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声授  作者: 昏々
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10/16

⑧

 おかしい。絶対に何かあったんだ。

 部屋に一人残されたユッシは、閉じられた扉をじっと見つめた。

 ……アルタは礼拝堂で〈鐘〉と会っていたと言った。通常なら、たとえ鉢合わせしたとして、一隊員が〈鐘〉と口を利くことは難しいが、二人の間には何らかのやり取りがあったのだろう。

 ユッシが知っている〈鐘〉は、いつも遠いところに立っている。だからもちろんどんな人物かは知る由もない。けれど、予想はできる。例えば、〈鐘〉が、その歌声以外は普通の人間だったとして。自分の絶対的な地位を脅かそうとしている相手を目の前に、心穏やかであれるだろうか。

(でも――それと『悪魔』事件は結びつかない)

 時間的に考れば、おそらく「悪魔」は〈鐘〉だ。今までの「悪魔」事件もそうだったのか、今回だけ模倣したのかはわからない。しかし、そうだとすると、〈鐘〉がそれを行う意味は何か。元・隊員の喉を掻っ切るなどという蛮行は、リスクばかりで得るものがあるとは思えない。

(今回に限って考えれば……アルタに濡れ衣を着せようとした、とか……?)

 アルタが新しい〈鐘〉になるという噂を耳にして、自分の地位を守るために。いや、さすがにそれは飛躍し過ぎだ。礼拝堂に遺体が安置されているその時に、アルタがそこへ向かう保証はない。アルタの動向を見張っていれば可能かもしれないが、塔にいる〈鐘〉にそれができたとは思えない。人を使って見張らせる手もあるが、それでは結果的に少なくともその協力者には自分が「悪魔」であると告白しているのと同じになる。または、偶然が重なり、礼拝堂に入って行くアルタを見かけて犯行を思いついたのだとしても、アルタが「自分の方が先に礼拝堂を出た」と証言すれば、〈鐘〉の方こそ立場が危うくなる。……それとも。あらゆる問題は〈鐘〉という立場によって解決されることを見込んでいるのか。この国では、どんな声より、〈鐘〉である自分の声が優先される、と。

「…………」

 ここでこうして考えを巡らせたところで、答えなどわかるはずがない。やはり〈鐘〉がどんな人物であるのかによって、見え方は変わってくる。普通の人間のように地位に固執するのか、それとも〈鐘〉個人の思考や感情が強くあるのか。

 それに……と、ユッシは息を吐く。自分はどうしたってアルタに肩入れしてしまう。アルタが自らを「『悪魔』じゃない」と強く否定した時、一瞬、違和感を覚えた。しかし、ユッシの頭はそこから考えられる可能性を捻り出そうとはしない。違和感を無視しようと努めてしまう。

(でも……)

 同時に、知りたい、と思う。ずっと思っている。アルタのことや〈鐘〉のこともそうだが、もっと根本的なこと。声授という、降って湧いたような身体変化を経た日から、自分の身に宿った秘密に触れられないことを、もどかしく感じている。

〈鐘〉は、秘密の象徴だ。

 ならば、まずはそこに手を伸ばしてみる。〈鐘〉が本当に「悪魔」なのか。だとして、なぜそんなことをしたのか。アルタとの間にどんなやり取りがあったのか。……それらに触れた先に、アルタに感じた違和感や自分の〈声〉という不思議にも、爪の先くらいは引っかけられるかもしれない。

 ユッシは荷物を掴むと、アルタの部屋を後にした。自室へ戻り、荷物を放り投げ、宿舎の出口へ向かって廊下を進む。

 行く先は、〈鐘〉の住まう塔だ。


「お引き取りください!」

 まるで約束をしているかのように堂々と塔に近づいたものの、案の定、警護の警吏たちに行く手を阻まれた。「悪魔」事件が発生したことでこちらの警護は手薄になっているかと踏んだのだが、……甘かった。

 塔の入り口はすぐそこに見えている。かかわらず、こうして実際以上の距離を痛感させられる。

(文字通り手も足も出ない……)

 と、思った時、閃いた。屈強な警吏を前に手も足も出なくても、自分には彼らより使えるものもある。

 ユッシは大きく息を吸い込んだ。

「〈鐘〉さまに会わせてください!」

 腹の底から叫ぶ。自分を押し戻そうとしていた警吏の顔が一瞬歪む。〈声〉を使っているわけではないからただの大声でしかないが、それでも声が割れないところが自分の声の良さだと知っている。

「〈鐘〉さまにどうしてもお話があるんです! 会うのが無理なら伝言だけでもお願いします!」

「ダメです! ダメ!」

「どうしてですかっ」

「塔に入るのには手続きが必要なことはご存じだろう。約束のない者を塔に入れ、〈鐘〉さまに万が一のことがあってはならない」

「僕が何かすると思いますか?」

「失礼ながら、こうして強行突破しようとしている時点で充分に警戒すべき対象だ」

「〈鐘〉さま~! そこにおられますよね? お話を聞いていただけませんかーっ!」

「何を考えてるんだ、きみは?! 失礼だろ!」

 警吏に両肩を押し返される。先ほどとは違う、容赦のない力強さだ。

〈鐘〉だって〈鐘〉になる前は一介の声果隊員だったというのに、この扱いの差は何だろう。

(あぁ、普通の会話でも〈声〉が使えたら)

 ユッシは思うが、それができたとしても「悪魔」事件については大声で話すわけにはいかない。やはり何度も呼びかけ、〈鐘〉に会うしかないのだ。

 警吏の一人が「聖務院に連絡を」と、別の警吏に指示を飛ばす。ユッシは、まずい、と焦る。このままでは塔の前で騒ぎを起こした問題隊員になってしまう。ここまで来たら、いろいろな意味で〈鐘〉に会わずして帰る道はない……。

「お引き取りを」

 警吏が再度言ったその時だった。塔の入り口の扉が重たい音を立てて開いた。

「ずいぶん賑やかですね」

 現れたその人を見て、ユッシはあまりにも精巧なその美しさに一瞬呼吸を忘れる。

 警吏たちが一斉に頭を下げ、飛び退くように脇へ避けた。その様を横目に小さく息を吐き、その人――〈鐘〉は首をかしげる。

「何かありました? 上まで声が聞こえたから気になって」

「申し訳ございません」

 顔を伏せたまま、警吏の一人が答える。「こちらの声果隊員が、どうしても〈鐘〉さまにお話ししたいことがあるようでして……。約束のない者は合わせられない、と、何度もお引き取りくださるよう申したのですが……」

〈鐘〉が視線を動かす。長い睫毛の奥、さみしさを湛えたような青色の瞳がこちらを捉える。

 ユッシは反射的に頭を下げた。

「顔を上げて。そうじゃないと誰だかわからない」

〈声〉の反響がない声は触れたら壊れそうなほど繊細で、儚く脆い美しさを湛えていた。聞き馴染みがあるはずなのに、はじめて聞く声……。そこから感情を窺い知ることはまだできない。

 一つ息を吐き、ユッシは顔を上げた。真正面から〈鐘〉を見すえる。〈鐘〉と言えど自分たちと同じ「人」であると思っていたし、こうして相対してもそれは変わらないが、どこを取っても非現実的なその佇まいに思わず後退りそうになる。

「声果隊員なんだよね?」

〈鐘〉が首をかしげる。長い髪がつられて揺れた。「話って? どんな内容?」

「アルタとのことです。さっき……一緒におられましたよね?」

〈鐘〉の形のいい眉がピクリと動いた。

「……どうぞ。上で話そうか」

 ユッシは瞬いた。まさかこんなにすんなり応じてもらえるとは思ってもみなかった。同時に、やはり〈鐘〉は今回の「悪魔」事件に無関係ではないのだろう、という確信が形を成していく。

〈鐘〉の気が変わらないうちに、と、そちらへ一歩踏み出そうとしたその時、

「しかし、〈鐘〉さま!」

 警吏の一人が叫んだ。「声果隊員といえど、事前に約束のない者を塔内に入れるわけには……」

「大丈夫」

〈鐘〉がこちらをちらっと振り返る。「この子、悪い子じゃなさそうだし」

「し、しかし……」

「そうだなぁ、じゃあ、こうしましょうか。もし何かあった時は歌います。そうしたら〈声〉を聞いて、みなさん駆けつけてくれるでしょう?」

 小さくふっと息を吐き、唇の端に微笑を浮かべる。「大丈夫ですよ、本当に。僕の責任で彼を招き入れます。何かあってもみなさんの落ち度にはなりません。ただ、話を聞かれたくないので、警護はこの場所のままで結構です。それより、他の人が上に上がって来ないよう見ていてください」

 言うや否や、相手の返答を待たず、〈鐘〉はさっさと入口の扉を潜る。ユッシは慌てて後に続いた。振り返ると、警吏たちはまだ異を唱えたそうにしていたが、〈鐘〉の言葉に逆らうことはできない。

 扉が閉まる直前。「専属警吏は何をやっているんだ!」という怒声が、ユッシの耳に届いた。


「きみ、ラッキーだったね。専属警吏がいたら適当にあしらわれてたはずだよ」

 彼そういうの巧いから、と言いながら、〈鐘〉は気だるげにソファに腰を下ろした。

(ここが〈鐘〉の部屋……)

 じろじろと見回したい衝動をどうにか抑え、ユッシはじっと〈鐘〉から視線を外さない。好きなところにかけて、と、〈鐘〉がソファやテーブルに手の平を向けたものの、ユッシは扉の前から動かなかった。

「それにしても。塔の下から『〈鐘〉さまー』って呼びかけられたのは、はじめてだったな。おもしろいね、きみ」

「申し訳ありませんでした」

「いいよ、べつに。気にしてない。それより、話があるってことだけど、僕とアルタとのことだったよね?」

 ソファの背に肘をつき、〈鐘〉は視線を投げ出す。「もしかして、礼拝堂でのこと? 『悪魔』が現れたって大騒ぎになってるみたいだね。遺体の喉に傷をつけた犯人なら、それは僕だよ」

 ユッシは息を呑んだ。そう疑ってここに来たとはいえ、聞き間違えかと思った。まさかこんなにあっさり罪を認めるとは……。予想外のその出方に、二の句が継げない。

「もちろん名乗り出るつもりはないけど」

〈鐘〉に動じる様子はない。ソファに凭れ、どこかぼんやりしているようにも見える様は、こちらが何か言うのを待っているふうにも、これ以上話すことはないというふうにも窺えた。

 ユッシは音を立てて唾を飲み込む。

「今までの『悪魔』事件も、〈鐘〉さまの犯行なんですか……?」

「そうだね」

「なっ……なんで、そんなこと……」

「それは内緒」

 小さく笑ってから、ふと、〈鐘〉が目を上げる。

「一つ、いい?」

 ユッシは身構える。

「こんなこと言いたくないけど。きみが、今回の件の犯人が僕だって報告を上げたところで、無駄だと思う。というより、無駄にさせてもらう。……その辺、理解してもらえるね?」

 それは言外に、〈鐘〉と一声果隊員との立場の違いに釘を刺していた。しかし、ユッシからすれば、そんなことは言われるまでもない。アルタには「報告すべき」と言ったが、それは報告するのがアルタだからだ。アルタならまだしも、自分がこの件に首を突っ込んだところでどうなるわけでもないことは重々承知している。どんな理由があるのかは知らないが〈鐘〉の行いは身勝手極まりないし、到底ゆるせるものではない。が、この国で耳を傾けてもらえるのは、絶対的に〈鐘〉の声なのだ。〈鐘〉の声が真実を作る。

「……わかりました」

 ユッシは奥歯を噛みつつ、うなずいた。「代わりに、一つだけ教えてください」

「何?」

「今回、『悪魔』みたいなことをしたのは、なぜですか?」

「さっき内緒って言ったと思うけど?」

「〈鐘〉さまは自身を『悪魔』だとおっしゃったけど、これまでの『悪魔』事件は、〈鐘〉さまの犯行じゃありませんよね? 普通に考えて、〈鐘〉さまに犯行は不可能です」

〈鐘〉は人嫌いがゆえ塔に籠っていると噂されているが、そう気軽に出歩くことができないというのが本当のところだろう。〈鐘〉が外出するとなれば、警護や警備の手配にはじまり、それだけで一大事だ。今回の「悪魔」事件が自白通り〈鐘〉の犯行だとして、よく礼拝堂まで一人で足を運べたと思う。それなのに、遠くの町まで出向いて誰にも見られずに「悪魔」として犯行を重ねるというのは、どうしたって無理がある。

(全部、嘘? いや、そんな嘘を吐く意味がない。じゃあ、共犯者がいる? 誰かを庇ってる?)

「どうして『悪魔』になろうと思ったんですか?」

 もう一度、訊ねる。知りたい、純粋に。神様のような人が悪魔になろうとする理由。

〈鐘〉が目を伏せる。長い睫毛が頬に影を落とす。わずかに身じろぎ、ため息を吐いた。

「きみの名前。そういえばまだ聞いてなかったね」

(はぐらかされた……?)

 唐突に話題を変えられたことを怪訝に思いつつ、ユッシは自己紹介が遅れた非礼を詫び、名乗った。

「ユッシ――。ユッシは、アルタの友だちなの?」

「はい、そうです」

「アルタのためにここまで来たの?」

「それは……どうなのかな。アルタのためでもあるし、全然違うかもしれません。アルタからは、礼拝堂で〈鐘〉さまとお会いしたことは聞きましたけど、『悪魔』事件に関してはあまり関わりたくない様子でした。今こうして事件のことで僕が〈鐘〉さまを訪ねたって知ったら、かなり怒るんじゃないかな。最悪、絶交かも。だから、僕がここに来たのは、アルタのためというより、ただ自分が知らないことを『知りたい』って思ったから。それが結果的にアルタのためにもなったらいいとは思っていたけど、〈鐘〉さまとお話ししてみて、事件のことでアルタが不利な立場になることはなさそうだし、結局は自分の好奇心を満たすだけになった気がします」

「アルタのこと、よくわかってるんだね」

「え、全然ですよ」

 ユッシは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。〈鐘〉が不思議そうに首をかしげる。

「アルタは基本、自分のことを話さないので。常に何か思い詰めている雰囲気があるけど、さみしそうとか悲しそうというわけでもなくて、それどころかちょっと勝気な一面もあるし。謎なんです。アルタをよくわかるようになるには、あと三十年くらいかかるんじゃないかなぁ」

 ユッシが言うと、〈鐘〉は「そう」と小さく息を吐いた。

 ……〈鐘〉を目の前にペラペラとしゃべり過ぎたかもしれない。さすがに気まずさを感じ、身を縮こまらせる。

「そんな謎な子なのに、なんでアルタと仲良くなったの?」

「えっ」

 ユッシは〈鐘〉からの質問に目を瞬いた。こちらの話など、てっきりどうでもいいと思われているかと思っていた。〈鐘〉はやはりアルタの存在が気がかりなのだろうか。だとしても、アルタと自分の関係が〈鐘〉の地位を巡るやり取りに何か影響を及ぼすとは思えない、とユッシは訝しみつつ、〈鐘〉の問いに答えるため、一年半ほど前のことを思い出しながら口を開く。

「アルタと話すようになったのには、たいした理由があったわけじゃないんです――」

 ユッシは将来、薬師になることを決めている。そうして、家業である薬屋を継ぐ。それは幼い頃からずっと変わらない夢であり、目標だった。しかし、四歳で声授したのをきっかけに声果隊に入隊し、そこでこの話をすると、隊員は皆一様にユッシを小馬鹿にするような、そんな薄ら笑いを浮かべた。神の愛を授かり、選ばれて声果隊員になれたのに、なぜ薬屋に? その目はそう言っていたし、実際に言われたこともあった。彼らは、おそらく、あらゆる職業よりも声果隊員の方が価値があると、どんな人間よりも声授した者こそ神に見守られていると、心からそう信じている。もしかすると、彼らだけではないかもしれない。この国の多くの人々がそう思っているのかもしれない。でも、それは本当だろうか。薬屋も、声果隊も、どんな職業もどんな人も、誰かにとっては絶対になくてはならないものではないだろうか。価値の基準など人によって曖昧に変わる。神の心だって天気のように気まぐれだ。ユッシは声果隊にいる自分をだんだんと窮屈に感じるようになった。その鬱屈は、次第に周囲に向いていく。そもそも、声果隊は「国と国民のために歌う」存在であるはずなのに、自分たちを一段高いところに置いてしまったら、その使命が成立しなくなる。ただ「聴かせている」だけになってしまう。それを、隊員たちはわかっていない。

 成長に伴い、そうした考えがはっきりと自分の中で言葉にできるようになった頃、声果隊にアルタがやって来た。十四歳で入隊という、異例の存在。誰もがアルタを遠巻きに見ていた。その中でユッシが声をかけたのは、持ち前の好奇心が働いたからだ。が、正直、「この子も『声果隊員』なんだろうな」と思っていたことは否めない。隊員たちの傲慢な価値観にうんざりしていたというのに、自分も少なからず隊員たちと似た目を彼らに対して向けるようになっていた。

「――でも、アルタと接しているうち、アルタが他の隊員とはちょっと違うことに気づいたんです」

 アルタの歌声と詠唱力は群を抜いていた。神の愛というものを体現しながら、抗えないことに真っ向挑むような力強さ。次元が違う……それは誰の耳にも明らかだった。それなのに、アルタは、どことなく自身の持って生まれたその力に息苦しさを感じているように見えた。そして、本当は歌うことが好きなのに、それを表には決して出すまいとしているような、ちぐはぐな印象を受けた。圧倒的な神の愛と、ちょっと反抗的な態度。そんなアルタを快く思わない隊員も少なくなかったが、ユッシの好奇心は益々くすぐられた。

 ある時、アルタに将来の話をした。薬師になろうと決めていること。家業の薬屋を継ぐこと。声果隊に入って間もなくこの話をして笑われて以来、ユッシは久しぶりにそれを口にした。意を決して打ち明けたわけではなく、何かの話の途中でポロっと零してしまったのだ。すると、アルタは、

「『なりたい』んじゃなくて、『なる』んだ? だったら、なれるね、きっと」

 相づちのついでのようにそう言った。

「――その時、思ったんです。『あぁ、この子とは仲良くなれそうだなぁ』って。というか、『仲良くしたいな』って。……まあ、その頃のアルタは今にも増して他人に興味がなさそうだったから、本当に何の気もなかったんだろうけど」

 ……ユッシは〈鐘〉を窺う。こんな話を聞いて、〈鐘〉にとって何か思うところはあるんだろうか。

〈鐘〉は床の一点を見つめたまま、何の反応も見せない。身じろぎ一つしない。窓からの陽射しが髪を輝かせ、全身の輪郭を曖昧にする。口を開く気配はないのに、今にも繊細なその声が聞こえてきそうだ。まるで一枚の絵になってしまったみたいだと、ユッシはぼんやりとその姿に見惚れた。

「……質問の、答えだけど」

 ぽつり、〈鐘〉が言う。

 質問とは、どうして「悪魔」になろうと思ったのか、というそれだろう。

「『わかってほしい』って伝える方法が、わからないんだ」

 ユッシは眉を寄せる。どういうことだ……?

「わかってほしい人がいらっしゃるんですか?」

「そうだね。できれば言葉にしなくても心の内を余すことなく掬ってくれたらいいのに、と思う」

「それは……」

「無理だろうね」

〈鐘〉は小さく笑う。「僕も、相手も、人間だから」

 でも、と、目を閉じる。

「もう一度、助けてほしい。あの時みたいに。……子どもの頃から、声授してからずっと、もうダメになりそうな時がある。神様の愛が重すぎて、でもそれを手放せなくて、身軽になるのがもっと怖くて。救われるためには、歌い続けるしかない。そうしたい。そうしたいはずなのに……、いつかは愛が尽きる。身体は衰え、声は枯れる。神様は授けるだけ愛を授け、その後のことには無関心だ。どれだけ祈っても願っても、時がくればそっぽを向く。そんな時、どうしても、もう一度、と思ってしまう。その瞬間だけでもいいから、これで大丈夫だって思える、そんな言葉がほしい……って」

〈鐘〉が口をつぐむ。ゆっくりと瞬きし、長く息を吐き出す。頭を振る。見ず知らずの声果隊員に何を語っているのだろうと、我に返ったのかもしれない。

 ユッシには、正直、〈鐘〉の話は抽象的で要領を得なかった。しかし、言いたいことはなんとなく理解できた。というより、言葉の端々に灯る切実さが、言葉以上の雄弁さでその気持ちを物語っていた。

 ユッシは一歩前に踏み出した。

「〈鐘〉さま、」

〈鐘〉が顔を上げる。さみしい色の瞳がこちらを見る。

「〈鐘〉さまは誰もが求める声をお持ちなのに、〈鐘〉さまご自身はたった一人の『声』を求めておられるんですね」

 瞬間、〈鐘〉が目を見開いた。瞳が大きく揺れる。その表情は、驚愕しているようにも、呆気にとられているようにも、泣き出す直前のようにも見えた。

(まずいことを言ってしまっただろうか……)

 ユッシは固唾を飲んで〈鐘〉の目を見る。

「そう、だったんだ……」

〈鐘〉が小さく呟いた。全身からふっと力を抜くと、ソファに深く沈み込む。長い睫毛を伏せ、目を閉じる。ふっと息を漏らす。小さく笑う。

「アルタの言う通りだね」

 その歌声のように神秘的な微笑みを湛えながら、ユッシを見る。

「ユッシ、きみ、いい薬屋になるよ。人を診るの、うまいと思う」

「…………ありがとう、ございます」

 ユッシは思う。「悪魔」みたいなことをする人にそんな保証をされても、全然うれしくない。それより、結局、質問の答えはどうなったのか。そもそも、〈鐘〉と「悪魔」事件の関係は?

 話はこれでおしまい、ということなのか、こちらに背を向けた〈鐘〉は、もうここにユッシがいないかのように窓の外を眺める。

「…………」

 好奇心に駆られて、それでもそれなりに意を決してここまで来たというのに。知らないことは、知れないまま。秘密は近くて遠いところでそこにあるまま。

 ユッシは最後にもう一度だけ〈鐘〉をじっと見つめた。プラチナの髪に陽射しの粒が降り注いでいる。歌っていなくてもどこか神々しいけれど、そう感じるのはきっとその歌声を知っているからだ。知らないまま出逢っていたら、別れ際に呼びかけるのはきっとその名前だったはず。

(でも、一つだけ、確かになったことがある)

 彼は、やっぱり自分たちと同じ「人」だった。


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