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声授  作者: 昏々
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⑤-1

 十三歳。ダンは、その歳にリリーと出逢った。ダンは警吏として務めるための勉強中で、リリーはすでに声果隊員として活動していた。

 リリーは中央に家を持つ上流階級の出身だった。貴族の流れを汲んでいるのと同時に、貿易か何かで成功を収めたらしく、当時はリリーの父親がその何代目として事業を担っていた。現在はリリーの兄たちがその事業を引き継いでいるようだが、リリーには歌うことがあってよかったと、ダンは思う。リリーが計略や商談に勤しんでいる姿など全く想像できないし、そもそも一般社会で生きていけるのかも疑問だ。

 ダンがリリーと出逢うことになったのは、そんなリリーの家での招宴に参加した時だった。

 ダンの家もそう小さい方ではなかったが、大広間に入って驚いた。格調高くも贅の限りを尽くしたような空間はゆうに百人は収容できそうな広さで、壁際のテーブルには豪華な料理がずらりと並び、それを前に談笑する人々は皆華やかな装いをしており、……どこを切り取っても目が潰れるようにきらびやかだった。

 招待客は、大半が王宮や中央教会に務める者とその家族だった。リリーの家にとってこの度の招宴は政治的なつながりを作るためのものだったのかもしれない。

 ダンは、軍事部の役職に就いていた父・ヒューゴと共に参加していた。

 この時のヒューゴは警吏として異例の速さで王宮勤めを果たしており、周囲からは羨望と嫉妬の入り混じる視線を向けられていた。また、すべての警吏は治安部の所属であるのだが、ヒューゴは王宮勤めになる前に軍事部に転属しており、王宮勤めのきっかけは警吏としての成果や功績であるにも関わらず、それを還元するのは別の部署という微妙な立場にあった。

 軍事部は、国の有事に備える部署だ。有事といってもいろいろあるが、ヒューゴが自然災害や大事故への支援のために転属したとは考え難い。ヒューゴの年齢と実績を鑑みれば、そこには明確な思想があると捉えられても仕方なかった。むしろ、そう捉える方が自然だった。自身は改革派である――転属は、その明言だ。

 ……大広間には、ダンと同年代の子どもの姿もちらほらとあった。彼らの親ももちろん王宮や中央教会に務めており、彼ら自身も数年経てば同じ職に就く可能性がある。そうなれば、お互い、長きに渡って顔を合わせることになる。その間には権力闘争や派閥争いが発生しないとも限らない。一種の「有事」だ。今のうちから備えて人脈を広げておいて損はない、と、それぞれが親に言われていそうだった。

 ダンは、子どもたちの輪に目を走らせた。この家の子息はいないようだった。その子が数年前に声果隊に入隊したことは知っていた。かなり評判のいい隊員であることも、間違いなく〈鐘〉になるだろうと囁かれていることも。

 ヒューゴと共に挨拶回りを済ませると、ダンは(気は進まないものの)子どもたちの輪に加わった。輪では、自己紹介がはじまっていた。それぞれが自分の名前と一緒に親の職業と役職を発表している。

 ダンの番が回ってきた。名乗った後に、ヒューゴの職……「軍事部」を口にすると、子どもたちの顔がにわかに曇った。……無理もない、と、ダンは内心で息を吐く。軍事部は現代でこそ規模も人数も治安部に圧倒されているものの、数世代前までは覇権を握っていたと言っていい。この国が安定的な平和を手に入れたことで日陰の存在となったが、改革の名の下、虎視眈々と復権を狙ってせっかくの平和を脅かそうとしている……というイメージを抱いている者は多い。

 だからと言って、ダンはそれを払拭しようなどとは思わない。そんな必要も義務もない。自己紹介を済ませると、輪の外に一歩下がった。

 きらびやかな空間を、ぼんやりと眺める。

 人々が談笑している隙間を縫うように給仕がトレーを片手に移動していた。トレーの上のグラスはすべて薄い緋色のドリンクだ。おそらくラウドベリーの果実酒だろう。まばゆい灯りを沈めて輝くそれはこの世の飲み物でないように美しく、魅惑的だ。……飲んでみたい、と思いながら、ダンは目で追いかける。やがて人々の向こうに給仕ごと見えなくなったその時、大広間の一角がわっと湧いた。

 誰かがやって来たらしい。あっという間に人だかりができる。

 ダンは背伸びをしてそちらを窺おうとするも、大人たちの背に阻まれてしまい、見えない。他の子どもたちも「何、何?」と囁き合っている。

 人だかりが塊となって広間の中程に移動してきた。ダンはもう一度、目一杯踵を持ち上げた。光沢のあるジャケットと華やかなドレスの壁の向こう、人の輪の中心に小さなシルエットが見えた。あ、と思ったその時、すぐ傍に立っていた子どもの一人が「わっ」と声を上げた。

 その子が声を上げていなかったら、自分が声を上げていたかもしれない。ダンは驚きを飲み込むのと同時に息を止めた。

 大人たちに囲まれているのは、教会の天井画から飛び出して来たかのような美少年だった。

 肩の少し上で切りそろえられたプラチナの髪が灯りを受けて輝いている。目も、鼻も、口も、身体の輪郭も、すべてが精巧につくられているかのように完成されていて、温度を感じさせない。大人たちが何か言うたび、困ったような微笑を浮かべる。ただ、その視線は床の一点に固定されて動かない。誰のことも見ていないし、話も聞いてない。全体的に現実味がない。

 大人たちが「ご子息……」「声果隊……」「〈鐘〉……」と口々に囁く。

(あれが、この家の――)

 名前を、リリーというらしい。十三歳。ダンと同い年らしいが、浮世離れした雰囲気のせいか年下にも年上にも見える。

 ダンの中で声果隊員は「我が強い」イメージがあった。しかし、リリーはそうは見えない。むしろ、困って微笑む様子は控えめな印象だ。〈声〉を使って大勢の前で詠唱しているとは思えない。

「せっかくだからみなさんに未来の〈鐘〉の歌声を聴いていただきましょうか」

 一節だけね、と、この家の主――リリーの父親が我が子の肩に手を置く。

 リリーは父親を見上げた。一瞬、その目が光ったように見えた。ダンが「おや?」と思う間もなく、リリーはまた床に視線を投げ出す。

 大広間を行き交っていた給仕や使用人たちが一斉に動き出した。室内のすべての窓を全開にしていく。

声果隊の詠唱は、〈声〉による反響を考慮して屋外のひらけた場所で行われる。いくら広い部屋とはいえここで歌って大丈夫なんだろうか……。ダンの心配と同じく、周囲からもそれを懸念する声と、「自分の子どもとはいえ声果隊員に気軽に歌わせるのはいかがなものか」という声がちらほらと聞こえる。

 ダンは、人々の隙間に見え隠れするリリーを見つめた。

 その時、ふと、リリーの方が目を上げた。視線がぶつかる。あ、とダンが思ったのと、リリーが軽く息を吸い込んだのは同時だった。

〈声〉が、響き渡った。

 それは歌声や音というよりあらゆる意味で衝撃に近かった。リリーを取り囲んでいた人々は不意打ちで殴られたかのように態勢を崩し、そのまま床に膝をついてしまう。ダンは鼓膜が切り裂かれるかと思うほどの振動に、思わず目をつむる。しかし、耳を塞ごうとは思わなかった。おそらくここにいるすべての人間がそうだろう。身体は衝撃に打ちのめされているのに、心が、その美しい歌声をもっともっとと求めて抗えない。

 不意に歌声が止む。一節だけ、の約束は守られた。広間に一瞬静けさが広がり、その後喧騒が戻っても尚、ダンの耳にはリリーの歌声がこびりついていた。……この衝撃的な安らぎを何と表現したらいいんだろう。ダンの脳裏に、先ほどの果実酒が過る。灯りを沈めて輝いていた美しく魅惑的な飲み物。想像するのは、この世のものではないような神秘的な甘さ。それがリリーの歌声と重なった。

(これが、〈声〉の歌声)

 声果隊員の詠唱はこれまで何度か聴いたことがあった。しかし、今、はじめて、神の愛によって授けられた〈声〉の持ち主を間近にしている畏れが鳥肌となって競り上がってきた。

 予期せずかしずかされた大人たちの中にも、文句を言う者はもちろんいない。……リリーがもう一度こちらを見ないかと、なぜかダンは思った。しかし、リリーの姿は再び大人たちの壁の向こうへ消えてしまう。

「すごかったね」「びっくりした」「あの子、新しい〈鐘〉になるかもしれないんだって」

 子どもたちが額を寄せ合い口々に言う。誰もが今し方の衝撃を言葉にしたそうで、でも適切なそれを見つけられずもどかしそうだった。そのうち、輪の中の一人が、

「話しかけてみようよ」

 と言い出した。「未来の〈鐘〉さまと友だちになれたらすごくない?」

 ……ダンは、一歩引いた。あの歌声を聴いた直後によくそんなおこがましいことが言えると呆れた。だいいち、〈鐘〉になるかもしれないような人間はおそらく友だちなど必要としていないだろう。近づくだけ煙たがられるのがおちだ。

 一歩、また一歩、そっと輪から遠ざかる。大人たちの陰に隠れるようにしながら扉の方へと向かう。大広間には引っ切り無しに人が出入りしているため、ダン一人が抜け出したところで誰も気づきはしない。

 長い廊下を進み、屋敷の外へ出た。

 夜風に当たると、思わずホッと息を吐いた。大広間の熱気も喧騒もここまでは届かない。

 しかし、いつまでも玄関先に突っ立っていては誰かに声をかけられるかもしれない。大広間に戻る気にはなれず、壁伝いに当てもなく暗がりへと歩き出す。屋敷の庭には、背の高い木々が鬱蒼と茂っていた。薄暗くよく見えないが、花もたくさん植えられているのかもしれない。甘い香りが漂っている。足元は芝生になっており、おかげで靴音が響くことはない。

 屋敷の裏手までやって来た時だった。すぐ近くから扉の開閉音が聞こえ、ダンは思わず足を止めた。直後、ゴン、と何かが地面に落ちたような鈍い音がする。

(曲がり角の向こうに、誰かいる……)

 壁にピタリと身を寄せ、息を殺す。屋敷の人間だろうか。勝手にこんなところまで入り込んだのがバレたらまずいかもしれない。ゆっくりと一歩、また一歩後退する。そうして踵を返して駆け出そうとしたその時、曲がり角の向こうからうめき声のようなものが聞こえた。

 ……ダンは迷った末、壁の向こうをそっと覗いた。

 芝生の上に誰かが蹲っていた。すぐそこの裏口の扉の上の灯りが、プラチナの髪をぼんやりと照らしていた。丸まった華奢な背中が小さく震えているのがわかる。

(さっきの……!)

 リリーだ。そう気づいた時、ダンは、花の香りとは違う重く甘ったるいにおいに気づいた。なんだ……、と周囲に目を走らせると、リリーの傍らに一本の瓶が転がっていた。恐る恐る近づき、ラベルを確認する。暗がりの中、ラウドベリーの果実酒を示す文字がうっすらと読み取れた。

(まさか、これを飲んだのか……?)

 瓶を持ち上げて振ってみる。ほとんど空だ。ただ、これだけにおいが立ち込めているということはそれなりの量が地面に零れている可能性がある。リリーが全部飲み干したわけではないだろう。

「おいっ、大丈夫か」

 リリーが呻く。呻きながら、嘔吐する。

「おい……」

 早いところ水を飲ませた方がいいかもしれない。そう焦って考える一方で、こんなところを誰かに見られたら大事になるんじゃないか、そもそもこのご子息はなぜこんなことになっているのか、と、冷静に頭を回す。

「きもちわるい……」

 肩を震わせながら、リリーが呟く。先ほどの歌声が嘘のようにか細い声だった。

「これを飲んだのか? なんで飲んだ? 間違えたのか?」

「…………」

「とりあえず誰か呼んでくるから待ってろ」

 ダンは裏口の扉を振り返る。が、そこから入るのは躊躇われ、表玄関へ向かうことにする。リリーに背中を向けたその時、後ろからシャツの裾を引っ張られた。その強い力に思わずたたらを踏む。

「いい……、いいから……」

「よくないだろ。このままじゃ最悪死ぬぞ」

「それでいい……」

「はあ? 死んでもいいのかよ」

 こくん、と、リリーがうなずく。

 ダンは酒瓶に目をやった。まさか死ぬつもりで果実酒を一気に飲み干そうとしたのだろうか。でも、なぜ……。人々の中心で詠唱していた姿が頭を過る。生きている意味こそあれ、死ぬ理由なんてどこにもないように見えた。

「おまえが生きるも死ぬも勝手だけど……俺は、よくない。今ここで死なれたりしたら困る」

 死ぬことはないにしても、この状況でリリーに何かあった場合、ダンが何らかの事情を知っていると疑われることはまず間違いない。リリーはこの家の子どもで、声果隊員で、近いうちに〈鐘〉になるかもしれない人物だ。たとえリリー自身が選んだことだとしても、その身が危険に晒されれば、一緒にいたというだけでダンが理不尽に責めを負わされるだろうことは容易に想像がついた。

 そうなったら面倒だろ、と言いかけて、今まさに追い詰められている様子の相手にその言い方はまずいだろうか……と思い直す。

「誰だって、嫌だろ。目の前で人に死なれたりしたら」

 ……言った後で、「面倒」と言い放つのと大差なかったかもしれない、と思う。でも、本音ではある。リリーとは何の関係性もないけれど、彼が特別な人物であることを差し引いても、自分と同い年の子どもが目の前で死んでしまったりしたらその先一生悪夢にうなされそうだ。

 リリーが顔を上げる。目が虚ろだ。うなだれるように顔を伏せると、また吐いた。弱々しく腕を持ち上げ、裏口の扉を指す。

「……そこから、入って……。倉庫になってるから……。水、……あると思う」

 どうやら死ぬのは延期になったらしい。ダンは一先ずホッとし、言われた通り倉庫へ水の入った瓶を取に行く。

 水で口をすすがせ、飲ませる。すると人心地ついたのか、リリーの顔色がほんの少しだけよくなった。

 ダンは、リリーのとなりに腰を下ろした。

「こんなことしてるの、バレたらまずいんじゃないか?」

「……うん……」

「いつもこんなことしてるのか?」

「いつもは、宿舎にいるから……」

 声果隊の宿舎のことだろう。確かに、あそこで自殺未遂などしたら大騒ぎになる。

 なんで死のうなんて思ったんだ? と純粋な疑問を口にしかけて、思い留まる。その答えを聞いたところで受け止められる気はしない。それ以前に、よく知りもしない他人の事情に首を突っ込みたくなかった。

 しかし、かといって、世間話をする雰囲気でもない。さっさと立ち去ろうにも、自分がいなくなった後でまたおかしな気を起こされたら……と思うと、下手に動けない。どうしたものかとダンがぼんやり考えていると、

「……なんでこんなことをしたのか、訊かないの?」

 リリーが言った。両脚を抱え、膝に額を乗せているため、表情は窺えない。

「聞いたところでどうすることもできないから聞きたくはないけど、まあ、話したいなら話せばいい」

 リリーが大きく深呼吸した。少し間を置いて、

「……こわいから」と言った。

「こわい? 何が」

「祝福されなくなることが、こわい」

「祝福?」

 ダンは首をかしげた。

「ちいさい頃から、歌ってるとね、わかるんだ。人だけじゃなくて、風とか、花とか、鳥とか虫とか、空気とか……いろんなものがこの〈声〉を祝福してくれてるのが、わかる。だからね、生きてるんだって思う。祝福されて、生きてる。……でも……、いつかは歌えなくなる時が、くるでしょう? 今みたいにずっと変わらないのは、無理でしょう? そうしたら、どうなるの? きっと祝福されなくなってしまう。そんなの、嫌だ。耐えられない。絶対に、嫌。だから、」

「だから、その前に死のうと思ったってことか……?」

「うん、そう」

 ダンは絶句した。なんて短絡的で……なんて傲慢な奴なんだろう。リリーの言い分は、「万物から祝福を受けなければ生きている意味がない」と言っているのと同じことだ。いや、それ以前に、リリーは確信している。自分の〈声〉が万物から祝福されていることを。さも当然の事実として、疑っていない。

 ダンはしかし「何様のつもりだ」と一蹴することはできなかった。今さっきリリーの歌声を聴いたばかりだからだ。あの歌声は、確かに、人知を超えて祝福されて然るべきものだった。

(あぁ、こいつは、人間じゃないのかもしれない)

 ふと、そんな考えが過る。この美しく繊細で傲慢な美少年は、神の愛を一心に受けた人ではない何かなのかもしれない。リリーと友だちになろうとしていた子どもたちの顔が浮かぶ。彼らは、リリーがこういう存在だと知って尚、友だちになりたいと思うだろうか。

 リリーがぐずっと鼻を啜る。吐き気が治まったと思ったら、今度は涙を垂れ流しはじめる。

「…………」

 ダンは、思う。リリーの言い分だと、自分たちはどうなるのだろう。大概の人間は〈声〉を持っていない……神から愛を授かっていない。祝福以前の有様だ。リリーはその辺りをどう思っているのだろう。大概の人間のことを「生きている意味がない」と見なしているのだろうか。

 ダンが疑問をぶつけると、リリーは目を瞬いた。涙がぽろりと零れる。

「〈声〉を持っていない人たちのこと……? さあ……? そんなこと、考えたことなかった」

「……それってつまり『どうでもいい』ってこと?」

「まあ、うん……。他の人が〈声〉を持っていようがいまいが、僕には関係ないから」

「へえ。おまえに限らず、声果隊員は『自分たちは他の人間たちとは違う』って思ってるもんだと思ってた」

 言いながら、卑屈な言い方だな、と自分で思う。

「どういうこと?」

「俺の勝手なイメージ。声果隊員は神様から特別な〈声〉を授けられた。それってつまり神様に選ばれた人間ってことだろ? そういう奴らは選ばれなかった人間を想うことなんて、できるのか? 声果隊は、国民のために歌っているってことになってるが、俺には『国民に〈声〉を聴かせてやってる』っていうふうに見える。国民がいるから自分たちが存在できているんじゃなく、自分たちがいるから国民は存在できている――そう感じる」

 それがなんだという話ではあるし、歴史を振り返れば、逸話の司祭という〈声〉を授かった者の登場によってこの国は救われた。〈声〉が存在しなければ、今の自分たちが存在できていないのは事実だ。しかし、その逸話の司祭も〈声〉を授かる前はただの一国民に過ぎなかったはずで――

「難しいことを考えるね」

 リリーが言った。「なんか、えらいね」

 ダンは、リリーを振り返った。馬鹿にしてんのか、と文句を言おうとしたものの、リリーの横顔からは何の感情も読み取れず、揶揄われたわけではないことを察する。

「他の隊員のことはわからない。きみの言った通りかもしれないし、違うかもしれない。……ただ、僕は、祝福されたくて歌ってるだけ」

「それって、自分のために歌ってるってことか?」

「そうなるのかな」

 考えたことなかった、と、リリーはまた繰り返す。

 声果隊は「国と国民のために歌う」組織だったはず。そして、その象徴が〈鐘〉だ。ダンはリリーを見つめる。こいつはおそらく自分のことしか考えていない。そんな奴が〈鐘〉になろうとしている。風や花や鳥ではなく、国民がそう望んでいるから。その歌声を祝福しているから。

「でも、さっきのきみの話、ちょっと興味深いね。難しいことはわからないけど、僕は、自分の〈声〉があるからこそだと思う。自分の〈声〉のおかげであらゆるものが存在できているとはさすがに思わないけど、少なくとも僕自身はこの〈声〉に生かされてる。ただ息をしていても祝福されることはなかっただろうから」

 そうしているだけで他人を夢見心地にさせそうな顔をしながら、リリーは言った。

 けれど、リリーが繰り返している「祝福」とは、「悦び」とか「幸せ」とかそういうことじゃないのだろう。その愛を受け取ったものだけが知ることのできる、神様の体温みたいなものだ。

「やっぱり、だめだ……。こわい」

「なんでそうなるんだよ」

 蹲るリリーを横目に、ダンはため息を吐いた。「とりあえず今はちゃんと歌えてるなら、それでいいだろ。おまえが言ってることは極端だ。出かけた先で馬車に轢かれる可能性は誰にだってあるけど、轢かれるのがこわいからって家に籠る奴はいない。ましてや、轢かれる前に死んでしまおう、なんて思わない。同じことだよ」

「……僕は家に籠る」

「じゃあ歌わなければいい」

 言いながら、死ぬよりはマシだ、と思う。

「それはない」

 やけにきっぱりとした声でリリーが言った。しかし次の瞬間には、

「歌わないなんて……そんなの、もっと辛い……。ずっと辛いよ……」

 ぐずぐずと泣き出す。

「だったら、どうなったらいいんだよ」

「……死ぬまでこの声と〈声〉で歌えるっていう約束がほしい」

「それこそ神様にしか叶えられない」

 リリーがぎゅっと膝を抱える。

 ぼんやりと、ダンは考える。声はともかく、〈声〉が衰えるなんてことはあるのだろうか。そもそも〈声〉が衰えるとはどういう状態を指すのだろう。響きが小さくなる? 単純に出せなくなる? 衰えたとしたら、それは神にそっぽを向かれたことになるのか。

 ――ラウドベリーの実は腐らない

 ふと、ダンはそう思った。その時。隣に座っていたリリーの身体がぐらりと前に傾いた。

 リリーが地面に両手をつく。「うぅ、きもちわるい……」とうめき、えずく。

 ……これが未来の〈鐘〉の姿。大聖堂のバルコニーに立ち、国民の祈りを一心に受け、この国をあるべき姿に導く者。それが今、ダンの足元に蹲っている。土の混じった芝生に額をつけ、意味のわからない絶望に打ちひしがれ、神の愛を持て余して泣いている。人々をかしずかせる美しい声ではなく、消え入りそうな嗚咽を、その喉から溢れさせている。

(『人間』、だ)

 風が吹いた。甘く重たい香りがした。

 瞬間、ダンの胸の奥に何かが落ちた。それは明るくもあって暗くもあって、強くもあって弱くもあって、穏やかであって恐ろしくもある……なんだろう、わからない。でも、今、確かにそれを「授かった」感覚――

「早まるな」

 気づいた時には、ダンは、リリーの肩を掴んでいた。引き上げるように顔を上げさせ、その瞳を覗き込む。雲一つない夜明け前のような青い瞳。そこに自分が映る。現実味がなく浮世離れしたリリーに対する畏しさはどこかへ行ってしまっていた。

「つまり、おまえは〈声〉が衰えなければいいんだな?」

「〈声〉もそうだし、声そのものも……。みんな〈声〉ばかり注目するけど、そもそも声がよくても詠唱がうまくないと、〈声〉を持っててもそれは『歌うこと』として成立してるとは言えないから……」

 ダンは目を瞬く。確かに、人々は神の愛である〈声〉をありがたがる。しかし、その愛の前で平等であるかと問われれば、きっと違う。ダンはその無意識に今気づいた。声果隊員の評判の差は、その中から誰が〈鐘〉に選ばれるかは、〈声〉という前提の向こう、その人物自身の持って生まれた「声」や「詠唱力」に左右される。

「声そのものはどうにもできない。それはたぶん、歳をとるのを止めるのと同じようなことだからだ。でも、〈声〉の方はなんとかなるかもしれない」

 リリーが目を上げる。

「……なあ、知ってるか? 〈声〉は、器官なんだ」

「きかん?」

「〈声〉の持ち主には、他の人間にはない特殊な器官がある。身体の一部だから、他の器官と同じように衰えるかもしれない。そうなると、おまえの言う通り、それがそのまま〈声〉の衰えにつながる可能性はある」

「え……ちょっと待って。待ってよ。〈声〉って、器官って、〈声〉は心臓とか肺とかと一緒ってことなの?」

 ダンはうなずく。自分の喉仏のあたりを指し、「ここにある」と答えた。

「でも、〈声〉って……、」

 リリーの瞳が揺れる。

「〈声〉は、神様から授けられたものじゃないの……?」

 突拍子もない思考回路の持ち主ではあるが、頭の回転は悪くないらしい。

「心臓とかみたいに、生まれつきあるものなの?」

「それはわからない……らしい」

「きみは、なんでそんなこと知ってるの?」

 ダンは少し迷ってから、軍事部に所属している父親と要職者の会話を盗み聞きしたことを伝えた。それから、〈声〉がどんな見た目や手触りをしているのか、他の器官とどうつながっているのか、知っていることのすべてをリリーに教えた。

「〈声〉は、手に取ることができるんだ」

「手に……」

「で、今の〈声〉で歌い続ける方法だが……。移植って、あるだろ? 人から臓器を取り出して、他の人へ移す、あれ。〈声〉も臓器の一つなら、同じようにできるんじゃないか? この国ではまだ臓器移植自体ほとんど例がないけど、将来、それこそおまえの〈声〉が衰えるかもしれない頃には、今よりずっと簡単に移植ができるようになってるかもしれない」

 ……名案のように語りながら、ダンはこれが気休めでしかないことを理解していた。たとえ〈声〉が移植できたとして、医療が進んだとして、〈声〉を移植する未来などまず訪れないだろう。この国の人間にとって、〈声〉は、神様からの授かりものでなくてはならない。神の愛を切ったり縫ったりするのはもちろん、人間の肉体と同じくやがて腐って燃えるものであっていいはずがない。

 リリーは何か考えるように目を伏せた。まつ毛が目元に影を作り、震えている。

「――お守り、だね」

 リリーの声に、ダンは振り返る。

「できれば自分の〈声〉がいいけど……、たぶん、〈声〉にはそこまで差がないと思う。心臓とかと同じで、役割はある程度決まってる。だから、たとえ自分の〈声〉が衰えても、代わりになる〈声〉があると思ったら、少しは安心できる気がする。

 いっぱい集めておかないと。いっぱい、いっぱい、〈声〉を集めて瓶に詰めよう。〈声〉はラウドベリーに似てるんでしょ? だったら、とってもきれいなはず。不安でどうしようもなくなった時、僕はそれを眺めるよ」

 リリーがまっすぐにこちらを見た。

ダンはその目を見つめ返す。暗がりで輝く宝石みたいな瞳はラウドベリーと正反対の色をしている。この瞳が瓶詰めされた〈声〉を見つめる様は、この世の光景とは思えないくらい美しいだろう。

 ……その後、リリーは吐き気と頭痛にしばらくうなだれていたが、それがいくらか落ち着いたところで、屋敷に戻ることにした。

「……ねえ、名前。なんていうの?」

 玄関の前、リリーに訊ねられ、ダンは名乗った。

「さっきお父さんが軍事部の人だって言ってたよね? ダンも大人になったら王宮や中央教会で働くの?」

「まあ、いつかはそうなるかもしれない。けど、かなり先の話だろうな」

 ダンの家は警吏を多く輩出している家系であり、ダン自身も警吏になる予定だ。警吏は通常、地方の要所に駐在し、そこで長い年月をかけて経験と実績を積むのが定石となっている。その中で一握りが中央の要所に駐在となり、またその中の一握りだけが王宮や中央教会勤めとなる。ヒューゴのように階段を一段飛ばしで駆け上がるのは極めて稀だ。優秀、というだけでは説明できない「何か」を、ダンはその背中から感じ取っている。

「僕はたぶん、もうすぐ〈鐘〉になると思う」

 リリーが言った。明日の天気でも話すような、さらりとした口調だった。

「そうしたら、ダン、きみを呼んであげる。声果隊員にはね、遠征の時に警吏の人がついてくれることになってるんだ。〈鐘〉は滅多に遠征しないけど、警護は必要だろうから、それをダンに任せる」

 嫌だな、と、反射的に思った。〈鐘〉になるのを当然としているところも、呼んで「あげる」という言い方も、さっきまでの不安定さも、今の無防備さも、全部を「嫌だな」と思う。そして、何より、裏腹に悪い気はしていない自分自身に、ダンは一番うんざりする。

「来てくれるでしょ?」

望めば何でも叶うような美しい顔でリリーは小首を傾げる。

「……行けたら、行く」

 と、ダンは答えた。


 三年後。十六歳になったダンは、無事に警吏となった。

 その一年前、本人と周囲の予想通り、リリーは〈鐘〉になっていた。就任式は盛大な盛り上がりだった。新しい〈鐘〉として大聖堂のバルコニーに立つリリーの姿を見ることはなかったものの、ある程度の距離にあるダンの家にもその歌声はうっすらと届いた。

 ……警吏の着任式は、王宮の広間で執り行われた。

 王宮の広間、警吏の着任式が終わると、新人の警吏たちが次々と駐在先を言い渡されていく。この後すぐ、各々の駐在先へ出発となる。一人、また一人と、新人警吏が大扉の向こうへ去って行く。やがて広間に残ったのは、駐在先を言い渡す治安部長と、式に参加していた数人のベテラン警吏、そしてダンだけとなった。

 なぜ、自分だけ取り残されたのか……。姿勢を正したまま、ダンはそっと治安部長を窺う。

 治安部長はしばらく手元の(新人警吏たちの駐在先が書かれた)紙を見つめ、しきりに首をかしげていた。それからふと天井を見上げ、長く息を吐き、意を決したようにダンを見すえた。

「きみには――〈鐘〉の塔に行ってもらう」

(塔――?) 

 確かに、塔にも警吏は駐在している。しかし彼らは皆警吏としての経験も実績もあるベテランのはずだ。

「きみには、〈鐘〉の専属警吏を務めてもらう」

 瞬間、ダンは息を呑んだ。

「これは〈鐘〉さまの強いご要望による決定だ。心して、その責務を全うするように」

 淡々と告げているつもりの治安部長のその顔には「なぜこんな新人が……」というそれがはっきりと書かれていた。

 ……ダンの脳裏に三年前の夜が蘇る。

 屋敷の庭。果実酒を飲んで死のうとしていたリリー。ラウドベリーの重く甘いにおい。自分が何かを「授かった」感覚。教えてしまった〈声〉の秘密。気休めの提案。約束未満の未来について――

(あいつ! 本当に呼びやがった……)

「これから〈鐘〉さまの元へ向かう。ついてきなさい」

 大扉へと歩き出す治安部長の後を、ダンは追いかける。

 手脚が震え、背中に冷や汗が伝う。まさか……リリーはあの時の会話を全部憶えているのだろうか。ダンが国家機密レベルの〈声〉についての詳細を漏らし、半ば冗談とはいえとんでもない提案をしたことが知れたら、ダンだけではなく父親をはじめ家族や親族一同が危機に晒されかねない。ヒューゴに至っては役職を剥奪された上で何らかの罰が与えられてもおかしくない。

 あの夜、リリーが「呼んであげる」と言った時、ダンは悪い気がしなかった。しかし、今は、専属警吏など辞退してここから逃げたい。〈鐘〉の希望を新人警吏が突っ撥ねることなどできるはずがないとわかってはいるけれど。

 王宮から馬車で移動し、中央教会に到着する。大聖堂を横目に通り過ぎ、その裏手に回るように道を進む。……煉瓦造りの塔が見えてくる。この国で最も足を踏み入れることが難しい場所。おそらく前を歩く軍事部長も、父・ヒューゴも、そう何度も訪れたことはないだろう。そんな場所で、自分はこれから長きに渡って一日の大半を過ごすことになるかもしれない。

 最上階まで上がると、軍事部長は一つだけある扉の前で立ち止まった。制服の襟を正してから、ノックした。

「はい」

 中から、短い返事が聞こえた。ダンはそれだけで鳥肌が立った。あの夜の声だ。「呼んであげる」というそれが、耳に蘇る。

〈鐘〉の住まいである室内は広々としていた。けれど、壁や天井の装飾や調度品の類は簡素なもので統一されており、ダンはそれを少し意外に感じた。突き当りの窓が陽射しに白く光っていた。にもかかわらず、室内は仄暗く、窓の前のソファに座っているその人の輪郭を曖昧にしている。

(リリー……)

「失礼いたします、〈鐘〉さま」

 治安部長が深々と低頭した。ダンはハッとしてそれに倣う。

 治安部長が、〈鐘〉にダンを連れて来た旨を伝え、紹介する。その口調は淡々としているが、端々に緊張が滲んでいる。余計な感情を抱いてはならない、悟られてもならない、そんな畏れがひしひしと伝わってくる。

(これが、〈鐘〉を目の前にした時の正しい反応なのか――)

 まるで遠くの出来事を見守るような気持ちになり、ダンは現実感が湧かなかった。

「彼と、二人にしてもらっていいですか」

 静かに、リリーが言った。

 治安部長が顔を上げる。息を大きく吸い込む。おそらく「しかし」と異を唱えたかったのだろうが、結局何も言わず、再び頭を下げた。絞り出すように「失礼いたしました」と言って、そのまま退室した。

扉が、音もなく閉じられた。

 室内には、うっすらと重く甘い香りが漂っていた。本当に香りがしているのか、自分の錯覚なのか、ダンには自信がない。

「いつまでそうしてるの?」

 くすくすと、笑いを含んだ声。「顔を上げてよ」

〈鐘〉は、軽々しく目を合わせていい存在ではない。そんな礼節は、〈鐘〉に近づけるような人間だけがわきまえていればいいものだと思っていたし、だから自分には無縁だと思っていた。それが、今、……どうしたらいいかわからない。ゆっくりと、ダンは頭を持ち上げた。

 ゆらりと、ソファの上の人影が揺れる。

「ダン。久しぶりだね」

 リリーは立ち上がると、一歩、二歩とこちらへやって来る。やがて互いが手を伸ばせば触れられるだろうそこで、立ち止まった。髪と背が、三年前より伸びていた。相変わらず天井画から飛び出して来たような、現実感のない見た目をしていた。そして、声……。成長に伴う変化を経ても、唯一無二のその美しさは何も変わっていなかった。

「来てくれてありがとう。また会えて、うれしい」

「…………」

 ここにやって来るまでの間、ダンは、顔を合わせたらリリーに言ってやろうと思っていた。とんでもないことをしてくれたな、と。今すぐ専属警吏の任を解け、と。それから、あの夜の会話はすべて忘れろ、と。

 しかし、今、ダンは何も言えない。ただ立ち尽くしている。目の前のリリーは、あの時のリリーではない。自分にとっては雲の上の存在である治安部長が、リリーに対してああして畏れをなしていた。……はっきりしたのだ、立場が。それを今、突きつけられている。あの夜だって、声果隊員とただの子どもという違いはあったけれど、かろうじて同じ場所で話をしていた。できていた。しかし……リリーは〈鐘〉になった。ダンにとってリリーの言葉が絶対であるのに対して、リリーはそうじゃない。こちらの言葉も、存在そのものさえも、その気持ち一つでいかようにもできる。

「これを見て」

 おもむろにリリーはポケットに手を入れると、小さな瓶を取り出した。それは首の部分が細く、香水瓶のような形をしている。

「まだ空なんだ」

 瓶を振って、言う。「まだ一つも〈声〉を集められてない。この瓶を〈声〉でいっぱいにしたいと思ってるんだけど……」

 ――お守り、だね

 あの時の声が、表情が、蘇る。

「……それ、本気か……?」

 あぁ、言葉遣い……と思ったものの、国を揺るがしかねない会話をしながらそんな些末なことを気にしている自分が滑稽だった。

「本気だよ。もちろん」

「どうやって集めるつもりなんだ」

「声果隊員から貰うしかないよね?」

「だから、どうやって貰うつもりなんだ」

 ダンは小瓶に目をやる。「くれ、と言ってくれる隊員なんかいない。そもそも他の隊員は〈声〉が器官であることを知らない。知ったら尚更、それを他人にやることなんてできない」

「じゃあ、こういうのはどう?」

 ダンの反論など想定内であったのか、リリーは軽やかに切り返す。提案を持ちかけるその速さから、この三年間リリーが真剣に「どうやって〈声〉を集めるか」を計画していたことが窺え、ダンはゾッとした。

「〈声〉を、元・隊員から貰う。亡くなった元・隊員から、ね。声果隊員は脱退後もどこで何をしているか中央教会に定期的に報告する義務があるでしょう? だから、元・隊員が死亡すれば、家族や知人から必ず連絡が入る。その時を狙うんだ。中央教会が遺体を引き取る前に、元・隊員から〈声〉を取り出す」

「…………」

「〈声〉を取り出すのって相当難しいと思う。生きている隊員や元・隊員相手だと、たぶん殺さなくちゃいけない。それはさすがにまずいし、リスクが大きい。だから、遺体から……っていうのはいい案だと思うんだけど、どう?」

 ダンは大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。恐ろしさと怒りが同時に込み上げてくる。

「どうせ、自分でやるつもりなんか、ないんだろう……?」

 リリーが目を細める。口元に緩い微笑を浮かべる。

「ダン。僕の代わりに〈声〉を集めてほしい」

「……それは〈鐘〉の命令か?」

「違う。違うよ。命令じゃない。これは『お願い』。〈鐘〉じゃなくて、僕の頼み事。だから、きみは断ってくれてもいい。きみが断ったからって、僕は、きみから〈声〉について聞いたってことを口外したりしない」

 言いながら、リリーがふと窓を振り返った。

 その時、恐ろしい直感がダンを貫いた。「お願い」を断ったら、リリーは「わかった」とあっさり引き下がって、そのままそこの窓から飛び降りる気がする……。リリーはただ何の気なしに外の景色に目をやっただけかもしれない。しかし、そのくらいの気軽さで死を選んでしまう気がした。そして、「お願い」された内容よりも、そちらの方がずっと恐ろしく感じてしまったことこそ、ダンには恐ろしかった。

「〈鐘〉になっても、まだ不安なのか……?」

「〈鐘〉って、ただの名前だからね」

 自らが〈鐘〉になることを予想していた時と同じく、リリーはさらりと言ってのける。「〈声〉と声が変わらないことを、神様が約束してくれるわけじゃない」

「だったら、〈声〉を集めたって、変わらないんじゃないか?」

「そうだね。一つ集めて安心できても、また不安になって、もう一つ……って終わりがないのかも。でも、歌い続けるためには、そうやって不安をやり過ごしていくしかない」

「……この三年間、よく何も起こさなかったな」

 自殺未遂も、お守りに〈声〉を集めることも、リリーはしなかった。あの夜の神の愛を持て余して絶望していた姿と、相変わらずの不安定さを思うと、今こうしていろいろな意味で無事でいるのがとても幸運なことのような気がしてくる。

「褒めてくれるの?」

 リリーが小さく笑う。

「この三年間は忙しかったんだ。きみと出逢った後の一年は『お守り』のことを考えていて。その次の一年は、さっきはああ言ったけど、やっぱり〈鐘〉になったことがよかったんだと思う。大聖堂のバルコニーに立って、歌ってみて、驚いた。あそこは遮るものが何もないから、〈声〉がよく広がるんだ。そのおかげか、祝福をより強く感じられて、安心できた。で、この一年は、もうすぐきみに会えるのを楽しみに待っていた――」

 ダンは、穏やかな表情で語るリリーを見つめながら、思う。

(歌って、くれないだろうか……)

 リリーに歌ってほしい。そうして、体内で沸騰しているこの負の感情を追いやってほしい。

「……じゃあ僕の不安は誰が追いやってくれるの? って思うんだ」

「え、」

 思わず声が漏れた。心を読まれたのかと思い、一瞬焦る。

「声果隊は、〈声〉によって『悪いものを森の向こうへ遠ざける』。同時に、その〈声〉が、僕の不安の元凶でもある。じゃあ〈声〉がない方がいいのかと訊かれれば、絶対にそんなことはない。歌いたい。歌い続けたい。祝福は、この〈声〉と声でしか得られない。

 ……ダン、前に言ってたね。声果隊は『国民がいるから自分たちが存在できているんじゃなく、自分たちがいるから国民は存在できている』と思ってるんじゃないかって」

 ダンが声果隊に持つイメージを語った時のことだろう。

「僕はあの時、『少なくとも僕は、自分のために歌ってる』って答えたと思う。それは今も変わらない。でも、一つ、変わったことがある」

 リリーが目を上げる。

「これからの僕は、きみがいないと存在できない」

 ……それは、言い換えれば、ダンが「お願い」を断れば、リリーは「歌えなくなる」ということだ。リリーにとって歌えなくなることは、生きている理由の消失を意味する。

 ダンは奥歯を噛みしめた。これは、〈鐘〉の命令ではない。しかし、だからこそ、ダンにはその一言一言が重く圧しかかる。リリー自身が一人の人間として話をしているのだとしても、リリーは〈鐘〉だ。国民が自らの存在を預けるその歌声が今後も変わりなくこの国を導いてくれるかどうか――今、ダンの返事一つに懸かっている。

 ダンは震えながら拳を握った。すべては自分が蒔いた種だ。あの夜の自分の言葉が今になって自分の首を絞めている。

 ……リリーと友だちになろうとしていた子どもたちを「おこがましい」と感じていた。しかし、本当におこがましかったのは自分だ。リリーが地面に額をつけて蹲っていたあの時、将来の〈鐘〉を「ただの人間」だと思ってしまった。そして、自分がそんな相手に必要とされることを、躊躇わなかった。

 そっと、リリーを窺う。天使のような微笑みを浮かべて、返事を待っている。

 窓からの陽射しが細かい埃をきらめかせていた。室内に音はなく、重く甘い香りだけがうっすらと漂っている。時間が止まってしまったみたいに現実感がなかった。

〈鐘〉は、一年の大半をこの塔で過ごす。それが何年も、何十年も続く。気ままに外へ出ることも、気軽に誰かと会うことも、難しい。

(閉じこめられているのと、変わらない)

 それとも、リリーにとってはこれまでの生活の延長でしかないのだろうか。

 ダンは小さく息を吸った。広々とした窮屈な部屋。今日からリリーが〈鐘〉でなくなるその日まで、ここが自分の居場所になるのだと、悟った。


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