⑪
(めずらしい……)
昨日までの大雪が嘘のように、頭上には青空が広がっている。アルタはその眩しさに目をすがめ、白い息を吐いた。
声授祭の日は、雪が降る。今年に限ってはそれがはずれたらしい。
宿舎の周り、セシルと並んで雪を踏みしめて歩く。普段なら、ここに声果隊員の家族が立ち入ることはまずない。しかし、今日だけは特別に、軍事部副長の手配によってそれが叶った。
「あの日のことは、きっと一生忘れないと思うわ」
雪に足が沈む感覚を確かめるように歩きながら、セシルは言う。
……あの日、それはアルタが大聖堂のバルコニーに立って歌った日。本来は〈鐘〉の定期詠唱の日。セシルは中央教会にやって来ていた。アルタは知らなかったが、副長に招待されたらしい。執務館の一室から、バルコニーに立つアルタを見守っていた。詠唱後に顔を合わせた時、まさかセシルが来ているとは思っていなかったアルタは驚いたが、セシルは「あたながあそこに立って歌うなんて……」と涙ぐみながらもっと驚いた顔をしていた。詠唱後の興奮と疲労で神経が高ぶっていたアルタは、しかしセシルのそんな様子を見ているうち、自分の輪郭がそっと解けていくような不思議な心地がした。
「あの日の〈鐘〉さまは、特別だったわね」
言いながら、セシルは大聖堂を振り返る。
「わたしは〈鐘〉さまの詠唱をそう何度も聴いたことがあるわけじゃないけど、あの日の〈鐘〉さまは……、前にあなたと声授祭で聴いた時とは全然別の歌声のようだった。声が違うということではないの。なんていうのかしら……、そう、人、ね。その歌声を聴いて、あぁ、この人はわたしたちと同じ人間だったんだって、当たり前のことを強く実感させられたの。だって、あの日の〈鐘〉さまの歌声は、神様のように遠いものではなかったわ。どこか切実で、必死で、一生懸命で……わたしたちに聴かせているのではなく、誰かに届けているって感じだった」
こんなふうに言ったら失礼になってしまうかしら、と、セシルは小さく笑う。
「そんな歌声を聴いているうち、思い出したの。姉さんやお義兄さんのこと、両親のこと、古い友人のこと、そして……アルタ、あなたのこと。大切な人たちのことが、失くしたくないすべてのことが、次々と浮かんできた。きっとそれはわたしだけじゃなかったはずよ。だから――わたしたちは、〈鐘〉さまを選んだ」
セシルがさみしそうな顔をした横で、アルタは深くうなずいた。セシルの言ったことは、痛いほど理解できた。まさにその通りだったから。
……あの日、最後の音を発した直後、一瞬の静寂の中で、アルタは震えた。眼下に広がる、人々の熱。この光景が自分のものとして続いていく予感。この国が終わりへ向かって転げ落ちて行こうとしている現実。すべてを肌で感じ、慄いた。同時に、これでいい、と思った。こうしてこの国と国民は永い夢から醒めるのだ――と。
しかし。直後。
アルタと入れ違いでバルコニーに立った〈鐘〉は、たった一声で空気を一変させてしまった。誰もが一瞬、神の声を聞いたと、錯覚したはずだ。
ただ、セシルが言った通り、それからの〈鐘〉の歌声ははじめて耳にするものだった。音としての美しさには変わらず神の体温が宿っていたが、歌そのものはもっと身近な微熱を孕んでいた。
歌声を通して〈鐘〉の心に触れた気がした。それは〈声〉に乗って、遠く遠く、広がっていく。今ここに存在する誰かに、何かに、切実に、必死に、一生懸命に、この心を伝えたい。人々は自分たちの中にも確かに同じ気持ちがあることに気づいた。だから、〈鐘〉を同じ「人」だと感じた。
――今、この瞬間を共に生きているということ
不安や安心も、争いや平和も、愛や奇跡も、生きているからこそ感じられるものだと、あの日の〈鐘〉の歌声は教えたのだ。
(ああ、この人は『鐘』だ――)
アルタはそう思った。人々に大切なことを報せる、なくてはならない存在。
……〈鐘〉の詠唱が〈鐘〉の意思によるものだったのか、それともその心が自然と声に乗った結果だったのか、アルタにはわからなかった。〈鐘〉の歌声の秘密を解くことはできない。そう思った時点で、アルタは自分が〈鐘〉になれないだろうということを悟った。
「……姉さんも、ここで長い時間を過ごしたのね」
セシルが足を止め、宿舎を見上げる。
屋根に雪を被った煉瓦造りの建物は、人の出入りもなく、静かにそこに佇んでいる。声授祭の三日間は〈鐘〉だけが詠唱する。他の声果隊員たちは必然的に休暇となり、この間に帰省する者も少なくない。
アルタは、セシルの横顔を見つめた。意志の強そうな目や小作りな顔立ち、陽射しを吸収する黒い髪、同年代と比べて小柄な体躯が、自分とよく似ているらしい。あの専属警吏がそう言っていた。
一歩、セシルに歩み寄る。その小さな身体をそっと抱きしめる。自分が幼い頃そうしてもらっていたように、背中に手をやり、一定のリズムでそっと叩く。
「セシルは、俺が生きているのは〈鐘〉のおかげだって言ってたけど……、そうじゃないよ。セシルが、生かしてくれたんだ」
両親が死んでしまった後でセシルが引き取って育ててくれなかったら、アルタのこれまではきっと今とは全く違うものになっていただろう。ここまで「歌うこと」に執着することもなく、そのせいで友人を手にかけてしまうという大罪を犯すこともなかったかもしれない。それは少しのさみしさを引きずりながらも、今よりずっと気楽で穏やかな日々だったかもしれない。しかし、引き換えに、セシルが注いでくれた愛情を知ることもなく、こうして「歌うこと」に対してやり切るような思いも抱けなかったはずだ。今の自分を形作るほとんどすべてが存在しなかったかもしれない世界線は、恐ろしい。
――自分が、自分であってよかった。
まだ振り返るには短い人生を振り返って、アルタはそう思う。取り返しのつかない間違いだらけの選択を重ねてきたとしても、今この瞬間を今の自分で生きていることに、後悔はない。
「……そろそろ行こう」
アルタは言って、宿舎に背を向ける。
宿舎だけでなく、今日は中央教会全体がどこかひっそりとしている。声授祭で賑わう町の雰囲気と対照的なその理由は、〈鐘〉の不在だろう。祭りの三日間、〈鐘〉は各地を回って詠唱するため、すでに中央を離れていた。姿が見えないのは普段も変わらないのに、塔にいないというだけで、教会内にはぽっかりと穴があいたような喪失感が漂っていた。
セシルと共に広場に戻ると、そこにはすでに馬車が待機していた。そのすぐ傍に、人影が二つ。こちらに気づき、大きく手を振ったかと思うと、厚く積もった雪の上を全速力で駆けて来る。……ユッシだ。
「アルタ!」
駆けて来た勢いのまま抱きつかれ、アルタは後ろにひっくり返りそうになった。
「本当に行っちゃうの? やっぱり気が変わったってことには……ならない?」
身体を離し、顔を上げたユッシは泣いていた。小さな子どもみたいにぽろぽろと涙を零している。その様子に、アルタは思わず笑った。
「気は変わらない。自分で決めたことだから」
「嫌だ。アルタがいなくなったらつまらなくなる。行かないで」
「ユッシ、ありがとう。ここに来て最初は全然馴染めなかったし、結局最後までそれは変わらなかったけど、きみがいてくれてよかった。出逢えて、よかった」
楽しかった、と、アルタはその背中をさすった。
ユッシは唇を引き結ぶと、再びアルタに抱きつき、鼻を啜った。
「また絶対、会えるよね?」
「…………」
アルタは問いかけに応える代わりに、ユッシを強く抱きしめ返した。
ユッシの肩越し、軍事部副長の姿が目に入る。相変わらず表情はなく、こんな時でも何を考えているのかわからない。
(……特に何も、考えていないのかもしれない)
もうすべては決まったことだから。
……〈鐘〉にはなれなかったが、アルタの過去の罪が公になることはなかった。アルタの声授の秘密も、これから西の大国に向かう本当の理由も、だからセシルやユッシは知らない。知っているのは、副長と専属警吏だけだ。これは彼らの配慮というわけではなく、アルタの罪が公になることは、〈声〉の秘密が公になる危険性を孕んでいる。今、この国が不安定な状態にある中で、わざわざ内側から火種を蒔くこともないと判断したのだろう。
セシルやユッシは、アルタが西の大国に声果隊員として「派遣」されると思っている。目的は、政治的な交流の一端を担うため。その「交流」が具体的にどんなものなのか、副長が「それはお答えできません」と言えば、セシルたちはうなずくしかない。アルタはしばらく帰って来ることはできず、手紙などで誰かと連絡を取り合うことも情報漏洩が懸念されるため難しい、ということになっていた。
言葉が違うだけで、実際も事情は変わらない。ダンから教えられていた通り、アルタは西の大国に「取引」のサンプルとして引き渡されることになった。一応「非人道的な扱いはしない」という合意内容になっているらしいが、行った先でどうなるかはわからない。
この新たな「取引」が成立したことで、西からの経済的圧迫は一部解除された。それでも東は変わらずプレッシャーをかけてきており、武力による直接的な攻撃は今のところ免れているものの、いつまでこの状態を保てるのか、その先でこの国はどうなっているのか、それもまだ未知数だ。
(そういえば……)
アルタは周囲を見回す。この場にダンの姿がないことに気づく。特に世話になったわけではないが、別れの挨拶くらいはしておきたかった気もする。
(だけど、しょうがない)
ダンは、〈鐘〉の専属警吏だ。今頃は〈鐘〉の遠征に付き添って、どこかの町で〈鐘〉を見守っていることだろう。
「そろそろ時間ですね」
副長が静かに告げた。
ここから馬車で国境である森の果てを目指す。日数を要する長い道のりになるが、道中は副長が付き添ってくれることになっていた。
……最後にもう一度。アルタは、セシルを振り返った。セシルは腕を伸ばし、アルタを強く抱きしめる。
「あなたの声を、また聴かせてね」
そう言って、額をそっと合わせた。
アルタは馬車に乗り込む。雪の上を馬がゆっくりと走り出すと、セシルやユッシの姿がどんどん遠ざかっていく。そしてあっという間に中央教会が小さくなる。
声授祭で賑わう町を、馬車は行く。
途中、休憩と宿泊を何度か挟み、数日をかけてようやく森に辿り着いた。
森の中も深々と雪に覆われていた。あらゆる音は吸収され、動物の気配もなく、緑のにおいもなく、真っさらな静けさだけがどこまでも続いている。
……長い時間走り続け、やがて馬車は止まる。副長に促され、アルタは先に降りた。
木々の合間から、遮る物のない広大な雪原が見えた。アルタはふと逸話の司祭の故郷を思い出した。季節は違えど、目の前の景色はあの町の雰囲気とよく似ていた。つられるように、はじめて人々の前で〈声〉を使って詠唱した時の気持ちが蘇った。
「…………」
少し離れたところに馬車が見える。傍らに、見慣れない服装の男性が立っていた。西の大国の遣いだろう。
アルタはそちらへ向かって、一歩、踏み出す。
――国を、出た。
視界が一気にひらける。空の青が、雪の白が、はてしなく横たわっている。圧倒的な鮮やかさが胸に迫る。鳥が鳴いた。アルタの背後、森から飛び出して来たらしいその小さな姿は、青空を滑るように旋回する。地平線の向こうを目指しながら、澄んだ空気に力強い鳴き声を残していく。
(好きだ)
アルタは思った。
誰にも負けないくらい。歌うことが、大好きだ――……。
喉が、震えた。大きく息を吸い込んだ。




