⑩
〈声〉が響いている。
控室に使うには広すぎる部屋だといつも思っていたが、今回ばかりはちょうどいいのかもしれない。
……〈鐘〉と新たな〈鐘〉の候補が大聖堂のバルコニーで同日に詠唱する。この報せは、ダンの予想通り瞬く間に国中を駆け巡り、明日どうなるかわからないような現状に不安や不満を抱いていた国民の関心を買った。この一大イベントを聴き逃したくないと考える者は多く、定期詠唱の一週間前には、中央教会の広場に人が集まりはじめた。広場は一般開放されているため人々が出入りすること自体に問題はないものの、教会の敷地内で連日野宿されては困る。そこで中央教会は、教会内の一部を開放し、集まった人々に食事や寝床を提供するという異例の対策を講じた。
――ダンは、目線の先の窓に目をやる。
壁を背にして立っているため、窓の向こうに見えるのはよく澄んだ青空だけだ。それでも、大聖堂前の広場が、その先の大通りが、中央地域全体が、人で埋め尽くされているのがはっきりとわかる。誰もが耳を澄まし、固唾を飲んで未来に想いを馳せている。
アルタの〈声〉が響いている。
その歌声に陰りはない。先日のあの状態から心を持ち直せるだろうかと、ダンは少なからず危惧していたが、どうやら杞憂に終わったらしい。
歌声は、爆発に近かった。音となって発せられるたび、聴く者の耳の中で、頭の中で、胸の中で、弾け飛ぶ。身体のあちこちが点火し、燃える。このエネルギーを抱えたままどこまでも駆け抜けて行きたくなるような、そんな高揚感に細胞が湧く。
この世のわずらわしさも、理不尽も、不条理も、今のアルタの〈声〉はすべてを物ともしない。抗い、貫き、ねじ伏せる。
ダンは長く息を吐く。呼吸に集中する。そうしていないと、歌声に身体が吹き飛ばされてしまいそうだった。
「――答えは出た?」
静かに落ちたその声にダンは目を上げた。
リリーは、窓横に置かれている椅子にかけていた。普段の祭服姿ではなく、〈鐘〉だけが着用する金糸の刺繍が施された祭服に身を包んでいる。窓からの陽射しに淡く輝く姿はやはり現実感が薄い。アルタの歌声が響き渡る中、リリーだけが切り取られた空間にいるみたいだった。
リリーにも、もちろんアルタの歌声は聞こえている。どう、感じているのだろう。ダンは先ほどからずっと気になっているが、リリーの表情からそれを読み取ることはできない。わざと耳を背けているようにも見えず、かといって聴き入っている感じでもない。ただただいつも通り自分の歌う時を待っているようで……
(どう、感じるんだ)
神に愛されなかったこの歌声を。
アルタの歌声の価値に誰より早く気づいたのは、おそらくリリーだ。あれからアルタは声果隊員として成長を遂げた。各地で詠唱し、新しい詠唱の形を作り、人々に「変わる」未来の景色を見せた。悪いものを追いやった後に残すのは癒しや安心ではなく、どこまでも突き進んでいけそうな高揚。それは生きるための確かな力になる。〈鐘〉とは、リリーとは、〈声〉を授かった者として正反対の存在となった。そんな新しい〈鐘〉になるかもしれないアルタのことを、今の〈鐘〉はどう感じているのか――
「ダン」
ダンはハッとして、瞬く。……アルタの歌声が響いている中では、どうしても意識がそちらへ引っ張られてしまう。
ダンは顔を伏せ、目を閉じた。
リリーとアルタ、どちらが〈鐘〉に相応しいのか。リリーはその答えを出せと言った。ダンの答えが、そのままこの国のあるべき姿になる、と。そんな馬鹿な話があるかと思いつつ、今日までずっと考えていた。そして、結局、今この時になってもまだ答えは出ていない。
(この国の置かれている状況を考えれば)
どちらが〈鐘〉になったところで衰退の未来は免れないだろう。どのように、どのくらいの速度で衰退していくのかに違いがあるだけで、結末に大差はない。アルタが目論んでいるような国が完全崩壊する未来はまずないが、参戦すれば属国化の可能性はあるし、参戦しなくともその場しのぎにしかならず、また再び同じ危機に直面すれば、今度こそ崩壊に近い形は免れないかもしれない。
(それとも、)
リリーやアルタは、その歌声によってこの国と国民に奇跡をもたらすのだろうか。一片の疑いもないような平和か、最初から何もなかったかのような消滅か。ダンには、しかし、どちらの未来も信じられない。
そう、信じられないのだ。ダンには見えない。この国の未来も、歌声の奇跡も、音の秘密も、神の愛も。見えないものは、感じられないものは、そこに「ない」のと同じだ。
(じゃあ「ある」のは、なんだ……?)
ダンの中に「ある」もの。胸の内を探ろうとして、ふと思い出すのは、リリーとはじめて話をしたあの夜のこと。本人にしか理解できない絶望に打ちひしがれ、神の愛を持て余し、ダンの足元に蹲って泣いていたリリーの姿。未来の〈鐘〉がただの人間でしかないことに気づいた時、ダンの中に降って湧いた「授かった」感覚。明るくて暗くて、強くて弱くて、穏やかで恐ろしくて、はっきりとした形を成さないその何かは、今でもダンの中に確かに「ある」。
「専属警吏としてじゃない、一国民としてじゃない、きみ個人の答えが――声が、聞きたい」
リリーの声が静かに胸に落ちる。
ダンが、ダンとして、見るもの。信じるもの。見たいもの、信じたいもの。感じたいもの。
リリーの気持ちも、アルタの激情も、逸話の司祭の苦悩も、この国のあるべき姿も、〈声〉の尊さも、ヒューゴの思惑も、政治も、人々の期待も、ダンにはあらゆることが曖昧だ。本当の意味で誰かを、何かを、理解できることなんてないのだろう。しかし。そうしてすべてを削ぎ落していった胸の奥に、たった一つ、それでも消えないものを見つける。十三歳、何かを授かったあの瞬間から変わらない、願い。
「生きていて、ほしい」
未来がどんなに明るくても、どれだけ暗くても、駄目なことがある。意味のないことが、ある。
「リリー。おまえが生きていてくれたら、どうにかなる気がする」
リリーは〈鐘〉でなくなったら、「歌うこと」ができなくなったら、おそらく死ぬ。そんな本来あってもなくてもいいようなものを生きる意味にしているなんて馬鹿げている、と、ダンはずっと思っている。引き換えにリリーのすべてが消えてしまうなど、本当に馬鹿げている、と。だから、リリーが「歌うこと」による祝福に囚われて死にそうになるたび、ダンは面倒で、怖くて、頭にきて、理解できなくて、やっぱり頭にきて、どうしても怖くて、さみしくて、……嫌だった。
それだけがずっと変わらない。変わりたいと思っているのに、変われない。呆れるくらいきっと変わらないままだろう。
不意に、アルタの歌声が止んだ。一瞬の静寂の後、人々の歓声が湧き上がる。詠唱が終わったのだ。……その歌声によって自分の本音は剥き出しにされてしまったのかもしれない。皮肉めいた結果に、ダンは苦笑した。
リリーが立ち上がる。人々の歓声は尾を引いてここまで届いているが、室内の空気は静まり返っている。
リリーがこちらへ近づいてくる。衣擦れの音がやけに響く。
「ダン。今まで、ありがとう」
ダンの目の前で足を止め、言った。
「もう〈声〉は集めなくていい。お守りはいらない」
ダンはドキリとする。自分の「答え」は偽らざる本音だったが、だからこそそれがリリーにどう作用するかまでは考えていなかった。もう〈声〉を集めなくていいというのは、〈鐘〉であることを諦めたのか? 「歌うこと」――生きることそのものを手放すつもりか? 一抹の不安が過る。
リリーがすっと腕を持ち上げた。薄い骨ばった手がダンの首の下に置かれる。中指の先が、喉仏に触れる。
「きみの声はラウドベリーの味がする」
「…………」
「重くて、甘い」
だから、他の〈声〉はもう必要ない――。
腕を下ろし、リリーは小さく息を吐いた。ダンのすぐ横、扉を見上げる。一歩前に進み出ると、把手に手を添え、ゆっくりと押す。
ダンは慌てて扉を押さえた。
廊下には、警護の警吏や保守派の要職者たちの姿があった。祭服の金糸を輝かせながらリリーが悠然と歩き出すと、誰もが頭を下げて道をあける。
〈鐘〉が、詠唱へ向かう。
その先にある未来まで、ダンは傍にいる必要がある。




