⑨-3
遺書を読み終えたアルタは全身の震えが止まらなかった。顔を上げられない。何も考えられない。違う……違う……とばかり頭の中で繰り返す。
「違う、だって……違う。あの時、」
ダンの声がする。「アルタ」と、呼んでいる。しかしアルタは応えられない。全身の震えは、喉の奥にまで伝わる。否定の言葉と共に、頭の中では、これまでの出来事が走馬灯のように駆け抜けていく――
はじめて歌ったのは、いつだっただろう。
「アルタは本当に歌うのが上手」
言いながら、ぎゅっと、セシルが抱きしめてくる。
「姉さんに似たんだわ、きっと。姉さんもね、歌うのがとっても上手な人だったのよ。声果隊員にはなるべくしてなったんだって、私は思ってる。声も、それは綺麗だったわ。アルタは男の子だから、声は、大きくなったらお義兄さんに似るかもしれない。お義兄さんは不思議な声をしてた。顔を見ないで声だけ聞くと、十代の男の子みたいなの。快活でちょっと甘い声だった。……アルタの中に二人はちゃんと生きてるんだわ」
だからさみしくないね。そう言って微笑むセシルの方が、アルタよりずっとさみしそうだった。アルタは、セシルが話す「姉さん」も「お義兄さん」も知らない。自分の両親らしいけれど、顔も声も憶えていない。彼らがどんな人だったかより、セシルがさみしくならない方が大事だと思った。
だから、アルタは歌った。歌うと、セシルが喜んでくれるから。そうすると、自分も嬉しいから。
歌声を褒めてくれたのは、セシルだけではなかった。教会では、礼拝の前に詠唱する時間がある。アルタが歌うと、
「声授したら立派な声果隊員になる」
と、みんなが口を揃えて言ってくれた。
母がその「声果隊員」だったことはセシルから聞いて知っていたけれど、「声授」とは何だろう。アルタは、セシルに訊ねた。
「声授は、神様の愛。その証として特別な〈声〉を授かることよ」
じゃあ、自分も「声授」して、母と同じ声果隊に入るのか。そうして、セシルや近所の人たちや、この国のたくさんの人に、歌を聴いてもらう。そうしたら、みんなきっと笑顔になってくれる。自分ももっと嬉しくなれる。
しかし。五歳が過ぎても、アルタが声授することはなかった。
神の愛を授かったのは、近所に住む同い歳のオットーだった。
オットーとはよく一緒に遊んでいた。セシルや祖父母がオットーの家と織物の取引を行っていたため、家を訪ねる際、セシルたちについて行ったそこで自然と仲良くなったのだ。
オットーは楽しい子だった。アルタは幼いながらに、彼が賢く、周囲を気遣える人間であることを感じ取っていた。そして同時に、
(でも)
と、密かに思っていた。
(オットーは神様に選ばれたけれど……『歌うこと』を知っているわけじゃない)
この世の「音」には秘密が隠されている。アルタはそれを感じ取っていた。詠唱や歌はもちろん、人の話し声、動物の鳴き声、生活の音、自然の音、あらゆる「音」が秘密を抱えている。その秘密の中身を具体的な言葉にすることはできない。それは神の体温を説明できないのと似ていた。でも、確かに、そこにある。「音」を生み出すこと――歌うことは、その秘密を紐解き、神の体温を感じることでもあった。
(だけど、オットーはそれを知らない)
オットーだけではない。教会が招く声果隊員も、おそらく誰も知らない。詠唱を聴いていればわかる。現に、アルタは一度も、彼らの歌声に温度を感じていない。
そんな思いを抱えつつも、オットーとは変わらず遊んでいた。オットーが十歳になった時、彼は声果隊入隊のため中央へ行くことになった。さみしい、と、アルタは思った。同時に、そこへ行くのがなぜ自分じゃないんだろう、と不思議に思った。
オットーが行ってしまうと、アルタの日常からも〈声〉の気配が遠ざかった。教会で詠唱すると、変わらず皆が歌声を褒めてくれた。でも、もう誰も「声授したら……」とは言わなくなっていた。
アルタは、セシルや祖父母の織物作りを手伝うようになった。将来的にはこの家業を継ぐ。まだ簡単な手伝いしかさせてもらえていなかったけれど、作業は好きだったし、その点に疑問はなかった。
声授祭の当日は、だいたい雪が降る。その年もそうだった。
窓の外を覗くと、庭一面に雪が積もっていた。この時期は織物作りの手伝いより雪かきに割く時間の方が長い。早朝の凍てつく寒さに備え、アルタはできる限り温かい格好をして外に出た。
「アルタ、今日は雪かきや仕事をしている場合じゃないわよ!」
庭に、セシルの声が響いた。寒さにピンッと張り詰めていた空気が揺れ、アルタは驚いて振り返る。
「昨日言ったでしょう? 隣町に〈鐘〉さまがいらっしゃるの。今から出ないと〈声〉が聞こえる場所が埋まってしまうわ」
確かに、声授祭の詠唱地域に隣町が選ばれ、〈鐘〉がやって来るらしいことは聞かされていたけれど……。〈鐘〉が隣町に到着するのは午後だったはず。ここから隣町までは一時間もしないで着く。そこから〈鐘〉がやって来るまで、この寒さの中長時間待っていたら風邪をひいてしまうんじゃないか。
しかしセシルは緩く首を振った。
「〈鐘〉さまの詠唱を聴けるチャンスなんだから、そのくらいは我慢しないと。それにアルタは絶対に〈鐘〉さまの歌声を聴くべきなの」
さあさあ、行きましょう。と、セシルに背中を押され、アルタは雪かきのスコップを手放し、雪がちらつく通りへ出た。
〈鐘〉……。神の愛を授かった人たちの中でも、さらに選ばれたこの国の象徴。セシルからもう何度聞かされたかわからないが、アルタは〈鐘〉によって命を救われたことがあるらしい。アルタは生後間もない頃、大規模な火災事故に巻き込まれている。その事故で両親を失い、アルタ自身も九死に一生を得た。同時刻、中央教会ではちょうど今の〈鐘〉の就任式が行われていたらしい。〈鐘〉が詠唱していたことで、悪いものが遠ざけられ、アルタは火の手を逃れることができた。だから今こうして生きている――。
(でも……。〈鐘〉って、本当に知ってる?)
歌うこと、を。音の秘密、を。神様の体温、を。
アルタは、オットーや声果隊員の歌声を思い出す。神の愛を授かったからといって、全員からその歌声に神の影を感じるわけではない。
(〈鐘〉だって、きっと――……)
セシルに手を引かれ、隣町までの道のりを歩いていると、次第に人の数が増えてきた。通りや路地はどこも人で溢れ、〈鐘〉が詠唱する予定の広場まではまだだいぶ距離があったものの、アルタたちは道半ばでついにそれ以上進むことができなくなってしまった。
「〈鐘〉さまの姿は見えなくても〈声〉は聴こえるはずだから、大丈夫よ」
寒さに鼻の頭を赤くしながら、セシルは言った。
雪は降り続いており、身体の奥にみるみる寒さが積もっていく。それでも来た道を引き返そうとする者はいなかった。誰もが〈鐘〉の歌声を待っていた。
そして。唐突に、その時は訪れた。
遠く前方から歓声が波を打って伝わってきた。それはアルタの頭上を駆け抜けるように通り過ぎ、後方へと流れていく。空気が変わった。歓声と入れ替わりに今度は静寂が波紋のように広がる。何かがはじまる気配。思わず、アルタはセシルの指をぎゅっと握った。
歌声が、聞こえた。
それはこの世のどんな音よりも美しい「音」だった。
(……これが……)
〈鐘〉の〈声〉。
アルタは呼吸を忘れる。ただただ耳が「音」を拾う。
周囲の人々も誰も何も発さない。これだけの数の人が一人としてため息一つ漏らさない。耳で、心で、脳で、〈鐘〉の歌声を感じている。身体の奥の寒さが、そのもっと奥にある冷たさが、ゆっくりと溶かされていくのがわかる。この歌声があれば大丈夫。自分の中からあらゆる不安が遠ざかっていくのを感じる。そして、灯火のような希望が微かな熱を持って揺れる――
(これが、〈鐘〉の、『歌うこと』)
アルタは他人の歌声にはじめて神の姿を見た。それは自分の歌声よりも鮮明で、心地よい体温だった。
瞬間、神が〈声〉を授ける意味を理解した。〈声〉は、神が、その愛をより多くの人に届けるためのもの。それを手助けするためのもの。
(だけど、だからこそ、きっと駄目なんだ)
神に愛されるだけでは駄目だ。人にも、愛されなくては。それでこそはじめて〈声〉を授かることが意味を成す。
……しかし、アルタにとっては何の意味もないことだった。〈声〉を持っていない。神に愛されなかった。だから、音の秘密を知っても、神の体温を感じても、この歌声は自分の中だけに反響して終わる。聴き届けられることはない。
〈鐘〉の詠唱を聴きながら、その事実に静かに愕然とした。そして、気づいてしまった。心の一番深いところにある、願い。
――〈声〉が、欲しい……
(そこへ行きたい)
この美しい歌声があるところ。見えないそこへ。
〈声〉を持っていなくても、歌うことはできる。でも、違う。理屈じゃない。それでは満足できない。「歌うこと」を生きる意味にしたかった。神からの愛という名のゆるし。それがどうしてもどうしても欲しかった。
(どうして……選ばれなかったんだろう)
〈鐘〉の歌声が響いている。アルタは空を見上げた。灰色の雲間から、雪がはらはらと舞い落ちている。神の姿は、もちろん見えない。ただ〈声〉だけが聞こえている。
〈鐘〉の詠唱を聴いてから四年後、アルタは十四歳になった。
あの時の声授祭以来、〈鐘〉の詠唱を耳にする機会はなかった。それでも、あの歌声を忘れることはできない。まるで耳元で歌われているかのようにはっきりと残っている。
……あの時は夢のように美しい歌声の衝撃に打ちのめされるばかりだったものの、時間が経ち、冷静になって考えると疑問も生まれた。
アルタは〈鐘〉の詠唱によって命を救われた。それは〈鐘〉の〈声〉が悪いものを遠ざけてくれたから。でも、だったら。なぜ両親は助からなかったのだろう。両親だけではない、あの火災事故では他にも多くの人が死傷している。そもそも、本当に〈声〉が悪いものを遠ざけてくれるなら、この国には病気や事故で亡くなる人がいなくなるはずではないか。犯罪だって起きないだろう。
神に祈って万事がうまくいくわけではないのと同じで、〈声〉にも限度はあるのだろう。アルタはそれを理解している。この国の人々だってそうだろう。だからこそ、なおさら、アルタは無性に腹立たしく思う時がある。国を上げてわかっていないフリをしている、その感じ。ああして〈鐘〉の元に詰めかけ、神の体温に触れ、奇跡を得た気になる。これで大丈夫だ、と、あらゆることに目をつむってしまう。
(でも、)
〈鐘〉の歌声が理屈を上回ることは事実だ。どれだけ冷静になろうと努めても、あの詠唱を聴いたら、また同じように心を預けてしまうだろうと、アルタは思う。
〈鐘〉はこの国の象徴。その歌声がまさにこの国を作っている。それができるのは神の愛、〈声〉があるがゆえ。
〈鐘〉の詠唱を聴いた日から、一度は遠ざかっていた〈声〉の気配が、アルタの中で日増しに濃くなっていった。
「…………」
そんなある日、オットーが帰省した。
これまでも帰省の度、オットーとは顔を合わせていた。しかし、ここでもまた、あの声授祭を機に変わってしまったことがあった。
アルタは、オットーと自分の間に引かれた境界線をより強く意識するようになった。神に「愛された者」と「愛されなかった者」。絶対に越えられないその線を目の前にすると、アルタの中で荒れ狂うような激情が湧き上がった。
「アルタ、元気だった?」
家を訪ねてきたオットーは変わらず朗らかだった。玄関先で軽い抱擁を交わす。
「――というわけで、今夜、久しぶりにみんなでうちに集まらない? ご馳走たくさん用意するし、遅くなったらそのまま泊っていけばいいよ。どう? 来られそう?」
「うん」
オットーの肩のあたりを見ながら、アルタはうなずいた。「いいね。楽しみにしてる」
「よかった」
オットーがホッとしたように笑う。
〈声〉、〈声〉、〈声〉……。アルタは気づいていた。オットーのことを「友だち」ではなく「〈声〉を持っている人間」としか見られなくなっている自分に。
「あのさ、……今、ちょっと出られない? アルタに話ておきたいことがあるんだ」
オットーの声の調子が変わった。アルタは思わず目を上げる。どこか怯えを孕んで見える真剣な眼差しと視線がぶつかった。
家の中では機織り機の規則的な稼動音がしている。アルタは振り返り、セシルに声をかけた。事情を説明すると、すぐに「いいわよ。いってらっしゃい」と、気軽な声が返ってくる。
アルタは、オットーと共に家を出た。
オットーの後をついて、狭い路地をぐるぐる歩き回る。その背中を眺めながら、話とは一体何だろうかと考える。オットーからは緊張感が漂っており、こちらから話を急かすのもはばかられた。
やがてオットーの家へと通じる坂道の手前まで来たところで、ようやく彼が足を止めた。そのまま坂道を上がるのかと思いきや、オットーは踵を返し、すぐそこの空地へ向かう。家一軒分のスペースに雑草が生い茂っているそこは、周囲を背の低い木製の杭で囲まれていた。オットーがそのうちの一本に腰かける。アルタは躊躇いつつも、杭を一本空けて、隣に腰を下ろした。
オットーは神妙な面持ちで視線を落としていた。息を一つ吐く。
「だいぶ前の話なんだけど……」
意を決したように顔を上げ、アルタを見すえた。「僕らが五歳の頃。アルタ、うちに遊びに来た時にお母さんの形見を失くしたの、憶えてる?」
アルタは目を瞬いた。まったく予想外の話だった。しかし、オットーが言ったことはもちろん憶えていた。
……その当時、アルタはペンダントを身につけていた。香袋に麻紐を通したそれはセシルお手製のもので、香袋の中には母の形見――ラウドベリーが入っていた。ラウドベリーは例の火災現場で発見されたもので、ほとんど炭と化した母の遺体にくっついていたらしい。駐在所に保管されていたそれをセシルが引き取りたいと申し出たところ、長期保存できるとはいえいつ腐るともわからない食品ということもあってか、承諾してくれたらしい。ラウドベリーがどうして一粒だけ遺体にくっついていたのか、炎の中でなぜ焼け焦げなかったのか、不思議なところはあるものの、それが遺された唯一の物であることは確かだった。
そんな大切な物を、アルタはあの日、香袋ごと失くしてしまった。香袋がないことには、家に帰ってから気づいた。アルタよりもセシルが慌てた。すぐさまオットーの家へ向かい、事情を説明した。オットーの家族や使用人たちも総出で家中を探してくれたが、見つかったのは香袋だけだった。ラウドベリーはなくなっていた。
セシルは礼を言いながらも、泣いていた。その姿を見てようやく、アルタは自分の失態の重さに気づき、セシルと一緒になって泣いた。ラウドベリーは、セシルにとっても大事な形見だったのだ。
「実は、そのことで、ずっと謝りたいと思ってたんだ」
足元の一点を睨むようにして、オットーが言う。「あのラウドベリーがアルタのお母さんの形見だってことは、家中を探す時になってはじめて知った。俺は……だから、言い出せなかった。ラウドベリーがどこにあるのか知っていたけど、とんでもないことをしてしまったって……恐くなって……」
「どういうこと?」
要領を得ず、アルタは首をかしげる。
「あの時、俺の部屋で一緒に遊んでただろう? アルタが部屋を出て行った後で、香袋が落ちているのに気づいた。中を見たら、ラウドベリーが入ってた。それを……俺は、深く考えず……口に入れた」
「…………」
「……そのまま、呑み込んだ……」
オットーがゆっくりとこちらを振り返る。瞳が揺れている。
アルタは何も言えず、その瞳を見つめ返した。驚いた。しかし、今さらそんなことを告白されても、どうしようもなかった。吐き出せ、と言って取り返しがつくならそうするが、それも無理だ。
「だけど、あれって……本当にただのラウドベリーだったのかな……」
アルタは眉を上げる。オットーの瞳の揺れは、今や全身に波及していた。
「あのラウドベリーを呑んだ三日後なんだ、俺が声授したのは――」
声授、というそれに、アルタの胸の奥にチリっと火が灯る。が、それと母の形見に何の関係があるのだろう……。
祈るように組んでいる手をオットーはぎゅっと握った。
「俺、聞いちゃったんだ。その日は『悪魔』事件……元・声果隊員の遺体の喉が掻っ切られるっていう事件が起こった、次の日だった。中央教会内は事件の話で持ち切りだった。犯人はどんな奴なのか、なぜ元・隊員を狙ったのか。俺たちみたいな隊員や一般職員だけじゃなく、偉い人たちも噂話に興じてた――」
……そうして、オットーは自分が聞いたことを語りはじめた。
声果隊員が詠唱のため地方に足を運ぶことを「遠征」と呼ぶが、その遠征先の振り分けで手違いがあり、その日の夜、オットーは一人、中央教会の事務室を訪れた。担当者との話し合いはすぐに済み、正しい遠征先を確認し、部屋を後にした。
「宿舎での生活には規律があって、普段は夜に出歩くなんて教会の敷地内であっても無理だから、その時はつい寄り道をしたんだ」
宿舎に戻る前に、中庭に面した回廊に立ち寄った。暗がりに沈む大聖堂が大きな影となって迫って見えた。それを横目にゆったりと廊下を歩き、夜の空気を吸い込む。湿った草木の青い香り。その隙間に、ふと、紫煙のにおいを嗅いだ。
においのする方へ目をやると、中庭の低木の向こうに人影が見えた。話し声が微かに聞こえる。オットーは列柱の影に隠れるようにして、そっと近づいた。人影は二つあった。服装から聖務官だとわかる。耳を澄ますと、話し声の輪郭がはっきりしてくる。
――『悪魔』の目的は、やはり〈声〉でしょうか
――喉が裂かれ〈声〉が消えている。ということは、そうなんだろう
――とすると、犯人は我々の中にいる、と……
――〈声〉が器官であり、見た目がラウドベリーに酷似していることは、限られた人間しか知らない。『悪魔』は、その犯行からわかる通り、確実に〈声〉がどんなものかを知っている。ある意味で犯人像に近づく決定的な証拠を残しているとも言える。
――容疑者は、要職者。なかなか捜査が進展しないはずですね……
……オットーはしばらくその場に立ち尽くした。どのくらいの時間そうしていたかはわからない。風が吹き、寒さに肌が粟立ったところでハッとした。戻らないと、と思った時には、聖務官二人の姿は紫煙のにおいと共にすでに消えていた。
「……俺は、五歳で声授した」
オットーが震える息を吐く。「ずっと気になってたんだ。普通は四歳までに声授するのに遅くないか? って。アルタのお母さんは声果隊員だった。俺が聞いた聖務官たちの話が本当なら、形見のラウドベリーは、もしかして〈声〉だったんじゃないか……? 俺はそれを食べた。だから、身体の中で何かしらの作用が働いて、声授したんじゃないか――……」
オットーが顔を上げる。まっすぐにこちらを見る。
「アルタ、ごめん。本当にごめん」
(『ごめん』?)
アルタはオットーの目を見つめ返したまま、静かに思う。
(『ごめん』って、それは何に対してだ?)
形見を食べてしまったこと? それによって声授したこと? だから声果隊員になれたこと? どっちにしろきみは声授できなかったのに……「ごめん」?
目の前が真っ赤に染まっていく。全身の血が沸騰する音を聞く。頭の中で激しい怒りが脈を打つ。心の奥底に押し込めていた激情が猛々しい炎となって吹き荒れる。
この怒りは、きっと、オットーに対してではない。
(神様)
高見から人間を選別し、身勝手に愛を授け、必死の祈りには気まぐれにしか耳を傾けない、神に対する底なしの憤怒だ。
アルタは唇を噛みしめた。こんなに不条理なのに。どうすることもできない。その現実がただ目の前にある。
「…………」
アルタは立ち上がり、その場を離れる。背後で自分を呼ぶオットーの声がする。しかし振り返ることはない。振り返ったら、この怒りをオットーにぶつけてしまうだろう。そうして「悪魔」みたいに、その喉を掻っ切ってしまうかもしれない。
家に戻ると、アルタはまっすぐ自室に向かった。セシルの声にも応えなかった。仕事の手伝いをしなければならないのはわかっていたけれど、今は、何も考えられなかった。
ベッドの上、膝を抱え、とにかく怒りが鎮まるのを待った。浅い呼吸に、肩が上下する。オットーから聞かされたことが頭の中で繰り返し再生される。
〈声〉は器官で……、ラウドベリーに―似ていて……、母の形見は母の〈声〉で……、オットーはそれを食べたから……、声授したのかもしれない……
(……いや、でも)
オットーが聞いたという聖務官の話が本当とは限らない。単なる噂話かもしれない。神の愛が〈声〉だと、誰もがそう信じている。それが人間を構成する一パーツに過ぎないなんてことは、あっていいはずがない。「悪魔」にしたって、ただ〈声〉という形のないものが欲しくて、その出所である喉を裂いているだけだろう。
……部屋に、ノック音が落ちた。顔を上げると、いつの間にか室内が薄暗くなっていた。帰って来てから随分時間が経っていたらしい。
「アルタ? 本当にどうかしたの?」
扉の向こうからセシルの焦った声がする。
様子を気にして何度も声をかけてくれていたのかもしれない。胸の奥ではまだ怒りがくすぶっていたものの、アルタはベッドを下り、扉を開けた。
「あぁ、よかった。びっくりしたわ。何度声をかけても全然反応がないし、物音もしないから、中で倒れていたらどうしようと思ったのよ」
心配をかけてしまったことと仕事を手伝えなかったことを、アルタは謝った。
「それはいいけど。もうこんな時間よ。オットーの家には行かなくていいの? 誘われてたでしょう?」
「……行かないことにした……」
「そうなの? ……何かあった?」
アルタは首を横に振る。オットーが母の形見を食べてしまったことなど、セシルには絶対に言えない。
「もう少し部屋で休んでてもいい?」
「いいけど……」
セシルは気遣わし気に眉を寄せる。「後でちゃんとご飯は食べてね」
アルタはうなずき、扉を閉めた。再びベッドの上に戻る。
「…………」
さっきからずっと同じことばかりを考えている。どの角度から考え尽くしても、答えは出ないのに、可能性ばかりを何度もなぞってしまう。時間が経つにつれ、このままでいいのかという気がしてくる。いいも何も、どうしようもないことはわかっている。今からオットーに会いに行って我慢ならないこの怒りをぶつけたところで、母の〈声〉は返ってこないし、オットーが正規の方法で声授していなかったとして〈声〉を持っている事実は揺るがない。何より、アルタ自身が〈声〉を持っていない現実は、絶対に変わらない。
(オットーに会っても意味はない)
でも、と、アルタは膝を抱える。でも、やっぱり、このままでいいのかという焦りが消えない。オットーに会いに行かなくてはならない気がする。会って、言うのだ。何を? 何て? わからない。ただ、このままではいけない気がする。
(――全部、会ってから考えればいい)
怒るのか、なじるのか、罵るのか……、自分でも定かじゃない。今はとにかくこの渦巻く気持ちをどうにかしたかった。
ベッドを下りる。音を立てないようそっと扉を開ける。セシルには声をかけず、そのまま家を出た。
もうパーティーは終わって皆帰っているかもしれない。それならそれでいいが、あまり遅くなって訪ねると門前払いを食う可能性があった。アルタは駆けた。全速力で坂道を上がり、あれこれと考える間もなくオットーの家の前に着く。灯りは点いていた。門も、開いていた。
(扉も開いてる……?)
門の向こう、両開きの扉の片側が中途半端に開いていた。普段はきっちりと閉じられていたはずだ。アルタは違和感を覚えたものの、今夜はホームパーティーということで人の出入りを考えてのことかもしれない。門を潜り、扉へ近づく。ベルを鳴らそうとして、ふと、開きっぱなしの扉からそっと中を覗き込んだ。
(人の気配がするのに、しない……)
気づいた瞬間、背筋に悪寒が走った。言葉にならない不穏な空気が確かに家の中から流れてきている。それはアルタの足元に絡みつき、屋内に引きずり込もうとしているように感じられた。アルタは一歩後ずさった。しかし、見えない力に押し返されるように扉の隙間にするりと身を滑り込ませた。
玄関から家の奥へと廊下が伸びている。灯りが、床に広がる汚れを浮かび上がらせていた。赤く、掠れた帯状のそれ……。何だろう、と目を凝らした瞬間、その正体に気づいて絶句する。
(血だ――!)
全身が貫かれたように硬直する。血だとわかると、錆びた鉄のようなにおいが鼻を突いた。目を逸らしたいのに瞬き一つできない。そうして、血の掠れの中に複数の足跡を見つける。
心臓が激しく鳴る。
この家では、何かとんでもないことが起こっている。今すぐ引き返した方がいい。そして近所の家に駆け込むべきだ。そう思っているのに、足は根を張ったように動かない。アルタはそっと廊下の奥に目をやった。今、この家のどこかに悪意を持った人間が潜んでいる。それがこの家の人間なのか、そうでないのかはわからない。とにかく、一刻も早く立ち去らないと、自分もここでその誰かに襲われるかもしれない――
その時だった。
不意に、何のきっかけもなく。頭の中に歌声が響き渡った。それはかつて一度だけ聴いた〈鐘〉の歌声だった。
(〈声〉は、悪いものを遠ざけるのに、)
呼吸が震える。アルタは一歩、屋内へと踏み出す。
(どうして、こんなことが起こるんだろう……)
廊下を進んですぐのところの客間の扉もまた、開け放たれていた。一歩、もう一歩……近づても、客間からは物音一つ聞こえてこない。
扉を背に、呼吸を整える。しかし震えはおさまらない。それどころか酷くなってきている。まだ中に入っていないのに、客間からは噎せ返るほどの血のにおいがしていた。それはアルタの全身に絡みつき、捉えて離さない。
深く震える息を吐いて。アルタは、客間に入った。
(――――――!)
衝撃が、全身を貫く。
一瞬、部屋が真っ赤に染まって見えた。客間は、アルタが知っているのとはまったく別の空間になっていた。いたるところが荒らされ、破壊され、床には……血溜まり。その中に倒れているのは誰も彼も見覚えのある人たちだった。オットーの両親、妹、使用人、そしてソファ付近に固まって倒れているのは、……アルタは反射的に目を逸らした。見られない。幼い頃から知っている友人たちの変わり果てた姿を見てしまったら、今この場で卒倒してしまう気がした。
それでも、足は前へと進む。何かに導かれるように自分の意志では止められない。頭の中では〈鐘〉の歌声がまだ響いていた。信じられないような恐怖の底から燃えるような怒りが競り上がってくる。
(『悪いものを遠ざける』なんて、まやかしだ――)
〈声〉が本当に悪いものを遠ざけるなら、なぜこんな事件が起きる? 人間から悪意が消えない? 人を殺す? 人が殺される? 今ここで歌声が響いていないから駄目なのか? そうじゃないだろう。この国がどんなに美しい歌声に包まれたところで、悪いものなんていつだってそこらじゅうに蔓延っている。
〈声〉を授けた神。〈声〉に委ねた国。〈声〉に心酔する国民。――この国は、すべてがまやかしだ。すべて、間違っている。あるべき姿など、最初からどこにもない。
ふと、一際大きな血溜まりが目に飛び込んできた。友人たちが倒れているその向かい、壁に近い方のソファの脚元だ。アルタは引き寄せられるようにそちらへ近づく。
脚が、見えた。血溜まりの中に横たわっている。それが誰だかはもうわかっていた。それでも、心は目を背けるように結論を出さない。信じたくない気持ちが心臓を激しく震わせる。引き返したい。逃げ出したい。それなのに、見えない力がアルタをこの場に留め続ける。
アルタはソファの向こうを覗き込んだ。
(……オットー……)
その身体が仰向けに倒れていた。腹部には大ぶりのナイフが突き刺さっている。アルタは一歩、後ろによろめいた。全身から血の気が引いていく。視界が狭く、暗くなる。
(助けないと)
そう思った。オットーが事切れているのは明らかだろうが、どうにかしないと、と思った。
震える脚に力を入れ、オットーの元に駆け寄ろうとしたその時、
(今なら、取り返せるんじゃないか――?)
耳元で、悪魔が囁いた。それは聞き慣れた自分の声をしていた。
〈鐘〉の歌声がピタリと止んだ。代わりに、悪魔の声が大きくなっていく。心がどんなに「ダメだ!」と呼びかけても、悪魔の声はそれ以上の響きで脳内を揺らす。その声は、重く、甘い。自分の声なのに自分の声ではないような、抗い難い魅惑の音……
ナイフに目が引きつけられる。
(神様が、選んでくれないのなら)
オットーに近寄り、そして、手を伸ばす。
(自分で、選び取るしかない)
アルタはナイフの柄を握ると同時に勢いよく引き抜いた。腹部から血が溢れる。瞬間、オットーの身体が跳ねた。まだ生きているかのような反応に、アルタは怯む。
しかし、その一瞬の躊躇いを打ち消すように柄を両手で握り直すと、両腕を振り上げ、オットーの喉元をめがけて振り下ろす。薄い皮膚を貫通する、柔らかい手応えに鳥肌が立つ。
(ここに、〈声〉が、ある)
取り返さないと。母の〈声〉を。手に入れないと。自分の〈声〉を。
〈声〉はラウドベリーに似ているらしい。それを頼りに、アルタは何度も何度もナイフを振り下ろし、喉をえぐった。全身から汗が噴き出していた。でも、寒い。オットーの血で両手は真っ赤に染まっていた。視界のすべてが強烈な鉄のにおいに錆びついていた。
その時だった。ナイフの先が、何かに当たる。
骨や肉とは異なる感触……。オットーの喉は血と肉の繊維でぐちゃぐちゃになっていた。アルタはもう〈声〉のことしか考えられなかった。ただ〈声〉だけを思ってそこに手を差し入れた。ラウドベリーには独特の凹凸がある。母の形見の〈声〉も見た目はラウドベリーそのものだった。だから、触たら絶対にわかるはずだ。
(あ……)
指先に、手応えがかすめる。アルタは慎重にそれを摘まんだ。手の震えを抑えるように息を吐く。そして、躊躇いを振り払い一気に引っ張り出した。
(これが、〈声〉――……)
それは血に染まり、肉片や管やよくわからないドロドロしたものと絡まり合い、この世のものとは思えない醜悪さだった。アルタは付着物を服で拭った。それでもまだラウドベリーの面影は遠かったが……アルタは、〈声〉を口に放り込んだ。
強烈な血の味にえずく。両手で口を押え、吐き出さないよう必死に舌で押し返す。鼻から大きく息を吸い込み、勢いをつけて喉を動かした。喉が鳴る。〈声〉は呆気なく体内を滑り落ちていく。
アルタは、荒く呼吸を繰り返しながら、オットーを見下ろした。首元が赤黒く染まり、そこだけぽっかりと暗い穴があいているみたいだった。
(……逃げないと)
アルタは立ち上がる。辺りがぼんやりと滲んでいる。腕で目を擦る。そこではじめて自分が泣いていることに気づいた。
(なんで、泣いてるんだろう)
胸には、怒りも悲しみもなかった。感情の一切が見当たらなかった。ただただ涙が止まらなかった。
アルタは客間を後にする。
そこではたと気づいた。このまま帰るのはまずい……。手も腕も顔も服も、血だらけだ。間違いなくセシルに問い詰められる。その前に、外を歩ける状態ではない。
アルタは踵を返し、バスルームへ向かった。全身についた血をできる限り洗い流す。それからオットーの部屋へ行き、今着ているのと似ている服を探し、着替える。涙は相変わらず止まらない。しかし頭と身体は冷静に働いているのが、不気味だった。
玄関へ向かい、開けっ放しのままの扉をすり抜け、家を出る。門を潜ったそこで、アルタは自分の喉にそっと触れた。
「…………」
……〈声〉が、聞こえた気がした。誰の声かはわからない。アルタは歩き出す。来た道を振り返ることはしない。徐々に足早になると、やがて駆け出した。涙が止まらない。呼吸は浅くなり、肺が潰れてしまいそうだ。それでも足は止められない。止まったら、いけない。
〈声〉が、鳴りやまない。
薄闇に先の見えない坂道を、アルタは駆け下りた。




