③
声果隊員としてはじめて人前に立った日のことを、アルタはきっと一生忘れない。特別なことは起きなかった。むしろ、その後遠征を重ねるごとに目の当たりにしていくことになる人々の熱狂と比較すると、はじめての遠征は記憶から零れ落ちてもいいくらい地味なものだった。
それでも、忘れられない。
その遠征は、入隊して一か月後のことだった。入隊直後には「レッスン」を受けることになっていたが、それはあくまで人前に立った時の基本的な振舞い方や作法を学ぶもので、歌い方そのものを指導するわけではなかった。〈声〉の使い方は、言葉で説明できるものではない。長年〈声〉を使って歌ってきた者であっても、〈声〉の巧みな出し方や「これ」という正解の使い方を知っているわけではないのだ。〈声〉を使いこなし、自分の歌声を引き上げられるかどうかは、あくまで本人次第だった。
東地域の外れにある小さな町が、アルタのはじめての遠征先だった。この町は逸話の司祭の出身地であり、隊員の最初の遠征先は例外なくここと決まっている。
隊員は、各地の教会に招かれる形でその地に赴くものの、教会で詠唱することはほとんどない。それは人間離れした〈声〉の響きのため、屋内で詠唱すると歌声が過度に反響してしまい、歌う方にも聴く方にも大きな負担がかかってしまう。詠唱は、広場や草原、牧草地、建物の屋上など、野外のひらけた場所で行われるのが基本となっている。
東の外れの町は、詠唱に最適な地だった。森が近く、見渡す限りまばゆい緑がどこまでも広がり、風が吹くと自然の香りが濃く立ち上る。なだらかな丘に点々と民家が建っており、人間よりも羊や山羊の方が多く歩いていた。
小ぶりな丘の上にアルタは立っていた。丘、と言っても、草地の一部が盛り上がっただけの舞台と呼ぶにはあまりに粗末なものだった。
数十メートル先では森の木々が鬱蒼と葉を重ねている。その幹の合間から時折鹿が顔を覗かせてはゆったりと去って行く。見上げると、青空が広がっていた。綿のような雲が浮いている。風の音が耳を掠める。鳥の細い鳴き声が尾を引くように遠ざかっていく。……逸話の司祭も、この風景の中で詠唱していたんだろうか。
詠唱の時間が近づくと一人、また一人、町人が姿を見せはじめた。そうして集まったのは、最終的に十数人。その少なさにアルタは驚いた。町の人口がそもそも少ないのもあるかもしれないが、いくら声果隊員であっても新人というのはあまり期待されていないのかもしれない。……〈声〉が神から授かったものであっても、それを扱うのは人だ。必然的にそこには技量の差が生まれる。だから人々はより良い〈声〉を求める。評判でしか、評判は呼べない。
アルタはぎゅっと手の平を握った。十数人の町人がこちらを見ていた。気候は穏やかなのに、祭服の下は汗をかいていた。緊張していた。心臓がおかしなリズムを刻んでいる。呼吸が浅くなる。自分がこんなふうになるとは思ってもみなかった。
大きく息を吸い、吐く。
ここまで来たのだから……。自分に言い聞かせる。
(歌うだけ、だ)
詠唱の前に口上は必要ない。もう一度だけ深呼吸し、アルタは顔を上げる。青空を挑むように睨んだ。
息を吸い込む。
一瞬、〈声〉が出なかったらどうしようかと不安が過る。しかし、次の瞬間には霧酸している。自分の〈声〉が、自分の気持ちさえも吹き飛ばすほどの響きで空気を震わせる。
(歌えてる……! 〈声〉で、歌ってるんだ!)
アルタは目の前の人々ではなく、森の向こうを目指して歌った。緊張していたからかもしれないし、「森の向こうに悪いものを遠ざける」という使命を無意識のうちに思い出していたのかもしれない。
〈声〉によって、歌声は響く。
〈声〉を手にしてから、こんなにひらけた場所で詠唱するのははじめてだった。空に、森に、空気に、どこまでも歌声が延びて広がっていく。果てが見えない。雲が揺れ、木々がざわめき、風が香る。あらゆる命がその呼吸を止めて耳を澄ませている。そんな大それた錯覚さえ起こす。
やがて詠唱は終わりを迎える。アルタにもゆっくりと現実が戻ってくる。胸の中では〈声〉を響かせた興奮と無事に歌い切った安堵が混ざり合い、心臓を高鳴らせていた。
ふと、視線を感じ、人々の方へ目をやる。町民たちは未だこちらを見上げていた。そのほとんどが呆然とした様子で立ち尽くし、口をあんぐりと開けている者もいる。
その様子をアルタは怪訝に思ったが、複数の目に見つめられているうち、詠唱直後の興奮と安堵が鎮まっていくのと入れ替わるように、追い詰められるような焦りが徐々に膨らみだした。
アルタは慣わし通り目礼し、丘を下りた。そう遠くない場所には、警護のための警吏が立っていた。そちらを目指して足早に歩く。人々の視線が追ってきているような気がした。詠唱の余韻を振り返ることもせず、アルタは逃げるようにその場を後にした。
詠唱の後は拍手や歓声が貰えるものだと思っていた。実際、アルタがこれまで詠唱を聴いたことのある隊員たちは皆そうだった。自分の〈声〉はやはり何か違和感があったのだろうか……。不安ではあったが、遠征を重ねるうち、あの町の人々の反応の意味をアルタは理解することになる。
(あぁ……やっぱり……)
自分は〈声〉を手に入れるべくして、手に入れたのだ。
はじめての遠征から一年ほどが経った、現在。国の主要都市の一つである、東地域のとある町に来ていた。中央地域の中心地を一回り小さくしたような町は、重厚な建築物が建ち並び、人も交通量も多く、活気がある。
今回アルタを招き、また詠唱の舞台ともなる教会は、中央教会の大聖堂にも引けを取らない存在感で町の中心に鎮座している。教会前には横幅のある階段が設けられており、その下は広場になっている。普段はマーケットや買い物客で賑わいをみせるが、今日はその比ではない数の人で溢れ返っていた。
人々の目当ては、もちろん、アルタの詠唱だ。
自分の歌声を求めてこれだけの数の人が一か所に集まる。アルタにはすでに見慣れた光景になっていたが、十数人の前で歌っていた時のことを思い出すと、たった一年で随分遠くまでやって来たような気がする。
聴衆の数が膨れ上がるにつれ、アルタは〈声〉が確かに自分のものになってくのを感じた。それは同時に自分という存在が確かになっていくことでもあった。ここにいていい。ここで歌っていていい。歌うべきなんだ、と、神様にゆるされた気持ちになる。
階段の一番上に、アルタは立つ。集まった人々に向けて片手を挙げる。歓声の波が吸い込まれるように引いていく。
空は、厚い雲に覆われていた。今にも雨が降り出しそうだ。雨が降っても、きっと、人々は帰らない。
時間になる。
アルタは息を吸い込む。〈声〉が出なかったら、という瞬間的な不安は今でも変わらない。
しかし、アルタはもう知っている。〈声〉はしっかりと根づいていることを。歌声を響き渡らせることを。
不安になってはいけない。迷ってもいけない。歌いはじめたら何も考えない。何も思わない。気持ちはきっと〈声〉に乗って伝わってしまう。聴く者の心に届くこの〈声〉は、歌う者の心まで暴いてしまう。誰にも知られたくないことを、誰かに知られてしまうかもしれない。
だから、歌う。一途に、歌う。
すべての悪いものが森の向こうへ遠ざかっていくように。歌うのだ。
ほとんどの教会では声果隊員と同行の警吏などが宿泊できる部屋を有していないため、遠征先では詠唱の舞台となる場所から近い宿に滞在することになる。
その夜。アルタは宿を抜け出し、町へ出た。
月明かりを頼りに夜道を歩く。最近になって昼間は温かい日が続いているものの、夜になるとまだ寒さがぶり返す。アルタは背中を丸め、外套を抱くように前を合わせた。
人前に立って歌った日は、寝つけないことが多い。自分の〈声〉が耳に残って神経が高ぶっているのか、集まった人の多さに遅れて恐怖が込み上げてくるのか、自分でもわからない。ただ、何かから逃げるように足を前に進める。できるだけ何も考えないようにする。
気づくと、今回の詠唱の舞台である教会前の広場まで来ていた。
夜の広場は、昼間の賑わいが幻だったかのように静かだ。点々と立つ街灯が、石畳の地面をひっそりと照らしている。詠唱の際は人々の足元に隠れて見えなかったそれは、扇状の美しい模様を描いていた。
アルタは空を見上げる。日中の厚い雲はそのまま、月明かりは見えない。雨が降り出しそうで、しかしまだ持ち堪えている。
……今回の遠征に、軍事部副長の姿はなかった。
遠征には、中央在駐の警吏が一人以上同行することになっている。彼らは、隊員の詠唱中、隊員と一定の距離を保ちつつ何かあればすぐ対処できる位置で待機する。副長は「警護」として同行しているわけではもちろんなかったが、だいたいが警吏たちと同じ場所で詠唱を聴いていた。
(だけど、今回は、姿がなかった)
副長も暇ではない。日程が合わなかっただけだろう。毎回決まって来ているわけではないのだから、気にする必要はない。けれど、アルタの胸には一抹の不安が過る。
(『新しい〈鐘〉』の件は、なくなった……?)
アルタは階段を上がる。最上段まで上り切ろうとして、しかしやめた。中程で腰を下ろす。眼下に目をやると、広場が薄闇に沈んで見えた。
自分は、〈鐘〉になるべきだ。
アルタはそう思っている。
声果隊に入隊する前は夢にも思っていなかったことだ。入隊してからだって、「欲しい」という気持ちだけで〈声〉を手にしてしまって、しばらくはただ「歌うこと」だけを考えていた。この〈声〉で歌い続けたいと、本当にそれだけだった。
未来がそうして変わってゆくのを感じながら、一方で、過去が忍び寄るようにゆっくりと浮かび上がってくる。
……ずっと〈声〉が欲しいと思っていた。
そして実際に〈声〉を目の前にした時、自分の中のそのあまりにも強い気持ちに突き動かされた。だから、〈声〉を手に入れた瞬間の手触りは、きっと一生忘れられない。
(〈声〉がなくても、歌うことはできた)
教会で、家族や友人の前で、一人で。
(でも、〈声〉がないと、駄目だった)
声授するのは、だいたいが四歳まで。そこを過ぎると、自分が神様の愛を授かれなかったことを受け入れなければならない。そうして愛を求める気持ちを徐々に手放していく必要があった。しかし、アルタにはそれができなかった。諦めきれない気持ちに重しをつけて心の奥深くに沈めるのがやっとだった。
そうやって日々をやり過ごしていたある日、前触れなくその重しは外されることになる。
十歳の時、アルタは〈鐘〉の詠唱を聴く機会に恵まれた。それはその年の声授祭でのことだった。声授祭では、〈鐘〉が全国各地を巡り、昼夜を問わず人々の前で詠唱する。その地域の一つにアルタの住む町の隣町が選ばれたのだ。
朝早く、アルタは叔母に手を引かれ、隣町へと足を運んだ。まだ夜も明けきらないうちから町は人で溢れ返り、雪がちらつく中でも誰一人来た道を引き返そうとする者はいない。
アルタたちが場所を取れたのも、〈鐘〉が詠唱する舞台となる広場からは遠く離れた住宅街の路地で、〈鐘〉の姿はもちろん見ることができなかった。それでも、〈鐘〉の歌声は確かに届いた。
この時、アルタは生まれてはじめて「美しさ」に触れた気がした。それはこの世の音の中で一番美しい歌声だった。脳が揺れ、心が震え、空気が止まる。体内の細胞の一つ一つが緩んでいく。怖いものが何もなくなる。この歌声があれば大丈夫……そう思わせる繊細な力強さがある。
夢みたいに甘く、寄り添いながらも遠い。
まるで、神様。神様はこんな声をしているのかもしれない……。
「今の〈鐘〉さまのおかげなのよ」
叔母が言った。「あなたがこうして生きているのは、この歌声のおかげなの」
アルタはうなずいた。そうなんだろう、と思った。きっとこの〈声〉が悪いものを遠ざけてくれた。だから自分はこうして生きている。生き残っている。〈鐘〉の歌声に包まれながら、慰められるようにアルタは確かにそう感じた。
しかし、成長するにつれアルタの中には疑問が生まれる。〈鐘〉が本当に悪いものを遠ざけてくれたというなら、なぜ、自分だけがこうして生きているのか。なぜ、両親は死んでしまったのか。
……信心と不信。今でも、〈鐘〉の詠唱を聴くたび、相反する気持ちに引き裂かれそうになる。そして、それらはアルタの中で長い年月をかけてぶつかっては溶け合い、〈声〉を手にした今、ようやく一つの形を成そうとしていた。
――〈鐘〉になる
アルタ自身が〈鐘〉になる。そうすれば答えの出ない問いに苛まれ続ける日々は終わる。〈鐘〉が、アルタが、絶対の「答え」になるのだから。
今の〈鐘〉の歌声を目の前にしてなお、自分が〈鐘〉になることを疑わないのは、神に抗うのと同義だ。しかし、アルタは他の隊員たちのように諦めたりはしない。〈鐘〉を引きずり下ろし、自分が〈鐘〉に就くつもりでいる。自分にはそれだけの力があると、信じている。
……寒さに、息が震える。広場の薄闇は先ほどから微動だにせず、町全体が息を潜めるように寝静まっている。
広場を見渡したその時、薄闇の隅で何かが動く気配がした。アルタは目を凝らす。……人、だ。誰かがこちらへ向かって歩いて来る。人影は迷いのない足取りで広場を突っ切り、階段を斜めに上がって来ると、アルタの目の前で足を止めた。
「こんなところにいたんですか。宿にお戻りください。風邪でもひいたら明後日からの遠征に支障をきたす」
低く落ち着きのあるその声は、それに、と続ける。「夜に一人で出歩いて、『悪魔』に狙われたりしたら大変だ」
からかいを含んだ声音だった。
アルタは顔を上げる。目の前に立っていたのは今回の遠征に同行している警吏――ダンだった。
「……すみません」
謝ったものの、立ち上がるつもりはない。寒さで体の芯が冷えてくるまで、ここにいるつもりだった。宿に帰ってもどうせ眠れない。
そんなアルタの心中を見透かしたのか、ダンは小さく息を吐くと、少し間を空けて石段に腰を下ろした。制服の懐に手を入れ、一瞬だけ動きを止め、手を戻す。……煙草を吸おうとして、やめたのかもしれない。
居心地の悪さを覚えつつ、アルタは横目にダンを窺う。
……年齢は、三十代前半くらいだろう。警吏らしいがっしりとした体格をしている。制服の上からでもわかる身体の厚みは、座っていても威圧感を与える。視線を投げ出しているその横顔は精悍だが、全体的にどことなくただれた雰囲気を漂わせており、世間話に興じるタイプには見えない。
アルタは思わずぎゅっと手の平を握る。
今回の遠征、軍事部副長は姿を見せなかった。しかし、代わりに(というわけではないだろうが)このダンが同行することになった。それはなぜか。アルタは気になっていた。
……ダンは、一般的な警吏ではない。その肩書きゆえ、声果隊員の遠征に同行するどころか、中央から出ることすら、まずない。
アルタの怪訝な視線に気づいているのかいないのか、ダンは視線を投げ出したまま口を開く。
「『悪魔』といえば、ここからそう遠くない町にも現れたみたいだな。『悪魔』は〈声〉に魅せられてやって来る。それはわかっているのに長年一向にその正体が掴めない。治安部も全力で捜査にあたってはいるが、きみたち隊員や〈声〉の持ち主にとっては何とも薄気味悪い事件だろう」
ダンは空を見上げ、息を吐く。話している内容とは裏腹に、この件についてあまり関心がなさそうな口ぶりだ。
「悪魔」事件については、アルタも声果隊内で何度も耳にしたことがある。この十数年の間に何件か、元・声果隊員の遺体の喉が掻っ切られるという事件が起きていた。喉以外で遺体に損壊された箇所はなく、強盗や放火など他の被害もない。犯人は未だ捕まっておらず、同一犯による犯行の見方が強いが、確固たる証拠もなく確実とは言えないらしい。警備の目をするりと掻い潜り、元・隊員の喉だけを狙う手口から、世間では「悪魔の犯行だ」と囁かれるようになった。美しい〈声〉に魅せられた悪魔が、その〈声〉を手に入れるため、魂が天に導かれていく隙をついて隊員の元へやって来るのだ――と。
……アルタは何と返していいかわからず、曖昧に相槌を打つ。
ちらっと、ダンがこちらを振り返る。唇の端を持ち上げ、ふっと、息を吐くように苦笑する。
「そう警戒しないでほしい。今回こうしてきみの遠征に同行しているのは、軍事部副長の命を受けて……とかじゃない。そもそもあの人と俺は所属している組織が違う。いくら親子といえど、軍事部副長の命令で治安部の警吏が動けば、いろいろ面倒なことが発生しかねない」
軍事部と治安部、どちらも「軍務院」という括りではあるが、両者の間には政治的に深い隔たりがあるらしい。
ただ、アルタが警戒しているとすれば、そこではない。確かに、遠征に同行する警吏がダンと知って、アルタは心底驚いた。それはもちろん、ダンが、軍事部副長の息子であることを知っていたからというのもあるが、一番はそこではない。……ダンは、中央教会内では有名人だ。父親が軍事部副長だからではない。アルタは自分の鼓動が早くなるのを感じる。ダンを有名にしているのは、ダン自身のその肩書きのためだ。
――〈鐘〉の専属警吏
それはダンだけが持っている肩書きだった。
専属警吏という役職は、今の〈鐘〉が作ったものらしい。つまり、〈鐘〉直々の使命を受けてダンは〈鐘〉の傍にいる。噂によると、二人は子どもの頃からの知り合いらしいが、人嫌いで有名な〈鐘〉が唯一望んで身近に置く人物が人々の注目を集めないはずがない。
では、一体なぜ、その専属警吏が自分の遠征に?
「〈鐘〉っていう名称は誰が考えたんだと思う?」
唐突に、ダンが言った。
〈鐘〉という単語が出たことにアルタはドキッとする。
「『〈鐘〉』……。国の偉い人が考えたんじゃないんですか……?」
名称については知らないが、〈鐘〉という存在が誕生したのは、政治的な狙いがきっかけだったとされている。〈鐘〉を実際に選任するのは君主をはじめとする要職者たちだが、その過程には民意の下地がある。実質、国民が〈鐘〉を選ぶ。神の愛を授かった者の中から、授かれなかった者たちが特別な一人を選んで崇める。当時は、もしかしたら現代でも、その構図がこの国を維持していく上で大事だったのだろう。
「誰が考えたとして、〈鐘〉っていうのは、なかなか言い得て妙だと思わないか? 鐘……人間じゃない方の、な。あれは『報せる』ためのものだ。時間や、神の声や、災害や、大事なことを報せるためにある。一方で、この国の〈鐘〉も、その〈声〉を響き渡らせることで俺たちに報せている。今日もこの国が変わらず平和であるっていうことを」
「そう、ですかね……」
アルタはぎこちなく首をかしげる。「〈鐘〉は、その〈声〉でこの国を『平和にしている』んじゃないんですか?」
ダンは短く息を吐くと、薄く笑った。アルタの言葉を笑ったというより、〈鐘〉という存在そのものを笑ったように見えた。
「声果隊員には〈鐘〉になりたい奴が多いだろう?」
「……そう、ですね。みんな口には出さないけど」
「きみは? 〈鐘〉になりたい?」
「はい」
「即答だな」
今度は声を出して笑った。「なぜ? 〈鐘〉になりたい理由は?」
「最初はもちろんそんなこと全然考えてなかったけど……、〈鐘〉になってやりたいことができたんです」
「やりたいこと?」
「『この国をあるべき姿に導くこと』」
ダンが怪訝そうな顔をする。
アルタの「やりたいこと」は声果隊の使命そのものではあるものの、それとは別に、その中身は違えど、この国の改革派が掲げるスローガンと同じだ。〈鐘〉になりたい理由を問われてわざわざ口にするには、いささか意味深だ。訝しまれても仕方ない。
しかし、ダンが深く追求してくることはなかった。正面に目を戻し、しばし黙る。それからふと、
「今回の遠征の同行は、俺が個人的に申し出たことなんだ」
「そうなんですか……?」
でも、なぜ。アルタは言外に訊ねる。
「軍事部副長がきみに目をつけている。もしかしたら新しい〈鐘〉になるかもしれない。だから〈鐘〉の専属警吏として一度きちんと詠唱を聴いてみたかった。……というのが、表向きの理由だ」
「本当は違う……?」
「ああ。〈鐘〉、だ。〈鐘〉が以前からきみのことを気にしていた。というより、気に入っている、きみの歌声を。それがまさか〈鐘〉の候補になるとは思わなかったがな。いや……あいつはその可能性を感じていたかもしれない」
……アルタは驚きのあまり言葉を失う。自分の心臓の音にかき消され、ダンの声がどんどん遠ざかっていく。
(〈鐘〉が、歌声を気に入っている……?)
そんなことがあり得るのか。……いや、気に入っている、というのは、聞き間違いかもしれない。もしかしたらダンの言い間違い、認識違いの場合もある。気に入っている、のではなく、気にしている。そうだとして、……なぜ。新しい〈鐘〉になるかもしれない、という噂が塔にまで届いてたのだろうか。それでわざわざ側近の警吏を遠征に同行させた……? しかし、それこそ、なぜ?
アルタの疑問を読んだかのように、ダンは軽く右手を上げて制止の意を示す。
「〈鐘〉がきみの歌声を聴いたのは、きみが入隊して間もない頃、中庭でレッスンを受けていた時だ。興奮してきみの歌声のことを話すあいつを見て、正直驚いた。あいつが他人の歌声に関心を示すなんてはじめてのことだったからな。その後のきみは知っての通り評判の隊員になって、今は新しい〈鐘〉の候補として名前が上がっている。……今回の同行は俺個人の申し出と言っただろう?それはそのままの意味で、〈鐘〉の指図を受けてのことじゃない。
俺も自分の立場はわかってる。きみからしたら、『副長の息子』『〈鐘〉の専属警吏』が遠征に同行するんだから、そこには何か意味があるんじゃないかと思って当然だ。が、申し訳ないが、実際には何もない」
評判の隊員の詠唱を間近で聴くための職権乱用だ、と、ダンは苦笑する。
……〈鐘〉に、歌声を知られていたとは思わなかった。アルタは入隊直後の頃を思い返す。あの時はまだ〈声〉の使い方もままならなかった。自分の〈声〉に圧倒されるばかりで、今のように巧く歌えていたとも言えない。〈鐘〉が聴いていたなら、一年前の実力では無理だとわかってはいるけれど、持てる力の全てを使って歌いたかった。その歌声を、聴いてもらいたかった。
アルタはうつむき、長く息を吐く。それから、冷たい夜風をゆっくりと吸い込む。身体の中が冷やされ、心臓の音が落ち着いてくる。
「……〈鐘〉さまをそんなふうに呼ぶ人、はじめて目の当たりにしました」
アルタが呟くと、ダンは「うん?」と眉を上げた。
「『あいつ』って」
「あぁ」と、ダンは苦笑を浮かべる。「長い付き合いだからな。知り合ったのは、あいつが〈鐘〉になる前だ」
「〈鐘〉さまって、どんな方なんですか……?」
訊いていいものか迷った末、アルタは訊いた。これを逃したら、神様としてではない〈鐘〉に触れられる機会はもう二度とこない気がした。
「そうだなぁ……」
ダンが空を仰ぐ。厚い雲が垂れ込めるそこに月を探していることが、なぜだかアルタにはなんとなくわかった。
月は見えない。うなだれるように視線を落とした後で、
「友だちになりたくないタイプだよ」
と、ダンは言った。




