②
がくん、と、舟を漕いだ反動でアルタは目を覚ました。二度、三度、まばたきをすると、現実が急に迫ってくるような圧迫感を覚えた。この天井のせいかもしれない。礼拝堂の天井は高さがあるものの、複雑かつ規則的に張り巡らされた太い梁と、厳かながらどこか大袈裟な装飾が、見る者に畏怖の念を抱かせる。人々の祈りを包み込むようにして逃がさないアーチ形の空間を眺めているうち、それが何かに似ている気がしてくる。なんだろう、としばし考えて、そうだ、鳥籠だ、と思い当たった。
説教台では、司祭の語りが続いていた。この国がいかにして数世代前の大戦を乗り切り、どのように神の愛を授かったかという歴史と、その中心にいた「逸話の司祭」について。折に触れてはもう何度も聞かされている話だ。ここに来てからはもちろん、この国の人間ならば物心ついた時から子守歌代わりのように耳にしている。だから、わざわざミサの時間を割いて長々と語る必要もないと思うけれど、飽きる程繰り返し話す。それだけ聞く価値があるのだろう。「逸話の司祭」と同じ〈声〉を持つ者たちにとっては、特に。
アルタは、説教台に立つ司祭を見つめた。この司祭もまた、以前は声果隊員として活動していた。〈声〉を持っていても、それはあくまで詠唱(歌う)時に現れるものだ。通常の発声は一般的なそれと変わらない。また、脱退したからといって〈声〉が失われることはないが、脱退後に元・隊員が人前で詠唱を行うことは原則禁止されているため、まずない。
司祭から周囲へと視線を移す。司祭の語りに真摯な姿勢で耳を傾けているように見える隊員たちは、ほとんどが十代半ばだ。最年長の隊員でも、二十代後半。入隊するまでアルタは知らなかったが、声果隊では、ある一定の年齢に達すると脱退するのが暗黙の了解になっている。なぜなのか、アルタはもちろん知らない。他の隊員たちも知らないのではないだろうか。しかし、逆らう者はいないらしい。声果隊発足時の隊員の条件は「〈声〉をもっていることが絶対であり、すべて」だったはずだが、月日の流れによるものなのか、それとも何か理由があるのか、実態は異なるようだった。
隊員は、中央教会の敷地内にある宿舎で生活している。例外はない。隊員のほとんどは三、四歳の頃に声授し、するとまず居住地域の最寄りの教会にその報告が上げられる。自ら報告する場合もあるし、噂を聞きつけて教会側が声授した者の元に出向く場合もある。教会はその後中央教会に報告を上げ、中央教会は調査のため聖務官を派遣する。結果、声授したことが認められると、その者が十歳になるのを待って、声果隊員として招集をかける。隊員は、そこから十数年活動を行い、様々な事情――家業を継ぐ、結婚、次の職に就く、など――により脱退する。脱退後、個人的に〈声〉を使った活動はできない。つまり、「歌うこと」だけで一生を終えることはないということだ。
一方で、脱退後も元・隊員は自身の居所を中央教会に定期連絡しなければならない。これには理由があり、死後、〈声〉の持ち主は中央教会が管理する墓地に埋葬されることが決まっているからだ。
……アルタは今年十六歳になった。入隊したのはまだ去年のこと。あと何年この〈声〉で歌うことができるだろう。考えたところで想像がつかない。不可能だとわかっていても永遠に歌い続けられる気もするし、そんなことはないはずと信じながらも明日〈声〉を失っている気もする。
礼拝堂の空気が肌を粟立たせる。アルタは目を伏せた。真っ白いローブの裾の下、空気をかき混ぜるように足首を動かす。小さな風が起きて、余計に堂内の冷たさを感じた。
司祭の声が止んだ。長い語りがようやく終わったらしい。アルタはうつむき、小さく息を吐く。
ミサを締めくくる応答が交わされる。周囲の空気がふっと緩んだ。歴史を語る声だけが響いていた堂内にさざなみのような喧騒が戻る。アルタは素早く立ち上がると、誰より先にその場を後にした。
十五歳。声果隊入隊時のアルタの年齢だ。それは前例のない遅さだった。
理由は、声授した時期にある。アルタが声授したのは入隊の一年前、十四歳の時だった。声授による〈声〉の発現は、通常、三、四歳頃までとされている。実際、声果隊発足時から調べがつく限りの声果隊員の〈声〉の発現を統計したところ、全員が幼少期に声授していた。例外は、「逸話の司祭」だけだ。ゆえに、アルタの「十四歳での声授」は異質さが際立ち、声果隊を管轄している中央教会内の聖務院で大きな話題……問題となった。
アルタの住む町の教会から報告を受けた聖務院は、直ちに聖務官を派遣。アルタの声授が真かどうか、調査が開始された。報告そのものを懐疑的に捉えていた聖務院だったが、アルタの歌声には確かに声授の最大にして唯一の特徴である「神の御業としか思えない響き」があった。……それでも、異例の遅さでの声授には疑問の声がついて回る。それはアルタが正式に声果隊員となり、一年が経った今も変わっていない。
一方で、声授について科学的な解明は何もされていない。声授は神の愛である、という前提があるためそもそも解明する必要がないのもあるが、声授の当事者である声果隊員たちでさえ、己の身に起きた以上のことは説明できない。
声授とは、神によって〈声〉を授かり、それはおよそ人間業とは思えない響きを持ち、歌う時のみ現れる。歌っている時は、声量の調節は利くものの、特徴的な響き自体を意図的に抑えることはできない。そして〈声〉は命尽きるまで消えることはない。……これが現在わかっている声授のすべてだ。
数世代前の調査で全国に散らばっていた〈声〉の持ち主たちがそうしていたように、声授した事実を隠すには「歌わない」以外にない。が、現代でそれを実行するのは難しい。この国には「歌うこと」によって救われた歴史がある。以来、それは人々の心と共に生活にも深く根を張った。ミサの前の詠唱はもちろん、雑談や昔話や祈りや挨拶や祝言のように日常のあらゆる場面で「歌うこと」はある。アルタの声授時期には疑問の声がついて回るものの、アルタが十四歳になるまで声授の事実を隠して生きることも、現実的に考えて不可能だった。
アルタ自身は、声果隊に入隊することについて特に不安はなかった。声授したのだから、歌う。それだけだった。ただ、寄宿生活に馴染めるかどうかは、正直自信がなかった。「十四歳で声授した」というだけでも悪目立ちするだろうし、おまけに人とうまくやるための愛想や愛嬌がない自覚もあった。入隊後、予想通りアルタは浮いた。そもそも周りは入隊時期は違えど幼い頃から共同生活している者同士なのだ。その中に突然飛び込んで瞬時に馴染める方がどうかしている。そうして浮いた状態のまま一年が経ち……今になってもまともに話をする隊員は一人もいない。
……いや、一人だけいた。
その隊員の顔を一瞬だけ思い浮かべながら、アルタは食堂の扉を押した。
食器の触れ合う音や人々の靴音が石造りの壁に反響する。食堂内、アルタは定位置である長机の端に腰を下ろした。朝食のトレイにはいつものメニュー(パン・スープ・木の実)が載っている。ここで食事するのは久しぶりなため、たとえ彩りも味気もない朝食であってもなんとなく懐かしさのようなものを感じてしまう。
パンを齧る。昨日まで、アルタは「遠征」していた。
声果隊の活動内容はただ一つ。逸話の司祭の使命を受け継ぎ、彼がそうしていたように求められる場所へ赴いて詠唱を行う。声果隊員が赴く地域は、聖務院が決定する。といっても、無作為に振り分けられるわけではなく、各地域の教会から「この隊員に来てほしい」という要望を受け、日程の調整をするのだ。ちなみに、声果「隊」という名称ではあるが、詠唱は基本一人で行う。複数人で詠唱すると、互いの〈声〉が反響し合ってしまい、歌う方にも聴く方にも負荷がかかってしまう。人々から求められ、現地へ赴き、詠唱し、求められる限りまた次の地域へ移動する……これを「遠征」と呼ぶ。
つまり、要望の多い隊員ほど中央教会で過ごす時間は短い。アルタはここ最近ずっと宿舎を空ける日々が続いていた。それだけアルタの〈声〉は求められているということだ。同じ〈声〉を持っていても、地の声音や歌声、詠唱力はもちろん一人一人違う。聴く方に「どうせ来てもらうのなら……」という心理が働くのは当然のことだった。
朝食のパンは相変わらずかたい。まずくもなく、おいしくもない。ごくん、と塊を呑み込んだその時、すぐ隣に気配を感じた。自分の朝食の横に同じメニューの載ったトレイが置かれる。顔を上げると、そこに立っていたのは案の定ユッシだった。
「どうして先に行っちゃうかなぁ」
ぼやきながらユッシは隣に腰を下ろした。
声果隊内で「浮いている」アルタが唯一話をする相手が、彼だった。話をする、と言っても、だいたいはユッシが一方的にしゃべっている。それでも、彼の持ち前の人懐こさがそうさせるのか鬱陶しさは感じず、むしろ明るい空気にあてられると気持ちがわずかに緩み、一瞬ここが声果隊の宿舎であることを忘れてしまう。
「アルタに訊こうと思ってたんだ」
ユッシが顔を覗き込んでくる。距離の近さと、つるんとした綺麗な瞳、触り心地が良さそうな茶色の髪が、人懐こい大型犬を想起させる。
「この間の〈鐘〉さまの定期詠唱の時間、どこにいたの? 遠征じゃなかったよね? まさか……聴いてなかったってことはないよね?!」
声が大きい。溌剌とした声音は声果隊員として特徴的ではあるけれど、繊細な会話をするには向いていない。
アルタは指先についたパン屑を皿の上に落としながら、口を開く。
「聴いてないってことはないよ。中央教会の敷地内にいて〈鐘〉さまの〈声〉が届かないってことはないんだから」
「そっか。それはそうだ」
軽く顎を引き、肩を竦める。「で、どこにいたの?」
「……礼拝堂」
「なんでわざわざ?」
「みんな中庭か裏庭で〈鐘〉さまの詠唱を聴くと思ったんだ。礼拝堂には人が来ないだろうと思ったから、そこで聴いてただけ」
「それって……」
ユッシは周囲に目を走らせると、声の調子を落とした。「『いろいろ』言われているのを気にして……?」
「『いろいろ』?」
アルタは顔を上げる。ユッシを振り返ったその視線が鋭くなってしまった自覚があった。
しかし、ユッシの方はそれに気づいていないのか、それとも気づかないフリをしているのか、
「『いろいろ』っていうか、例の噂の件だね。『アルタが新しい〈鐘〉になるんじゃないか』っていう、あれ」
直後、食堂内が静まり返った気がした。それはアルタの勘違いではなく、ユッシの声が届いた範囲では実際に音が消えた。そして、同時に、自分に対して複数の尖った感情と視線が向けられるのを感じた。
「……〈鐘〉さまが〈鐘〉でなくなるなんて、あり得ない」
アルタは緩く首を振る。本心だった。ただそれは、ユッシではなくこちらの会話に耳を澄ませている他の隊員たちに向けての言葉だった。
〈鐘〉。それはこの国の、神の愛の象徴。
声果隊員の中でもたった一人特別な存在として君臨するその人を、〈鐘〉と呼ぶ。〈声〉を持っていることや、それゆえの使命はアルタたち一般的な隊員と同じだけれど、存在は「神」に近い。〈鐘〉の歌声は崇拝の対象であり、たとえ君主や要職者であっても〈鐘〉に意見することは容易でない。いくら声果隊員が神に愛された特別な存在と位置づけられているとはいえ、文字通りその「一〈声〉」で国の在り方が変わりかねない力を持つのは、〈鐘〉だけだ。
〈鐘〉は一般的な声果隊員のように日常的に遠征することはなく、月に一度の「定期詠唱」と、十二月の「声授祭」での三日間だけ人前で詠唱する。定期詠唱の際は、中央教会の大聖堂のバルコニーに立ち、詰めかけた人々にその神の声としか思えない歌声を響かせる。〈鐘〉の歌声を聴くため、大聖堂前の広場はもちろん、この日は中央地域全体が人で溢れ返り、そして静まり返る。〈鐘〉の〈声〉だけが音になる。
アルタは、先日の定期詠唱を思い返す。
〈鐘〉の歌声は相変わらずどんな言葉を尽くしても足りないくらい美しかった。地の声音、表現力、詠唱力……すべてにおいて次元が違う。神が愛するに相応しく、神に愛されたからこそ、こうして大勢の人が〈鐘〉の歌声を聴けることを思うと、そこに神の意志を感じざるを得ない。
心が震える。奇跡が響く。憂いを忘れる。……アルタは〈鐘〉の歌声に感情を超えた神秘を垣間見る。
「確かに、〈鐘〉さまは特別だけど」
隣から歌うような声が聞こえた。「それはアルタだって一緒なんじゃない? 声の魅力、〈声〉の使い方、詠唱力……どれを取ってもいい意味で普通じゃない。〈鐘〉さまの超自然的な歌声とは全然タイプが違うけど、だからこそ『新しい〈鐘〉』になったら面白いんじゃないかって、僕は思うな」
アルタは、スープを口に運ぶユッシの横顔をじっと見つめた。ユッシと話していると、時々、もしかして……と思うことがある。もしかして、ユッシは、友好的なフリをして実は俺のことが大嫌いなんじゃないか? でなければこんな話を……他の隊員の腹の底を素手で引っ搔き回すような話を堂々とするはずがない。……アルタは小さく息を吐く。わかっている。ユッシはそんな嫌味な人間ではない。〈鐘〉に対して不敬になりかねない発言をしていることが、その証拠だ。神をも畏れないような人間は、隣人に些末な妬みなど抱かない。
結論、ユッシは変わり者なのだ。「いろいろ」な理由から浮いているアルタとこうして話をしている時点で、彼もまた(おそらく)いい意味で普通じゃない。声果隊員たちは皆少なからず、自分は神の愛を授かった人間だ、という自負と誇りを持っている。アルタはそこに馴染めず、そんな強烈な自意識のにおいを唯一漂わせていないのがユッシだった。ただ、ユッシは他の隊員ともそれなりにうまくやっているため、アルタがいつまでも浮いているのは、やはり単純に愛想の問題かもしれない。
パンをちぎって、スープに浸す。そうすると少しだけ食べやすくなる。
この時期の朝はまだ寒い。列柱の向こう、中庭から吹き込む風にアルタは身を縮こまらせながらローブの前を合わせる。
陽射しが薄く射している。空気の冷たさが教会内の雰囲気をより一層引き締める。隣でしゃべっているユッシの明るい声と、靴音だけが現実みたいだ。回廊の曲がり角は見えているけれど、歩いても歩いてもいつまでもたどり着けないような錯覚がふと過る。
アルタは顔を上げ、中庭の方へ目をやった。……そろそろ見えてくる頃だ。そう思うと同時に、豪奢な天井と太い柱に切り取られたそこに煉瓦造りの建物が遠く映り込んだ。円柱型の塔であるそれは、周囲の建物(大聖堂や、教会職員たちが仕事を行う執務館や、図書館など)と比べて、一見すると簡素に見える。が、もしかするとこの国で最も神聖な場所かもしれない。
あの塔には、〈鐘〉がいる。
身の回りの世話をする使用人たちと、警護を担当する数人の警吏と、暮らしているという。最上階が〈鐘〉の住まいだ。あの小さな窓の向こう、今この時もそこにいるのだろう。〈鐘〉が塔から出ることはほぼない。長年ここで生活している声果隊員たちであっても、中央教会の敷地内で〈鐘〉と出くわしたことはないらしい。ユッシも「定期詠唱の時以外では、遠くに姿を見かけたことすらないよ」と言っていた。……大聖堂のバルコニーに立つ〈鐘〉のシルエットを思い出す。浮かび上がるのはしかし神様のような歌声ばかりで、その「人」としての輪郭は陽射しの中で曖昧に溶けてしまう。
噂によると、〈鐘〉は相当な人嫌いらしい。塔内で共に生活している使用人や警吏たちとさえ、まともに口を利くことはないという。歴代の〈鐘〉の中には、その立場を踏まえて政治や外交問題に参加する者もいたそうだが、今の〈鐘〉にそうした積極性は窺えない。
――ただ、歌うため、生きている。
アルタは目を細め、塔を見上げる。今の〈鐘〉が、〈鐘〉に就任したのはアルタが生まれて間もない頃だ。声果隊員という枠組みで考えれば、暗黙の了解を破り、もう長いこと歌い続けていることになる。
(……いつまで歌い続けるんだろう)
そんなことを思った時だった。左肩に衝撃が走ったかと思うと、身体が前に傾く。咄嗟に床に手をつく。手の平に石のひんやりとしたかたさが伝わる。
「お声かけようとしたつもりだったんですが、少々力が強過ぎたみたいです。失礼いたしました、〈鐘〉サマ」
アルタが振り返ると、大柄な声果隊員がこちらを見下ろしていた。わかり易い嫌味をぶつけられたことに対して怒りを覚える前に、相手の名前を思い出そうとするが、思い出せない。というより、覚えようとしたことがなかったことに気づく。
「アルタ、大丈夫?」
ユッシに腕を引っ張ってもらい、アルタは立ち上がる。自身が小柄なせいもあって、目の前の隊員は見上げるほど大きい。殴り合いの喧嘩にでもなったらまず勝てないだろう。しかし、そんな理由で点火された苛立ちが鎮まるわけではない。
アルタは吐き捨てるように笑った。
「〈鐘〉の肩を叩く? よくそんな大それたことができる」
「その言い草……もう〈鐘〉になったつもりかよ」
「一般論として言ったまでだけど? というか、さっきからきみが何を言っているのかわからない。今ここに〈鐘〉さまはいない。〈鐘〉さまがいるのはあの塔の中だろう?」
隊員がふんと鼻を鳴らす。
「最近の教会内は『新しい〈鐘〉誕生か』っていう噂で持ち切りだ。十四歳で声授なんていううさん臭さを、一部の奴らが『逸話の司祭』に重ねてるんだろう。次期〈鐘〉サマは遠征にお忙しいようだから、噂を耳にする暇もないか」
あぁ、そうだね、おかげさまで少なくともきみよりは忙しいだろうね、と反射的に言いかけて、寸でのところで呑み込む。稚拙な嫌味を同じく稚拙な嫌味で返したって仕方ない。頭ではわかっている。でも、言い返してやりたくて喉の奥がムズムズする。
アルタは横目でユッシを見た。持ち前の人懐こさでこの場をどうにか穏便に治めてくれないだろうか。しかし、ユッシは何を思っているのかわからない飄々とした表情のまま、黙ってアルタと隊員の顔を見比べるばかりだ。
その間にも隊員の嫌味は続く。アルタが黙ったことをどう受け取ったのか、勢いづいたようだ。
呆れつつ、アルタはその性格上、相手を憐れんで終わるということができない。やられたらやり返さないと気が済まない。ただ、同時に、後先考えない無鉄砲者にもなれない。目の前の隊員に指摘されるまでもなく、ただでさえ自分が「いわくつき」であることは承知している。ここでつまらない問題を起こして余計な「噂」を増やしたくはない。
(それに、謹慎になんかなったら堪らない。明日からの遠征も取り消される)
そうしたら何のためにここにいるのかわからない。
感情と計算の狭間で揺れていると、
「軍事部副長だろ? おまえを〈鐘〉に推してるのは」
隊員が鼻を鳴らす。「軍事部っていったら他国との戦争を目論む改革派じゃないか。そんな組織の副長のお気に入りってことは、おまえの歌声は国民の戦意を煽るのにうってつけってことだろう? 『逸話の司祭』とは真逆だ。そんな奴が〈鐘〉になってみろ、戦争が始まって、この国はあっという間に崩壊するか、良くて大国の属国だろうな」
軍事部が聞いていたら怒りを買いかねない発言だ。事実ではあるが、彼は暗に「この国は弱い」と言っている。
「そんな単純な話かなぁ」
アルタと隊員は同時にそちらを振り返った。今まで静観していたユッシがのんびりとした声を上げた。
「軍事部副長の頭の中ってもっといろいろ蠢いてると思うけど。戦争したいーとか、そのために新たな〈鐘〉を誕生させるぞーとか、そんな短絡的じゃないでしょ。アルタを本気で〈鐘〉に推そうとしてるなら、そこには僕らなんかには想像できない複雑な思惑があるんじゃない? でも、そもそも、僕らが『噂』してるのって、そこじゃないよね? 政治とか思惑とかはどうだっていい。僕らの関心は、アルタが本当に新しい〈鐘〉になるのかどうか、だ。ちなみに、僕は、可能性は充分あると思ってる。あ、これはもちろん、今の〈鐘〉さまをどうこう言っているわけじゃないよ。むしろ、今の〈鐘〉さまとアルタの歌声に『近いもの』を感じるからこそ、そう思うんだ。声質は全然似てないし、その歌声によって聞く側に見せる景色も違うけど、脳とか心とか空気を揺さぶる威力っていうのかな、その凄まじさは共通してる」
きみも本当はそれを感じてるんじゃない? と、ユッシは隊員に向かって首をかしげてみせる。
隊員が、ユッシからアルタへ、そしてまたユッシへと目を移す。顔を伏せると、やれやれというふうに首を振り、大袈裟に息を吐いた。
「ユッシ。おまえは悔しくないのか?」
「悔しい? なにが?」
「俺たちは神の愛を授かったんだ。〈声〉を持つ者なら、誰だって、誰よりも神に愛されている証である〈鐘〉になりたい。おまえにだってそういう気持ちがあるだろう?」
アルタは思わず瞬く。意外に思った。誰だって〈鐘〉になりたい――声果隊員のほとんどがこの野心を秘めていることに、アルタはもちろん気づいていた。しかし、それをこうして実際に口にする隊員を見るのははじめてだった。
(まあ、口にすれば、今の〈鐘〉に対する不敬になりかねない)
でも、それだけではない。皆どこかで「わかって」いるし、「諦めて」いる。自分はきっと〈鐘〉にはなれない。なぜか。今の〈鐘〉が〈鐘〉であるからだ。……傲慢な野心はあるくせに、その中の誰も〈鐘〉の地位を「取って代わってやろう」とは思っていないことに、アルタは鼻白むが、一方で納得もしている。〈鐘〉の歌声を耳にしてなお、自らの方が〈鐘〉に相応しいと疑わない者がいるなら、それは神に対する抗いと捉えられても仕方ない。
「いや、なりたくないよ、〈鐘〉になんて」
ユッシが言った。「あ、ちなみにこれも〈鐘〉さまを貶めているわけではないからね、もちろん」
「嘘を吐くな」
「いや、ホントに。貶めるような意図は、」
「そっちじゃない」隊員が眉を寄せる。「〈鐘〉になりたくない奴がいるわけがない」
「だから、いるってば。ここに」
ユッシはちょっとムッとしながら、自らを指さす。「でも、考えてみてよ。〈鐘〉になったら大変だよ? 詠唱するのは月に一度の定期詠唱と声授祭の三日間だけになるから、そりゃ遠征で各地を飛び回るよりは楽かもしれないけど、自由はないよ? だって僕らと違って一定の年齢になったら『脱退します』ってわけにもいかないんだから。自分に取って代わる新しい〈鐘〉が現れるまでずー……っと歌い続けないといけない」
「歌い続けたらいいだろ」
「いやぁ、嫌だな、僕は。将来は薬師になって、実家の薬屋を継ぎたいと思ってるし。今だって本当は歌より薬師になるための勉強がしたいし。でも、〈声〉を授かったのは運命だし、声果隊に入るのを家族も喜んだから、あと数年はきちんと使命を全うするつもりでいる。それなのに……! 絶対ないってわかってはいるけど、〈鐘〉になんてなったら、僕の将来とか夢とかその瞬間に消えちゃうじゃないか……っ」
恐ろしすぎる……、と、ユッシはわざとらしく顔をしかめてみせる。それからふと真顔になって隊員を見つめると、
「あと、〈鐘〉になることと神様に愛されていることは、べつに関係ないんじゃないかな。〈鐘〉って、神様に一番愛されている人がなるわけじゃなくて、単純に一番詠唱力が優れてる……〈声〉を授かったに相応しい人がなるわけだし」
アルタは短く息を吸い込んだ。
(ユッシの奴、言ってしまった……!)
ユッシの言葉は、正論だった。〈鐘〉になるのは一番〈声〉を授かったに相応しい人物。皆その事実は理解しているが、とりわけ声果隊内では「神の愛」というオブラートに包んで慎重に取り扱っている。なぜなら、格好がつかないから。〈声〉という人間業とは思えない奇跡を授かりながら、その行き着く先が「一番になりたい」などという、極めて人間臭い欲求だなんて。
アルタは顔を伏せる。込み上げる笑いを堪える。こういうところが、自分がユッシと一緒にいて楽な理由だろうと思う。
本人に自覚があるのかは定かでないが、ユッシは「歌うこと」を万能だとは思っていない。この世には「歌うこと」では解決しないことが山ほどある。例えば病に罹った時、それを治すのは薬屋のような存在であって、〈声〉を持つ者ではない。そんな当たり前のことを、当たり前に思える。その感覚がとても心地よく、息がしやすい。
ただ、それにしても、だ。アルタは半目になってユッシを振り返る。「アルタは〈鐘〉になる可能性がある」と言っておきながら、自分は「〈鐘〉になんて絶対になりたくない」と断言する……。アルタはため息を吐いた。なんだかムキになっていたのが急に馬鹿らしくなってきた。それは嫌味を捲し立てていた隊員の方も同じらしく、ユッシから目を逸らすと、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
隊員が、こちらを横目で見る。アルタと目が合うと、眉根に皴を寄せ、心底忌々しそうな表情を作ってみせる。
「いろんな意味で目立つのは結構だが、『悪魔』に目をつけられないことを祈っておいてやるよ」
言いたいことを言って残し、隊員は回廊の先へと去って行く。
その姿が完全に消える前に、
「嫌なこと言うなぁ」
ユッシが大きめの声で言った。
アルタは曲がり角の向こうへ消える隊員の姿をじっと見つめる。……〈声〉を授かったなら、誰だって〈鐘〉になりたい。彼はそう言っていた。そしてそれは声果隊に所属するほとんどの者の――〈声〉を授かった者たちの剥き出しの本音だろう。
でも、と、アルタは思う。一番になりたい。その裏側にある、自らが〈鐘〉になった先に思い描く未来は、きっとそれを望む者の数だけあるのだろう、と。
「……かわいそうに」
アルタは呟く。「せっかく〈声〉を授かったのに。神様に選ばれたのに。人に選ばれないから〈鐘〉にはなれない、なんて」
〈鐘〉を選任するのは、人々の「声」だ。実際の決定権を持っているのは君主を筆頭とした要職者たちだが、そこには国民の「声」が大きく反映される。遠征先での評判や、人々の熱狂度、その時々の国の空気が、その〈声〉の持ち主を大聖堂のバルコニーまで連れて行く。
……今さっきの隊員の彼に言われるまでもなく、少し前から、アルタは自分の遠征先に軍事部副長が視察に来ていることに気づいていた。副長はただ詠唱を聴いているだけで、こちらに声をかけることはない。それでも、要職者の一人が隊員の遠征先を訪れているという事実こそが、大きな意味を持って噂となる。
軍事部は、今の〈鐘〉を支持していないと聞く。反対に、今の〈鐘〉を支持ているのは「保守派」とされる数世代前の大戦での国の決断を肯定的に捉えている者たちだ。軍事部はその決断に疑問を持ち、「改革派」として今後の国のあり方を模索している。双方が思い描いている「国のあるべき姿」がどんなものなのか、政治に疎いアルタにはわからない。興味もない。ただ、副長の存在を無視できるかと言ったら、それは難しい。
(〈鐘〉は、国を変える)
その歌声は人々の心を揺さぶり、国を動かす。逸話の司祭の登場がそうであったように、どんな歌声が響き渡るかによって、この国の未来はその音を変える。
塔を仰ぎ見る。
〈鐘〉は、どう思っているんだろう。この国のこと、未来のこと、自身の〈声〉の可能性のこと――
歴代の〈鐘〉の中でも最も神に近いとされる、今の〈鐘〉の歌声。文字通りその〈声〉一つでこの国も、そこで生きている自分の運命も、容易く決定づけられてしまうかもしれないことを想像すると、恐ろしいようで安心するようで、アルタは衝動的に大声を上げたくなる。
「『人に選ばれない』かぁ」
ユッシの声に、アルタはハッとして意識を引き戻した。
ユッシは腕を組んで、中庭の方に目をやっていた。薄い陽射しが芽吹いたばかりの緑を弱々しく温めている。風が吹く。頬をスッと切るように撫でながら、ローブの裾をそっと揺らしていく。
「アルタってあれだね、可愛らしい見た目に反して辛辣なこと言うよね」
首を振り、やれやれ、とでも言いたげにため息を吐く。そんなユッシに、アルタの方こそため息を吐きたくなる。誰とでもうまくやれる人懐こさを見せながら、その実誰より現実的に物事と距離を取っている。……神の愛を授かるような人間はやはり一癖あって当然なのかもしれない。
陽射しがわずかに色を濃くする。風が途切れる。アルタはもう一度だけ、塔を振り返った。それは変わらず静かにそこに佇んでいる。




