。しかし、家には他に人の気配がない。相手が警吏といえど、突然訪ねて来た見知らぬ男を簡単に上げることはしないだろう。
「では、早速――」
ダンは、ここに来るまでの間に考えていたことを今一度頭の中で整理しながら、事件について当り障りのない質問をしていく。その中で、セシルの家は代々織物業を営んでおり、被害者の家とも直接取引をしていたことがわかった。
「そういえば、」
相手の警戒心が薄れてきたところで、雑談の体をとりつつ、ダンは一歩踏み込む。
「被害にあった家の子どもは声果隊員でしたね。やはり昔からその〈声〉は評判だったんですか?」
「オットーのことね」
セシルがふっと目元を緩める。
「オットーが声授したとわかった時は、みんなして大騒ぎだったわ。この町から二人も声果隊員が出るなんて、まさか思ってもみないもの」
「二人?」
「この家は、わたしの生家なの。両親と姉と暮らしてた。その姉が、声果隊員だったの」
「そうだったんですね」
ダンは目を見開いてみせる。「確かに、ごく近い場所から二人も声授した者がいるというのは、珍しいです」
「本当にそうね」
セシルがわずかに視線をさまよわせた。……アルタのことを話題に出すべきか、迷ったのだろう。
ダンは思う。できればセシルの方からアルタの名前を口にしてほしい。その方が自然な形で話を核心へ持っていける。
「声果隊に入るのは名誉なことですからね。きっとオットーの友人たちも彼を尊敬していたことでしょう。まあ、だからこそ、ああして悲劇に巻き込まれてしまったと言えなくもないですが……」
「あれは、本当に悲しい出来事だった……。亡くなった子たちのことはみんなよく知っていたから。今思い返しても、犯人たちのことはゆるせない。わたしだけじゃなく、この辺の人たちはきっとみんな同じ気持ちよ」
「自分の子どもがあの場に行っていたら……と、肝が冷えた親御さんもいたことでしょうね」
「……わたしは、まさにそうだった。うちの子があの場に居合わせなかったのは奇跡よ」
きた、と、ダンは思う。
「あなたにもお子さんが?」
「正確には、姉の子なんだけど。わたしからすると、甥っ子。あの子が生まれてすぐ姉も義兄も亡くなってしまったから、わたしが引き取ったの」
「その子は、今……」
「声果隊員なんです。だから、中央教会の宿舎で生活してる。……さっき、この町からは二人の声果隊員が出たって言ったけど、彼も入れると三人ね。凄いことだわ。
甥の名前は、アルタ。ご存じかしら」
「勉強不足で、隊員全員を把握しているわけではないのですが……、アルタの名前は知っています。最近とても評判の隊員だ」
「そんなふうに言ってくださって、うれしいわ。あの子、宿舎に入ってから手紙の一つもくれないから……。元気でやってるといいのだけど……」
セシルはさみしげに目を伏せた。
セシルの存在は「母親」と変わりないように思える。生まれたばかりの頃からアルタを育て、今もその身を案じている。アルタの方も、自身の中にある最初の記憶はきっと、自分を見守るセシルのやわらかい眼差しであるはず。そう思ったが、それは甘い想像でしかないかもしれない、と、ダンは思い直す。姉を失ったこと、その子どもを引き取って育てること、その子は両親の顔も声も覚えていないこと……経験した者にしかそこにある感情は絶対にわからない。
ダンは一つ咳払いして、
「奇跡、とは? アルタもあの日あの家に行く予定だったのですか?」
「アルタは、オットーと仲が良かったから。あの日のホームパーティーにも招待されていたの。でも、約束の時間になっても出かける気配がなかった。『行かないの?』って訊いたら、『そのつもりだったけど、やめた』って」
「なぜやめたんでしょう?」
「さあ……。はっきりとはわからないけど、もしかしたら喧嘩したんじゃないかしら」
「喧嘩?」
「あの日、昼にオットーが家を訪ねて来たのよ。『夜にみんなを呼んでちょっとしたパーティーをするから、おいでよ』って。アルタはそれにうなずいてた。だから私は行くものだと思ってたの。その後、二人は揃って家を出て行ったわ。わたしに聞かれることなく、二人だけで話がしたかったんでしょうね。で、帰ってきたアルタの様子がちょっとおかしかったのよね……」
「それは、どんなふうに?」
「思いつめてる、というか、静かに怒ってる感じ……。あの子、おとなしいけど勝気なところがあるから。ああ、久しぶりに会ったのに揉めちゃったのかしら……って」
だとしたら、その内容を知りたい。が、さすがにセシルもそこまでは見当がついていないようだ。
「でも、夜、結局出かけて行ったのよね」
「え」ダンは顔を上げた。
「だから奇跡的に助かったと思ったの。あと一時間……、いえ、もしかして三十分早く家を出てしまっていたら、あの子も犯人と鉢合わせ、」
「ちょっと待ってください」
ダンは思わず声を上げた。「アルタは、あの日、事件現場に行ったんですか……?」
「いいえ。行っていないと思うわ」
どういうことだ? ダンは眉を顰める。
「たぶん、行こうとして、でも途中で引き返したと思うの。オットーに昼間のことを謝りに行こうとして、やっぱりやめたんじゃないかしら。それが幸いして犯人と鉢合わせることはなかった。わたしはそう思ってる」
「……アルタが出て行ったのは、何時頃だったんです?」
「ちょうど二十二時くらい」
犯人たちは、屋敷に侵入するとまず被害者たちを次々に殺害していった。その後、金品を物色し、柱時計が示していた「二十一時四十一分」から二十分ほど経って現場を後にした、と、本人たちが自白している。
「あの子がもしも現場を見てしまったなら……、近所の家に駆け込むなり、急いで帰ってきてわたしに言うなりしているはずでしょう?」
「アルタに取り乱した様子はなかったんですか?」
「出て行く時もそうだけど、そこまでちゃんと様子を窺っていたわけじゃないから、確実なことは言えないけど、あの日は、帰ってきて、自分の部屋に入って、そのまま寝たんじゃなかったかしら」
セシルが目を上げる。意志の強そうな目に猜疑が灯る。「あなた、まさかアルタを疑っているの……?」
「まさか」
ダンは慌てて首を振った。「アルタは被害者の子どもたちと同年代ですよね? そんな子どもに何ができるって言うんです」
「そうね。……あの子、たぶん、オットーに会わなかったこと、後悔してると思う。だから、翌日、事件のことを知って、熱を――」
セシルが口をつぐんだ。……思い出したのだ、きっと。アルタが発熱した理由、それは友人を突然失った「ショック」ではなかったことを――。
ダンは、静かに戦慄した。喉の奥で言葉がどんどん干上がっていく。心臓だけが激しく鳴っている。そのリズムがどんどん、どんどん早くなる……。
(このことを、どうやって――)
ヒューゴに報告すべきか……。
その時。ダンの脳内に閃光が走る。そして気づく。気づいてしまった。ヒューゴの、軍事部副長の「筋書き」に。
(やられた……っ!)
なぜ、もっと早く気づけなかったのか。副長室で話したあの時点で気づけたはずだ。しかし、たとえそれができていたとして、現実は変わっただろうか。……変わらない。ダンはただ「期待通り」の働きをするしかなかった。
――本当の意味で〈声〉が導いてくれると思うのです
ヒューゴの言葉を思い出す。……あぁ、本当に。その通りになる。副長は、その通りにするつもりだ。
「あの、大丈夫……?」
セシルに声をかけられ、ハッとする。怪訝そうにこちらを覗き込む彼女と目が合う。
ダンは激しい動揺を押し隠し、会話をフェードアウトしていく。協力してくれた礼を丁寧に述べ、頭を下げた。
「……アルタに、また会えるといいですね」
最後にダンがそう言うと、
「会えるわ、そのうち」
と、セシルは微笑んだ。




