⑤-2
「専属警吏」というのは、「ダンを呼び寄せたい」というリリーの希望によって作られた急ごしらえの役職であるため、一応〈鐘〉の警護という名目はあるものの、明確な職務はなかった。そもそも、〈鐘〉に危険が及んだ時に備えて塔にはベテランの警吏が複数人駐在している。新人警吏の出る幕はない。
ただ、緩慢に日々過ごしているうち、ダン自身も周囲も「専属警吏」の立場を徐々に認識していった。それは、「窓口」。リリーは案の定他人との接触に興味がないものの、「定期詠唱以外でも歌いたい」などの不満は持っているらしく、(結局これは許可されなかったが)、それを要職者に伝えるようダンに指示した。一方で、〈鐘〉から要望を吹っかけられた要職者たちは、許可できない旨を〈鐘〉に伝えるよう、ダンに命じた。もしかするとダンがいなければ、誰も〈鐘〉に意見することなどできず、リリーの要望は通っていたかもしれない。または、要職者たちは〈鐘〉の詠唱のありがたみが薄れることに頭を抱え、君主が直々にリリーの元へ足を運んで説得を試みるという大騒動になっていた可能性もある。
(『お使い』だな)
専属警吏はいると便利だが、いなくてもどうにかなる。ダンは日々、仕事があってないようなものだった。
だからこそ。「その報せ」を掴んだ時、すぐに動くことができたのだが――。
……十数年前に声果隊を脱退した元・隊員が病に倒れた。医者の見立てによると、もって数日らしい。
ダンはすぐに馬を飛ばした。元・隊員が暮らしているのは北の地域のとある町だった。その二つ手前の町で馬を下り、残りは徒歩で向かう。元・隊員の家の場所や、その近隣の教会がどこにあるのかは調べてあった。
遺体は、一先ず近隣の教会に運ばれる。職務に縛られていない身とはいえ、中央を何日も離れることになるのは恐ろしかった。万が一理由を訊ねられた際の回答をいくつも用意しては、穴がないか確かめる。もしもの時は「〈鐘〉さま」が何とかしてくれると信じたいが、あまり期待はできない。
町に着くと、幸いにも教会からほど近い場所に宿があった。ダンはその一室で、教会に元・隊員と思しき亡骸が運び込まれるのを待つ。
元・隊員はかなり高齢らしい。医師の見立てがあるとはいえ、いつ息を引き取るかはもちろん誰にもわからない。本当に数日以内に結果が出ればいいが……と思ったところで、ダンは、何の後ろめたさもなく人の死を願っている自分に気づいた。
そんな動揺も間もなく、翌日の夜、事態は動いた。
部屋の窓から教会の入り口を見張っていると、通りの向こうからやって来る複数人の人影が見えた。彼らは何か大きなものを取り囲むようにして抱えていた。足取りがゆっくりと、やけに慎重だった。そうして教会の門を潜っていく。
元・隊員だ。その棺、だ。
確証はない。けれど、タイミング的に間違いではない気がする。
(もし違っていたら引き返せばいいだけだ)
ダンは部屋を飛び出そうとして、……目立ってはいけない、と己を諫める。物音を立てないよう慎重に足を進める。寒くもないのに息が震えていた。夜は深まり、通りに人の姿はほとんどない。とはいえ、誰かの記憶に残るような動きをすることは絶対に避けなければならない。
通りをまっすぐに教会へ向かう。走ればほんの数分の距離だ。しかしダンはあくまで何気ない足取りを装う。
教会の門前に見張りはなかった。それを目だけで確認し、立ち止まることなく門を潜る。
遺体は、おそらく礼拝堂に安置されている。見張りの警吏、司祭、家族などがどこで待機しているかによって、状況は大きく変わる。何もできないまま引き返すことになる可能性も、十分ある。
教会内。全身が静謐な空気に包まれる。教会の空気というのは、規模や地域に関わらず、どこもよく似ている。清浄で、潔癖。その中でこれから自分が仕出かそうとしていることを思うと、思わず神に祈りたくなるほど息苦しくなる。
礼拝堂前にも見張りの姿はなかった。中にいるのか、それとも別室でこれからの段取りを話し合っているのか……。
ここまで何の障害もなく入り込めたことに反して、ダンの警戒心は高まっていく。
礼拝堂の扉は開け放たれていた。音を立てないよう慎重に近づき、扉の陰に身を隠しながら堂内の様子を窺う。
堂内は、一般的な造りだった。祭壇があり、説教台があり、通路の両脇に長椅子が並んでいる。人気はない。それなのに祭壇付近が煌々と明るいのは、蝋燭が何十本と灯されているからだ。
棺は、その中心にあった。
躊躇っている暇はなかった。ダンは通路を駆け出した。いつ誰がやって来てもおかしくない。それに、死後硬直の問題もある。やるべきことは一刻も早く済ませる必要があった。
棺の蓋はあいていた。元・隊員の死に顔が蝋燭の灯りに照らされていた。病に倒れたという話だったが、穏やかな顔をしていた。
(迷っている時間はない)
思い直す時間も、だ。
ダンは懐から短剣を取り出すと、震える右手を左手で押さえつけ、その切っ先を元・隊員の喉に突き立てた。皮膚を裂く感触が、柄を握る手に這い上がる。両手から腕にかけて鳥肌が立つのを無視して、そのまま鎖骨の方へ向かって剣先を引いていく。
手の震えは止まらない。しかし、短剣を取り落とすことはなかった。柄に手の平が縫いつけられたみたいだった。放り出したくても、放り出せない。
リリーの「お願い」を聞き入れると決めてから今日まで〈声〉を取り出すシミュレーションは何百回としてきた。しかし、それで現実を補うことは不可能だった。喉を切り裂くのにこんなに力が要ることも、血が滲むように出ることも、一向に〈声〉を見つけられないことも……想定外だ。
暑くもないのに全身から汗が噴き出す。短剣をぎこちなく動かすたび、血と肉が擦れ合う音がする。
(なんで、こんなことしてるんだ……?)
頭の冷静な部分が問いかけてくる。しかし目の前の光景に答えは見つけられない。……リリーの顔が浮かぶ。リリーはまだ生きていて、この元・隊員は死んでいる。リリーは〈声〉を集めないと死んでしまう。リリーを死なせてはならない。国民が悲しむから。国が途方に暮れるから。リリーにはお守りが必要だ。それを手に入れられるのはダンしかいない。だから、だから――……
ガタンッ、と、物音がした。
咄嗟に扉の方を振り返る。……誰もいない。気のせいかと思ったが、耳を澄ますと微かに人の声が聞こえる。誰かがこちらに向かって来ている。
元・隊員を見下ろす。喉元が、血と肉片でぐちゃぐちゃになっている。赤黒い血液が身体を包む白い布を汚している。
「…………」
ダンはその場を離れた。扉から少しだけ顔を出し、廊下の様子を窺う。人影はまだ見えない。
出口へ向かって、駈け出した。振り返ることはせず、教会を後にする。敷地の外に出たところで歩調を緩め、夜に沈む町中をでたらめに歩いて回る。
(とれなかった……)
〈声〉を、持ち去ることができなかった。
(……とれなかった)
情けなさか、焦りか、怒りか、悲しみか、後悔か、何ともつかない感情が渦を巻いて心臓を締めつける。
……今頃、誰かが礼拝堂に入って元・隊員の無残な姿を見つけているかもしれない。朝を待たず、確実に捜査がはじまる。ダンは今になって犯行の痕跡を残してはいないだろうかと不安になる。
しかし、もう戻ることはできない。
足を止める。空を見上げる。雲一つない。白い月が場違いなほど綺麗に輝いている。
(……帰ろう……)
〈鐘〉の住まう塔が浮かぶ。当然のようにそこへ帰ろうとしている自分に心底嫌気が差した。
(人にこんなことをさせておいて――)
リリーは今、何をしているんだろう。何を思っているんだろう。名前のない感情に胸が震える。ダンは、月を睨んだ。
「やっぱり難しいんだね」
〈声〉をとるのは失敗に終わった。ダンが事の顛末を話して聞かせると、リリーは小さく顎を引いた。その表情に落胆の色はなく、代わりに「次」が当たり前にあると信じて疑っていないことがありありと読み取れた。
(こいつが〈鐘〉じゃなかったら殴ってやるのに……)
ダンは怒りとも嘆きともつかない感情を抑えるのに必死だった。しかし、そもそもは自分が蒔いた種だ。そして「次」を当たり前に否定できない時点で、リリーにこの激情をぶつけるのはお門違いだとわかっていた。
……あれから夜毎、元・声果隊員の死に顔が夢に出てくる。祭壇の前、ダンは棺の傍らに立っている。ただ立っているだけなのに、いつの間にか両手が真っ赤に染まっている。その赤がまるで生き物のように蠢いたかと思うと、やがて周囲の蝋燭の炎と混ざり合い、気づいた時にはダンの全身は業火に包まれ、焼かれている……。ハッとして目を覚ますと、全身にびっしょりと汗をかいている。夢の中の熱が続いているかのように、喉が焼け、息がうまくできない。
「この件、結構な騒ぎになってるみたいだけど。きみがやったって、バレてないよね?」
「バレてたらこうしてここに来られてないだろ」
ダンは憮然として答えた。
リリーの言う通り、元・隊員の亡骸が損壊されたことは大々的な事件として人々の注目を集めていた。捜査もかなりの人員を割いて行われている。ただ、元・隊員の喉が裂かれたことの他に被害はないため、犯人の意図が掴めず、現場は困惑しているようだ。
(だけど――……)
ダンは懸念していた。捜査にあたっている現場の警吏には犯人の意図や動機が見えなくとも、〈声〉の仕組みを知っている者たちはどうだろう。喉が裂かれた=〈声〉との関連を疑う者もいるんじゃないだろうか。ダンが耳をそば立てている限りでは、まだその線を疑う声は聞こえてこない。おそらく、〈声〉を狙ったと考えるとして、その動機がはかれないからだろう。まさか瓶詰にして「お守り」にしようだなんて企んでいる奴がいるとは、誰も夢にも思うまい。
(それに、〈声〉を狙った犯行と考えてしまうと、要職者たちは必然的に互いを疑うことになってしまう)
ダンは〈鐘〉の専属警吏として、先日はじめて評議会に参加した。ここでもダンの仕事はあってないようなものだったが、要職者たちからすると「お使い」を頼むのに都合がいいのだろう。だから呼ばれた。
そこでダンは、この国の外交に関するある事実を知ることとなった。この国で生まれ育ったにも関わらず、ダンはこの国にどことなく薄ら寒さを感じていたが、外交のその事実を知り、自分の感覚が間違っていなかったことを悟った。元・隊員から〈声〉を奪うという悪夢を体験していなかったら、こちらの方で悪夢にうなされていたかもしれない。
リリーを窺う。ソファの背に肘を置き、器に盛られたラウドベリーを摘まんでいる。歌っている時とは程遠い、ただの人間の姿だ。ダンは考える。この外交の事実、リリーに伝えるべきだろうか。
(いや、やめておこう……)
伝えた後の反応が読めない。興味がなさそうに「へえ」と流すだけのようにも、突拍子もない思考回路によって塞ぎ込みそうにも、こちらに「お願い」という名の更なる難題を吹っかけてきそうにも思う。
(リリーは、歌うことだけを考えていればいい)
それが〈鐘〉を生かし、ひいてはこの国と国民を生かすことになるのだから。そして、その国民の中には、ダン自身も含まれているのだから。
ダンは、ラウドベリーに目をやった。「次」にでも〈声〉をとれるようになったら、よく似ているらしいこの実は食べられなくなるかもしれない。そう思った。
そうして、リリーの「お願い」を受け入れてから十数年の間に集められた〈声〉の数は、小瓶をいっぱいにするには程遠く、片手で数えられる程度だった。そもそも〈声〉を授かる全体数が少ないのだから仕方ない。一年に一人、病気や事故で命を落とす元・隊員がいればいい方だった。
ダンが最初の犯行に手を染めてから、回を重ねるごとに 元・隊員の亡骸に対する警備は厳重になっていった。が、警備体制というのはだいたいが定型的だ。警吏であるダンがそれを掻い潜るのはそう難しいことではなかった。また、ダンは来るべき「次」に備え、同じ轍を二度踏まないよう自身の手際の向上に努めた。人体解剖について学んだり、一般的な遺体の解剖を見学したり、と、成功率を上げるために思いつく限りのことはした。ただ、一番は、やはり「慣れ」だろう。自分が仕出かしていることに心と身体を慣らしていく。そのうち、悪夢にうなされる頻度も減っていった。
ダンの犯行は(もちろん、ダンが行っているとは知られずに)、この十数年の間に知らぬ者はいない事件となった。狙われるのは元・声果隊員ばかりという特徴と、その喉を裂くという動機の知れない手口から、人々はいつしか犯人を「悪魔」と呼ぶようになった。これは悪魔の仕業だ、と。神の愛である〈声〉に魅せられ、それを我が物にしようと魂が天に導かれる隙をついて忍び寄る。
(〈声〉を狙っているというのはその通りだが、誰もそれが実体のあるものだとは思っていない)
ダンは苦笑する。悪魔とは、言い得て妙な犯人像だ。
これほど周知の事件となったことで、〈声〉が器官であり、実際に体内から取り出せることは知らなくとも、〈声〉をとる、という行為に何らかの意味を見出す人間が現れ、模倣犯になったりしないかと、ダンには一抹の不安があった。しかし、現在に至るまで、それらしき事件は一件だけだった。ただ、その一件は、被害者は現役の声果隊員であり、悪魔の犯行同様に喉を裂かれてはいたものの、自宅から金品や調度品などが多数盗まれており、隊員以外にもその家族や友人、使用人など複数人の死者を出していた。これは悪魔の犯行ではなく、隊員は強盗事件に巻き込まれたのではないかとする見方が強い。
この事件が起こった時、しかしダンは肝が冷えた。何がきっかけとなって悪魔に辿り着く者が現れるかわからない。業火に焼かれる悪夢を見る頻度が減った代わりに、正体のない巨大な影に追いかけられる夢をよく見るようになった。
眠れているんだかいないんだか曖昧な日々を過ごしていた時だった。しばらくぶりにリリーの発作が出た。
何かきっかけがあったのか、それすらもわからない。突然、日増しに、目に見えて塞ぎ込んでいった。定期詠唱は滞りなく務めていたものの、それ以外の時間が明らかに無為になっていた。昔のように極端な行動に出ることはなかったが、口数が減り、陰鬱な雰囲気を漂わせ、主食がラウドベリーから果実酒に置き換わった。
その様子に、ダンは苛立った。
(長年リスクを冒して〈声〉を集めてやっているのに……)
少ないながらも〈声〉は集まっていた。リリーは「お守り」を手にしていた。それなのになぜ、こうなる?
ぶつける言葉も、かける言葉も、ダンは見つけられなかった。
(勝手にしろ)
自分は〈声〉を持っていない。神に選ばれていない。だからリリーの気持ちはわからない。ダンはそう結論し、〈鐘〉の様子を静観することにした。
ある日。それもまた突然だった。リリーの発作が治まった。
「ダン!」
いつものように部屋を訪ねたダンは、リリーに満面の笑みで迎えられた。未だかつてこんなにも溌剌としたリリーは見たことがなく、面食らう。……嫌な予感がした。
「元気そうだな」
ダンは、今にも抱きついてこんばかりのリリーの横をすり抜け、室内に入った。ラウドベリーの入った紙袋をテーブルに置く。
「聴いた? すごい、すごいよ!」
「何を」
リリーの耳に入るほどの大事件ならば必ずその前にダンの耳に入っている。でなければ、リリーは世の中のことを知ることはできないのだから。
「声果隊員の詠唱!」
「詠唱? 中央で歌ってるのはおまえだけだろ」
「いや、たぶん新人の隊員。裏庭でレッスンをしていたんだと思う。その歌声がここまで届くんだけど……、驚いた。あんなに強い歌声は聴いたことがない。詠唱力もとんでもない。それに、あの子はおそらく〈声〉の使い方をわかってる。どんなふうに響くのか、どうしたら自分の声が生きるのか。理屈じゃなく理解してる」
……ダンは冷ややかに、リリーを見つめた。
テーブルの上の小瓶。窓からの陽射しを受け、中身の〈声〉が甘く輝いている。パッと見は、確かにラウドベリーとよく似ていた。ダンは思う。リリーは知らないだろう、〈声〉は人体から取り出した時、それはそれは気色の悪い見た目をしていること。血まみれで、生臭く、鼻腔とつながっていた管が垂れ下がり、その醜悪さはさながら地獄の果実だ。……リリーがそれを知ることはない。
「――じゃあ」
ダンは静かに口を開く。「俺はもう〈声〉を集めるなんてこと、しなくていいな?」
リリーが口をつぐんだ。生き生きとした表情を引っ込め、真っ直ぐにダンを見る。
「どういうこと? どうしてそうなるの?」
「おまえが誰かの歌声を聴いてそんなふうに心動かされたこと、今までにあったか? 前に言ってただろ、『僕の不安は誰が追いやってくれるの?』って。これからはその新人隊員がおまえの不安をどうにかしてくれるんじゃないか? だったら、もう『お守り』なんて必要ないだろ」
リリーがじっとこちらを見つめる。言葉の真意を見極めるようなその視線に、ダンは思わず顔を背けた。
ふと、リリーが息を吐いた。
「無理だよ」
ダンは顔を上げた。そこではじめてリリーが小さく笑っていることに気づいた。
「新人隊員の子の歌声が凄いものなのは、確か。ただ、あの子の声は癒しとか安らぎとかいうのとは、ちょっと違うね。まあ、それが理由ってわけじゃなく、あの子には僕の不安を追いやることはできない。――なんでだかわかる?」
ダンは答えず、リリーを見つめ返した。
「僕がいる限り、あの子は〈鐘〉になれないから」
「…………」
「あのね、ダン。僕が、僕の歌声で不安を追いやれていないんだ。だったら、無理でしょう。他の歌声が僕の不安を追いやるというのは」
まるで雨が上から下に向かって降ることを教えるみたいに、リリーは言った。つまり、リリーが心惹かれた新人隊員の歌声は、言ってしまえばリリーには及ばないということだ。ダンは実際に新人隊員の詠唱を聴いたわけではない。が、リリーがそうと言うなら、そうなんだろう……。
ダンは息を吸った。吐き出すことができないまま、肺が軋んでいく。目の前にいるのは〈鐘〉だった。神の愛を一心に受け、それを持て余しながら、誰とも同じ場所では生きられない、この国の象徴……。
「でも、あの子の〈声〉は欲しいかな。手に入ったら、強力な『お守り』になりそう」
「……無理だろ。最近入隊したばかりならまだ十歳かそこらのはず。おまえの方がまず間違いなく先に死ぬ」
「十歳……?」
リリーは首をかしげた。「そっか。そうだったね。声果隊の宿舎にやって来るのは、十歳か」
「何か引っかかることでも?」
「新人隊員の子の声、そこまで幼くは聞こえなかったから」
「裏庭で歌っていたなら新人だろう。声果隊員がレッスン以外にそこら辺で勝手に詠唱することなんてない」
「そうだね。それがゆるされるなら、僕は歌いたい時に歌いたい場所で好きにさせてもらってる」
リリーが小さく肩をすくめる。「じゃあ、仕方ない。あの子の〈声〉を手に入れるには、あの子が運よく……いや、悪く、かな。僕より先に死ぬのを待つしかないね」
……簡単に言ってくれる。ダンは内心で舌打ちする。そうして幼い子どもの喉を掻っ捌くことになるのは、誰だと思ってる。
「……今日は、帰る」
「今来たばかりなのに?」
リリーが小首をかしげると、長い髪がさらりと揺れた。髪が伸びても、背が伸びても、歳をとっても、容姿が変わっても、リリーは十三歳の時のままだ。変わらないことの方がずっと多い。
ため息を一つ残して、ダンは部屋を出た。
塔を後にしたその足で大聖堂の方へと足を進める。広場を横切り、大聖堂に隣接して建つ執務館に向かう。
執務館では、その名の通り各組織の人間が職務にあたっている。簡素な外観のわりに中は迷路のように広く、いつ訪れても人影はまばらだ。意匠の凝った白亜の階段を上がり、ダンは資料室を目指す。
長い廊下の隅に位置する資料室は、古紙特有の乾いたにおいに満ちていた。整然と書物が並べられており、それらを傷ませないためだろう、窓には厚い幕が下げられている。
貯蔵されている書物のほとんどが声果隊に関するものだ。薄暗い中、足下に気をつけつつ、ダンは書架の間を進む。そうして目当てのもの――声果隊員の個人情報が記載されている記録簿を手に取った。
……本来なら、この部屋に入るためにはしかるべき手続きを踏まなければならない。「〈鐘〉の専属警吏」という肩書は、時々こちらが心配になるくらいあらゆる場所で融通が利く。
記録簿をめくる。一番最近書き込まれたであろうページ。新人の声果隊員――名前は、アルタ――リリーが聴いた歌声の主は彼で間違いないだろう。
(入隊時年齢……、……十五歳?)
珍しい。そんなことがあるのか。ダンは眉を顰めた。そして、次の項目に記されていた数字を見て、目を見開く。
(十四歳で声授――?)
声授は通常、三、四歳頃までに起こる。幼少期以降の声授は、記録に残っている限りでは逸話の司祭の他に例がなかったはず。それが十四歳で……? そんなことがあり得るのか。ダンは、他の項目にも目を走らせる。アルタの調査を担当した聖務官の記述、アルタ自身の証言、共におかしなところはない。声授した年齢以外、他の隊員との相違は見当たらない。
(どいうことだ……)
声果隊を管轄する聖務院では、おそらくこの事案はかなり取り沙汰されたはずだ。それでも評議会まで報告が上げられなかったのは、やはり調査内容に問題が見られなかったからだろう。
ダンは記録簿を閉じた。
アルタというこの新人隊員は、他とは違う、特別な〈声〉の持ち主なのだろうか。いや、そもそも〈声〉がすでに特別なものなのだ。これ以上何があるというのだろう。
声がよく、詠唱力が高い。そして〈声〉の使い方を理解している。……リリーはそう評していた。
――僕がいる限り、あの子は〈鐘〉にはなれない
本当に、そうだろうか。アルタの歌声を聴いていないダンにはわからない。けれど、聴いたとしても、わからないかもしれない。
……ダンはずっとわからない。リリーの苦悩も、〈声〉の価値も、その歌声の奇跡も、神の体温も。わからないのは、自分が選ばれなかった人間だからだと、結論している。持っていないものや感じていないものの重さを量ることはできない。選ばれた人間と分かり合えることは、きっと絶対にない。
(『アルタ』――。憶えておこう)
順当にいけば、この新人隊員がリリーより先に死ぬことはない。その間は、リリーが発作による突発的な行動をとることはないだろうし、自分も少なくともアルタの喉は掻っ捌かずに済む。
それがいいことなのか、悪いことなのか。やはりダンにはわからなかった。




