⑨-4
嗚咽がダンの耳を打つ。
逸話の司祭の遺書を読み終え、自分の過去について途切れ途切れに語ったアルタは、今、床の上で背中を丸めて泣きじゃくっている。錯乱状態のようになり、椅子から転がり落ちたのだ。必死に酸素を求めて震えるその小さな背中を、ダンは言葉を発せないまま見つめていた。
「オットーは、言ったんだ……」
くぐもった声が言う。「『〈声〉を呑んだから声授した』って」
「それは……」
ダンは短く息を吸った。「おそらく、彼の勘違いだ。たまたまタイミングが重なっただけだったんだろう。五歳で声授したとしても、珍しくはあるが、特別遅いわけじゃない。現に、そういう声果隊員は他にもいる」
「…………」
「逸話の司祭の遺書に書かれていることは、事実だろう。本人が書いたものだという確証があるから、司祭の指示に従い、国を上げて彼の罪を隠してきた。だとすると、だ。死んで時間が経った人間から〈声〉を取り出して食べても、食べた人間が声授することはない。声授するためには、おそらく、臓器として新鮮な〈声〉を食べないとならない」
ダンは息を吐く。震えているのが自分でもわかる。
「生きてたんだ、オットーは」
「……違う、……」
「生きてたんだよ、アルタ」
現場の客間にあった柱時計は破壊され、止まっていた。時刻は二十一時四十一分だった。被害者たちの死亡推定時刻はこれより前とされている。アルタが家を出たのは、二十二時頃。犯人たちが現場を去ったのとちょうど同時刻だ。オットーが他の被害者同様二十一時四十一分より前に死亡していたなら、アルタが走って向かったことを考慮しても、死亡から十分程度は経過していることになる。
〈声〉の新鮮さがどの程度の時間内を指すのかはわからない。ただ、逸話の司祭は、彼の弟がまだ息のあるうちに手をかけ、その〈声〉を食べたことで声授している。「臓器として新鮮な〈声〉を食べたことによる声授」は確実だ。何より……ダンは、わかっていた。アルタは、オットーの腹部に刺さっていたナイフを抜いた時血が溢れたと言った。もしも、その時点で心停止から時間が経っていたなら、心臓が血液を送り出すことがなくなっているため血が溢れることはない。ダンはこれまで「悪魔」として元・隊員の遺体の喉を裂いてきた。だから、確信をもって言える。オットーは死んでいなかった。そして、アルタが声授しているというのが、その何よりの証拠だ。
(助けを呼んでいれば一命は取り留めたかもしれない)
床の上、アルタは首を絞めるように自分の喉を押さえている。そこにある〈声〉は、アルタ自身のものでも、母親のものでもない。オットーの〈声〉だ。
ダンは立ち上がる。アルタの前に膝をつく。
ダンもまた、神の愛を授かれなかった一人だ。しかし、それについて逸話の司祭やアルタのように疑問を抱くことはない。わざわざ諦めることをしなくても、そういうものだ、と思っていた。そうして生きてこられたのは、ダンが、神に――この世の音に、無頓着だったからだろうか。
「アルタ」
わななくその肩にそっと手を伸ばす。
「きみは、本当はどうして〈鐘〉になりたいんだ?」
以前ヒューゴに問われた時、アルタは「この国をあるべき姿に導くため」と答えていた。しかし、それはきっと、その言葉からヒューゴやダンが想像する未来とは大きく異なるだろう。
アルタが顔を上げる。こちらを睥睨するよなその瞳には、激情が揺れていた。
「〈鐘〉になって――この国を、壊したい」
ダンは静かに息を呑む。
「新しい〈鐘〉だなんて、副長に利用されてるだけだってことは、わかってる。でも、それでいい。それでもいい。この歌声が国民を煽り、戦争へと導くなら、それこそがいいと思ってる。純粋な力の戦いになれば、この国は絶対に負ける。人がたくさん死んで、いろんな物が壊れて、もう元通りにはならない。そうして国民はようやく気づく。〈声〉がまやかしだってこと。悪いものを遠ざけるなんて幻想だってこと。これがあれば大丈夫なんて、そんなものは存在しないこと。気づいた時には、気づいてしまったからこそ、手遅れだ。〈声〉なんて、神様の愛なんて、何の役にも立たない。国民の目が覚めた時、この国は終わる。〈鐘〉も、声果隊も、すべて終わる。全部、……全部……、そうやってなくなればいいんだ!」
アルタの怒声が、ダンの肌を刺した。
(この子は――)
誰よりも歌うことを嫌悪しながら、誰よりも歌うことに純粋だ。アルタにとって「歌うこと」は残酷でかけがえがない。生きていく意味でありながら、死んでいく理由にもなる。相反する感情にもうずっと身を裂かれてきたのだろう。
(どうして……神は、彼らに〈声〉を授けなかったのだろう)
その正体が神の気まぐれであっても、ラウドベリーによる身体的な作用であっても、何でもいい。アルタも、逸話の司祭も、国のあり方や人の心を変えるだけの歌声を持って生まれていた。ただ〈声〉がなかっただけだ。いや、この世界に〈声〉があったから、彼らは「歌うこと」そのものに対する気持ちを歪めてしまった。
ダンはゆっくりと瞬く。アルタに伝えなければならないことは、まだあった。
「この件は俺の胸にだけ留めておくと言ったが、俺が報告を上げるまでもなく、副長はきみがやったことを察していた。が、あの人もこの件を公にすることはない。すべてを承知した上で、きみを新しい〈鐘〉に推すつもりだ」
「そんなの、ゆるされるわけない……っ」
「それを言ったら、逸話の司祭がそもそもゆるされざる存在であり、司祭の罪を隠匿して歴史を書き換えたこの国のあり方は、あまりに罪深い。と、副長は考えているんだろう」
ダンは息を吐く。「きみが言った通り、副長はきみを利用するつもりだ。純粋に新しい〈鐘〉に推しているわけじゃない」
もちろんアルタの歌声は〈鐘〉という象徴に値するものではあるが。だからこそ、すべてが最悪の方向に嚙み合ってしまった。
「この国の現状は知っているだろう? 東西どちらの大国からも圧力をかけられ、国民の不安や不満は高まっている。今は貢納金の引き上げや重税という形だが、西の大国は程なく新たな『取引』を持ちかけてくる」
ダンは、数世代前の大戦直後から続いている西の大国との「取引」について明かした。「この国の安全を保障する代わりに、〈声〉の持ち主の遺体を提供する」。声果隊員が脱退後も自身の居所を中央教会に報告し続ける義務があるのは、このためだ。教会は遺体を回収し、西の大国へ引き渡す。その先で元・隊員に安らかな眠りが訪れる保証はなく、〈声〉は軍事利用を目的とした研究サンプルとして扱われる。
「新たな『取引』とは、遺体ではなく……『現役の声果隊員の提供』だ」
アルタが目を見開く。ダンはその目をまっすぐに見すえながら、続けた。
「この国は今、参戦を避けられない状況にある。膨れ上がる一方の不安や不満から国民の機運も高まってきている。きみが〈鐘〉になれば、その歌声は国民の感情をたぎらせ、参戦は決定的となるだろう。だが……。もしも〈鐘〉になれなかった場合、副長は、おそらく、きみを西の大国との『取引』に利用するつもりだ」
「それ、は、」
「現役の声果隊員として西の大国に提供される」
……ヒューゴとの会話を思い出す。
――副長は、なぜ改革が必要だと?
――この国が生贄の上に成り立っているからです
あの言葉は、嘘だったのか? この国の歪みを正したい、というのも。それとも、他人を生贄にして〈声〉を得たアルタは自身も同じように生贄として捧げられても仕方がないということなのか? 逸話の司祭という歪みの代わりに、同じ道を辿ったアルタを排斥する。そうしてこの国を矯正しようとしているのか?
アルタの行いは絶対に赦されない。しかし、一方でヒューゴの計略は「正しい」のだろうか。
「きみは、歌うしかない」
アルタのまぶたが震える。涙が落ちる。
「歌うしかないんだ、アルタ。最後まで。その〈声〉で。歌い続けるしかないんだよ」
「…………」
ダンは顔を伏せ、一度長く息を吐いてから、立ち上がった。
その時、まるで見計らったかのようなタイミングで室内にノック音が響いた。
「話は終わりましたか?」
入って来たのはもちろんヒューゴだった。本当に扉の前でずっと聞き耳を立てていたんじゃないかと、ダンは訝りつつも「ええ」とうなずいた。
ヒューゴが、まだ立ち上がれずにいるアルタを一瞥した。泣きじゃくったことが窺えるその顔を見ても、ヒューゴの無表情が崩れることはない。
「アルタ。あなたの次の詠唱地が決まりましたよ」
それを伝えに来たのです、と、一歩前に進み出る。
ダンは眉を顰めた。なぜ、そんなことをヒューゴが伝えに……? 隊員の遠征先の調整は聖務院の管轄だろう。
ふと、ヒューゴがこちらを見た、ダンは思わずぎくりとする。しかしヒューゴは何も言わず、アルタへと視線を戻す。そうして、静かに口を開いた。
「中央教会があなたを指名しました。月の終わりの日曜日、大聖堂のバルコニーに立って歌ってもらいます。――歌えますね?」
ダンは呼吸を止めた。驚きのあまり言葉が出なかった。振り返る余裕もないが、おそらくアルタも同じような反応をしていることだろう。
(中央教会が、指名……)
働きかけたのは、まず間違いなくヒューゴたち改革派だ。しかし、新たな〈鐘〉の候補とはいえ、一介の隊員が大聖堂のバルコニーに立つなど、前代未聞。リリーですらなかったことだ。……この異例の決定は、近日中に全国を駆け巡るだろう。そして、当日、大聖堂前の広場には人が大挙して詰めかける。アルタの認知度と存在感は飛躍的に高まる。国民は熱狂する。その熱を、評議会は無視できない。新たな〈鐘〉の誕生について、議論が交わされるのは絶対だ。
(しかも、よりによって――!)
月末の日曜日。その日は〈鐘〉の定期詠唱日だった。
〈鐘〉の定期詠唱の前にアルタがバルコニーに立って詠唱する。それはすでにリリーにも伝えられているはずだ。
執務館を後にしたダンは足早に塔を目指す。広場を横切る際、教会前を慌ただしく行き交う警吏の姿が目についた。その数の多さに何か事件でもあったのだろうかと気になったものの、様子を窺いに行く余裕はなかった。
「ダン! どこに行っていた?!」
塔の敷地内に入った瞬間、怒声が飛んできた。ダンは反射的に足を止める。声のした方を振り返ると、塔の警護を担っているベテラン警吏の一人が凄まじい形相でこちらへやって来るのが見えた。
「こんな大事な時に……! おまえは〈鐘〉の専属警吏だろう!」
(『大事な時』?)
アルタの詠唱の件がすでに彼らの耳にも入っているのだろうか。たとえそうだとして、その件でダンが他の警吏から詰め寄られるいわれはない。
「どうかしましたか」
ダンが訊ねると、
「何を呑気な! これだから……」
そう言って、警吏は大袈裟にため息を吐く。
(これだから、何だよ)
ダンは内心舌を鳴らすも、今はいちいち嫌味を拾っている場合ではない。もう一度「何かあったんですか?」と訊ねる。
「知らないのかっ? 礼拝堂に例の『悪魔』が現れ、聖務官の遺体を損壊したんだ。しかも、その第一発見者は〈鐘〉さまだ。もしも少しでもタイミングがずれていたら……。〈鐘〉さまは『悪魔』と鉢合わせしていたかもしれないんだぞ!」
ダンは絶句した。頭を殴られたような衝撃に眩暈がする。
(なんだ……? どういうことだ……?)
「悪魔」は、ダン自身だ。それは自分が一番よく知っている。しかしダンはさっきアルタの故郷から戻ったばかりであり、それからずっと執務館にいた。もちろん礼拝堂に立ち寄ってなどいないし、遺体が安置されていたことすら知らなかった。
(リリーが第一発見者……?)
その言葉を咀嚼したその時、ダンは新たな衝撃に今度こそ本当に頭を殴られたかと思った。考えるより先に、
「なぜ〈鐘〉の外出を許したんです?!」
大声を上げた。
目の前の警吏が一瞬たじろぐ。しかし、鼻を鳴らして顔を背けると、唇の端に嘲るような笑みを浮かべる。
「〈鐘〉さまが外出したいとおっしゃられたからだ。教会に行くだけだからついてこないでほしい、と。『ただの警吏』である我々が〈鐘〉さまの行動に口出しできるわけがないだろう」
「くそっ」
ダンは舌打ちした。ベテラン警吏がこちらを振り返る。その顔がみるみる歪んでいく。もちろんダンは承知している。目の前の相手が塔の警護を任されるくらい、経験も実績も豊富であること。本来なら自分など足元にも及ばない、優秀な人間であること。
が、今、ダンは自分のことを棚に上げてはっきりと思っていた。――この役立たず共が、と。
警吏が大きく口を開きかけたのを見て、ダンは「失礼」と手刀を切ってその横を通り過ぎる。そのまま塔へ入る。背後で扉が閉まるより先に、螺旋階段を一段飛ばしで駆け上がった。
最上階。ノックもせず、一つだけある扉を開け放つ。
……いつものように、リリーはソファの上にいた。いきなりダンが入ってきたことに驚いた様子もなく、ゆっくりと振り返る。目が合う。ダンは、リリーの元へ一直線に近づくと、その祭服の胸倉を思い切り掴んだ。
「おまえ……っ! とんでもないことをしてくれたな」
こちらの剣幕など物ともしていないかのように、リリーは眉一つ動かさない。ただ静かにダンを見上げる。
「俺が、今まで、どんな思いで〈声〉をとっていたと思ってる……!」
「どんな思いなの?」
「……あ?」
「だから、どんな思いできみは〈声〉をとっていたの?」
ダンは、リリーの胸倉を掴む自分の手が震えているのに気づいた。怒りからなのか、怯えからなのか。ダン自身にもはっきりしない。
リリーがふと目を伏せた。長い睫毛が目元に影を作る。形のいい唇がうっすらと弧を描く。
「はじめてじゃない? きみがそんなふうに怒るの」
「ふざけるな。おまえ、自分が何をしたかわかってんのか?」
「『悪魔』の真似事をした」
「なんで……、なんでそんなことをした」
「真似っていっても、ちょっと喉を切っただけだよ? ホントに数センチくらい皮膚を切っただけ。死んでるからかな? 意外と硬くて刃がうまく入らなかったんだ。そうこうしているうちに人の気配がして、司祭が入って来たから、『遺体が傷つけられてるみたいですよ』ってとぼけておいた」
「だからっ、なんでそんなことしたのかって訊いてんだよ!」
リリーが目を上げる。思いのほか強い視線に、ダンは怯む。
「きみが、何を考えているのか知りたかったから」
「………」
「知ってもらうには、知る必要があると思ったから」
……意味がわからない。ダンは、リリーの祭服から手を離した。出逢った時からずっと、ダンには、リリーの言っていることが理解できない。
(十三歳のこいつは……)
先ほどのアルタと同じように地べたに蹲って泣いていた。声と〈声〉が衰えたらどうしよう、と。祝福されなくなるのが怖い、と。しかし、アルタに対してそうであったような同情を、当時も今も、ダンはリリーに対して抱くことができない。この差はなんだろう、と考えると、それはやはり神に「愛された者」と「愛されなかった者」という決定的な違いではないかと思う。この国の人間にとって、〈声〉は、「神様の愛」に置き換えられる。歌うことに興味があろうとなかろうと、声や詠唱力が優れていようといまいと、全員が生まれて間もなくふるいにかけられる。神に愛されるか、愛されないか。祝福されているか、されていないか。その結果が〈声〉だ。
(愛されなかった人間が、どうして、愛された彼らを尊ばなくてはならない?)
ダンの心の奥底にはずっと、うっすらとではあるが、この疑問があった。だから、人生を懸けてその疑問を体現したアルタの激情に揺さぶられた。一方で、愛されたがゆえのリリーの苦悩にはどうしたって距離を感じる。……リリーの苦悩が贅沢とは言わない。これはダン側の問題だと、ダン自身理解している。ダンは、ただ、自分には感じ取れない世界に身を置いているリリーが、そうして神の愛に翻弄されているリリーが、いつだって遠く、大嫌いだった。
(おまえはどこで生きてるんだよ)
ここじゃないのか? そう言ってやりたくなる。
「そんなに心配しなくてもいいんじゃない?」
祭服を整えながら、リリーは軽い調子で言う。「『悪魔』は美しい〈声〉に魅せられ、その〈声〉が欲しくて犯行を重ねている……ってことになってるんでしょう? だったら、〈声〉の存在を知らない人たちはもちろん、知っている人たちだって、まさか〈鐘〉の犯行とは思わない。どっちにしろ〈鐘〉に美しい〈声〉なんて必要ないんだから」
ダンは一歩、二歩、よろめくようにリリーから距離をとった。腰に手をやり、うなだれる。
「わかった。『悪魔』の件は、もういい……。確かにおまえの言う通り、〈鐘〉を疑う奴はまずいない」
「一人いたけどね」
ダンは顔を上げる。誰だそれは、と訊ねようとしたものの、新たな問題を抱える気力がなかった。それはその「誰か」が万が一何か行動を起こした時に対処することにする。
「とにかく、おまえはこの件に関して何を訊かれても『第一発見者』のままでいろ。そんなことはあり得ないと思うが、間違っても自分の犯行を認めた上で、〈鐘〉の立場を利用して揉み消そうとしたりしようとするなよ? そして今後一切余計なことをするな。いいな?」
「…………」
返事はない。しかし気のいい返事があったところで当てにはならない。
「本当は、こんなことを話し合うために来たんじゃない。……次回の定期詠唱の件、だ。聞いたか?」
「僕の前に、アルタが歌うんだってね」
「おまえは、どうするつもりなんだ」
「どうするって?」
「次回の定期詠唱は、実質〈鐘〉を選定するための場になる。〈鐘〉と新しい〈鐘〉の候補が同日に詠唱するとなれば、国民は大挙して詰めかける。これからの自分たちを導くのに相応しいのはどちらか、その耳で決める。そして評議会は、国民の声を汲む。
前におまえ言ってたよな、『気持ちは歌声に乗る』って。アルタの……、今のアルタの歌声は絶対に国民に刺さる。アルタ自身がすべてを懸けて歌うからだ。元々の詠唱力にそんな決死の気持ちが乗ってみろ、その〈声〉が胸を打たないわけがない。そうしたら、おまえは……どうするんだ……」
歌声を聴き届けるのは、神ではない。人々だ。人々に選ばれなければ〈鐘〉にはなれない。
……〈鐘〉でなくなっても、声果隊員として歌う道もなくはない。が、歴代の〈鐘〉は全員、新しい〈鐘〉が誕生した時点で声果隊を脱退している。その後は聖務官や司祭として務めることもできるが、やはり〈鐘〉であった者がそうした試しはなく、中央を離れてひっそりと暮らしていくのが通例だろう。何にせよ、脱退後は詠唱を含めた個人的な活動は認められていない。つまり、リリーは〈鐘〉でなくなったらもう「歌うこと」ができなくなる。
「きみは、どうなの?」
ぽつり、リリーが言う。「僕が〈鐘〉のままでいた方がいいと思ってる? それとも、アルタが〈鐘〉になるべきだと思ってる?」
ダンはリリーを見た。息を吸い込み、答えようとして――……
「きみの答えが、この国のあるべき姿を決める」
(……何を、言ってるんだ……)
〈鐘〉とこの国の行く末を決めるのは国民であり、評議会の面々だ。
「……なんだよ、それは。じゃあ何か? 俺が、おまえこそが〈鐘〉に相応しいと答えたら、おまえは確実に〈鐘〉であり続けられるっていうのか?」
逆に……とは続けられなかった。アルタが〈鐘〉に相応しいと答えたら。おまえはどうするんだ? とは訊けない。
「できるよ」
おそらくね、と、リリーはうなずく。
気負いのない口ぶりだった。ダンは苛立ちと同時に恐怖を覚える。リリーは一体、何なのだろう。その行いの咎は別として、アルタや逸話の司祭は決死の思いで「歌うこと」にしがみついていたというのに、リリーは遥か高見からそんな彼らを見下ろしている。自信も確信も超えて、まるで神のように。
「わからないよ? あくまで『おそらく』できるだろうって話。もう一度言うけど、ダン、現実がどうなるかはきみの答えに懸かってる」
「……おまえは、アルタの詠唱をしっかりと聴いたことがないから、そんな馬鹿みたいなことが言えるんだ」
そして、あの激情を目の当たりにしていないから。アルタは今度こそ本当の意味で人生を懸けて〈鐘〉の地位を獲りにくる。長い間ずっと一人で抱え続けてきたあらゆる感情を〈声〉に乗せて解き放つ。この国を壊すため、神を蹴落とすため。それに敵う感情を、人々に訴えかける熱を、リリーが持っているとは思えない。
(何者でもないただの警吏に未来を預けようとしているのが、その証拠だ)
「答えは、定期詠唱の直前までに出してくれたらいい。――ところで」
リリーがゆっくりと立ち上がる。思わず、ダンは一歩下がった。
「ここ数日、忙しそうだったね。きみは〈鐘〉の専属警吏のはずだけど、塔に姿を現さなかった。それどころか中央にすらいなかったね?」
「……副長に呼び出されてたからな。その用で地方に行っていた」
「そう。そうなんだ? まあ、きみが留守だったおかげで、僕は比較的自由に動けたわけだし、おもしろい声果隊員の子と話もできたし、よかったけど」
リリーは腕を組み、自分の足元を見つめながら話す。左手の人差し指で右の二の腕をトン、トンと叩く。そのリズムに合わせ、頭が前後に小さく揺れる。長い髪がさらさらと肩を滑る。
……リリーにしては落ち着きのない、珍しい姿だった。
(もしかして、苛立っている……?)
リリーは精神的に不安定なところがあるものの、それは本人にしか理解できない極めて個人的な問題がゆえだ。つまり、原因は自分。一方で他人に対してはたいして興味がないため、何を言われてもどんな態度をとられても、あまり頓着しない。だから、ダンは、リリーが他人に感情的になっているところをそういえばほとんど見たことがなかった。
「ダン」
聞き慣れた美しい声に名前を呼ばれ、反射的に顔を上げる。
「定期詠唱の当日は、本来の仕事をしてもらう」
青い瞳、それはよく晴れた夜明け前みたいさみしさを湛えている。感情は読めない。ただ、その眼差しは、ダンをそこに沈めるかのように強く、重い。
「きみは〈鐘〉の専属警吏だ。そして――今の〈鐘〉は、僕だ」




