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かざす花  作者: ななえ
番外編
68/68

嵐の夜

壮司・巴、大学二年の初夏。R-15です。

※この話は単体でも読めますが、『初恋の君へ』の『スタート・ゼロ』とリンクしています。

 壮司は何とも言いがたい思いを抱えて、左右を竹林に挟まれた石段を上がっていた。

 時刻は夜半、梅雨冷えの氷雨が視界を覆う。闇夜の路の両脇に配された石灯の火が、強風に妖しく揺らめき、言い知れぬ不穏さを醸し出す。

 日暮れから雨が降りだし、風も強まった今では嵐の様相を呈している。あまりの勢いにけぶる雨に邪魔されて一寸先も見えやしない。その異界に続くような路を、壮司は修行僧さながらの険しい顔つきで登った。

 この上には壮司の実家――養家である古賀家がある。四月に家を出て以来、何かと忙しく、帰るのは久々だった。

 前に帰ったのは、五月の連休だったか、と呑気に考える余裕もなく、石段を登りきり、人気のない境内を進む。その先にあるのは堂々たる趣きの日本家屋だ。今宵は風が強いため、庭の外灯には火が入っておらず、月明かりのない夜が、巨大な母屋をいささか不気味に見せていた。

 すりガラスが入った玄関の格子戸の前に立ち、壮司は呼び鈴を押した。この一昔前の姿を留めている家には呼び鈴だけでインターフォンなどない。すぐさま人が玄関に向かってくる足音がした。

 格子戸が風で揺れる。そのガラス越しに、ほっそりとした人影が映っていた。

「……どちらさまでございますか?」

 若い女の声が、ためらいがちにこちらを誰何する。無理からぬことだ。人を訪ねるには夜が更けすぎている。それに壮司は今夜帰ることを伝えていなかった。

「俺だ」

 玄関の引き戸を隔てた向こうにいるのが巴だとわかっていたので、壮司は短く答える。すぐさま解錠され、戸が横にすべった。

「壮司」

 こちらの姿を認めた途端、寝間着姿の巴が驚きとともに顔をほころばせる。お互いそろそろ前期試験に向けて時間がなく、特に医学部である巴の勉強は厳しく、最近会っている暇がなかったのだった。

「どうしたんだ、いきなり。驚いたよ」

 こちらを招き入れた巴の口調は朗らかだった。その明るさに、壮司は複雑な気分になる。――不自然に明るすぎやしないか。

「ともかく驚いたが帰ってきてうれしいよ。お腹は? あいにく今日は家に私一人でな。ろくなものはないんだが。今、タオルを持ってくる」

 にこやかによく話す巴を、常の壮司なら、自分が帰ってきたことを単純に喜んでくれているのだと思って、気にも留めなかったかもしれない。だが、今の壮司にはその饒舌さが巴の演技に感じる。何かを隠すための演技に。

「外は雨がすごかっただろう? 湯を沸かすから入るといい」

 壮司に真っ白で清潔なタオルを手渡しながら、巴はいつもよりもわずかに早口で話している。壮司は、巴が新たに話を始める前に口を開いた。

「――お前はなぜ俺が帰ってきたか聞かない」

 玄関の三和土にいまだ立っていた壮司は、板の間にいる巴を見上げて言った。何かを話しかけていた巴の口が止まる。風にあおられ、外の木々が上げる悲鳴が、落ちた沈黙を埋めた。

 こんな嵐の夜に帰ってくるなど、よほどの理由がなければしない。驚きとともに真っ先に尋ねてしかるべきだろう。それをしない巴は、壮司の帰省の理由をわかっていながらも、その話題を意図的に避けているように思えた。

「俺はお前に話があって来た」

 巴の表情から笑みが消えた。壮司の濡れそぼった髪から落ちた水滴が、やけに大きな音を立てて、床に落ちる。

「由貴也から聞いたと言えばわかるな」

「あれはもう済んだ話だ。お前が気にする必要は――」

「それは聞いてから俺が決める」

 ぴしゃりと言い切ると、巴はもう何も言うことなく、口をつぐんだ。先程までとは一変して、空気が重くなる。

「……とにかく湯を使ってくれ。それでは体に障る」

 しばしの沈黙の末、張り詰めた空気の中で巴は言った。壮司は嵐をくぐり抜けて来ており、当然上から下までずぶ濡れだ。加えて、雨によって下がった気温が、体温までも奪い始めていた。

「着替えるだけでいい」

 壮司はおおざっぱに雫が垂れる髪を拭き、靴を脱いで板の間に上がる。そのまま巴の横を抜け、自室のある離れに直行する。とてもじゃないが風呂になど悠長に入っていられない。一刻も早く、巴と話をしたかった。

 一月半ぶりに入った部屋で、体をふいていると、着替えを持った巴が入ってきた。壮司が室内着である藍色の浴衣に袖を通し、襟を整えていると、巴が帯をすばやく回す。そのまま適度な強さで帯を結んでくれた。今はその行動に、夫婦のような面映ゆさを感じている余裕もなかった。

「私も着替えてくるから、少し待っててくれ」

 巴はまだ寝間着の白い浴衣に紅の羽織姿だった。自分の着替えよりも、濡れて体の冷えた壮司の着替えを優先させてくれたのだろう。

「いいから座れ」

 出ていこうとする巴の腕をつかんで座らせる。あれこれ考えを巡らせながら、着替えている間、巴を待つなど考えたくもない。

 壮司のただならぬ様子を察したのか、巴はおとなしく畳に座した。

「今日、ばあさまはどこにいる」

『今日は私しかいない』と言っていた巴に改めて尋ねる。いきなり核心をつくのではなく、壮司は少し遠回りをした。この件に関して、容易に口を開こうとしないであろう巴を外堀から攻めていくためだ。

「由貴也から聞いて大体のことは知っている。詳しく話せ」

 あらかじめごまかしはきかないと釘を指しておくと、巴はしばしの逡巡の上で話し始めた。

「春からあまり体の具合が良くなくてな。今は検査入院している」

 由貴也から簡単には聞いていたものの、巴の口から改めて聞くとショックを受ける。愚かにも、壮司は自分のいない間も、祖母の采配で古賀家は万事滞りなく日々を営んでいると思っていた。祖母が高齢であることはわかっていながらも、あの一分の乱れも見せない人が倒れるとは思っていなかったのだ。

 一通り、巴から祖母の容態を聞き、それが歳の病で、重篤でないことを確かめてから、壮司は口を開いた。

「お前は、ばあさまもいない、俺にも言わなくて、どうやって由貴也との結婚話を断ろうとしていたんだ」

 極力責める響きを入れないように気をつけながら、壮司は問いかけた。

 由貴也から電話がかかってきたのは今日。彼の父母が巴と由貴也との結婚を企てている、とごく簡単に話しただけだった。由貴也の両親が巴と彼を妻合わせようとするのは今に始まったことではないが、今回はやや趣が違った。いつもだったら歯止めとなる祖母が前後不覚の状態に陥っており、壮司も家にいなかった。そしてこの隙にと彼の両親が強引に、しかも現実味を帯びて結婚を実行しようとしたのだ。相手の由貴也の方にも両親に逆らえない事情があり、巴が孤立無援の状態だということは容易に想像できた。

「私はお前としか結婚する気はない!」

 巴がすぐさま身を乗り出して反論してきた。握った拳が震え、巴の必死さを物語る。

 壮司は嘆息しそうになるのをこらえながら、自分が持ってきた鞄を引き寄せる。壮司から言わせると巴は甘い。その甘さをわかっているから壮司はあらかじめこの準備をしてきた。

 巴の前にバッグから出したあるものを置く。巴はただ怪訝そうにそれを見ていた。

「結納金だ」

 巴の答えを問う目に言葉を与える。自分たちの間にあるのは銀行から下ろしてきたばかりの札束だった。

「五十万ある。相場には足りねえから返しはいらん」

「五十万って、いったいこれをどこで……」

「あやしい金じゃねえ。俺の貯金だ」

 壮司は年がら年中バイトに明け暮れている。不測の事態に備えて貯金は常日頃からしていたし、後期に納入する大学の授業料分も下ろしてきたので、何とか五十万を賄うことができた。

 いまだ事態が飲み込めていない巴に、壮司は断じた。

「正式に婚約するぞ。そしたら伯父さんたちだって何も言えなくなる」

 結納を交わし、将来結婚すると公にすれば、それを引き離すような真似は外聞が悪い。さすがの伯父たちもできなくなる。今、多少無理をしてでも巴を自分のものだと誇示するために、壮司は結納を交わしたかった。

「お前、こんな大金を出したら、生活が……」

「これで片がつくなら安いもんだ」

 困惑する巴の言う通り、確かに五十万の出費は貧乏学生の壮司の生活をたち行かなくさせるものであったが、彼女に言った台詞は嘘偽らざる本音だった。

「無理をするな。こんな大金、受け取れるはずがないだろう」

「今、無理しなくていつすんだ」

「こちらのことなら心配しなくてもいい」

「お前が思ってるほど伯父さんたちは甘くねえだろ!」

 気がついた時には慎ましやかに五十万の束を指先で押し返してきた巴に、声を荒げていた。

 だが、おとなしく怒鳴られている巴ではなかった。即座にきついまなざしが壮司へ向けられる。

「由貴也とは結婚しないと言っている! 私がそんなにも信用できないのか」

「信用の問題じゃねえ。お前の意思なんか関係なしに伯父さんたちはお前たちを結婚させられるだろ」

「私が黙って結婚させられると思ってるのか!」

「お前の抵抗なんて、簡単にねじ伏せられんだろうが、あの人はっ」

 自分の声が室内で反響している。激しい応酬の熱気を飲み込んで、壮司は一旦黙った。一族内で微妙な立ち位置にある壮司にはともかく、巴に対して伯父はそんなに常識外れた振る舞いをすることはなかっただろう。だから巴はいまいち伯父たちが巴に無理矢理何かを強いるということを理解できていない。だから甘いのだ。

 冷静になれ、と自らに言い聞かせる。火種がくすぶっていることを自覚しながらも、表面上は落ち着いたことを確認し、壮司は言葉を発する。

「――お前、今回このまま話が進んだらどうするつもりだったんだ」

 一連の騒動は、由貴也が一年という猶予期間を提示したことで、一応の決着を見た。巴の抵抗とやらが効を奏したわけではないのだ。

「そんなことにはならない。第一由貴也にも私にも結婚する気はないのだから」

「お前らの気持ちの問題じゃない。伯父さんらはお前たちの結婚に益があるから推し進めてんだろうが」

 なぜ巴がそんなことぐらいわからないのか、壮司には理解できない。伯父伯母の目的は総領娘の巴と自らの息子の由貴也に婚姻を結ばせ、古賀家の相続権を得ることだ。二人の気持ちが通じあってるか否かなど関係ない。

「違う。伯父さまはあれでも由貴也を愛している」

 巴はきっぱりと言いきったが、壮司にはにわかには信じがたい話だった。あの冷徹な伯父が、狡猾な伯母が由貴也を一番に考えて巴と結婚させようとしているのか。

 とは言っても、壮司がそれは違うと喰ってかかったところで、話は平行線をたどるばかりだ。壮司はとりあえず百歩譲っても、話を進めるために巴の主張を受け入れることにした。

「じゃあ、由貴也がお前と結婚したいって言ったらどうすんだ。伯父さんたちはそれこそ全力でお前らを夫婦にしようとするぞ」

「そんなこと、あり得るはずがないだろう。由貴也はもう私のことを好きではないんだぞ」

 警戒心がまるでない巴の言い草に、壮司は頭を抱えたくなった。どうして“可愛い由貴也”のことになると巴の判断はとたんに鈍るのだろうか。

「由貴也はお前のことが死ぬほど好きだったじゃねえか」

 由貴也の強力な背後と、彼のかつて抱いていた強い想いを考えれば、葬り去ったと思っていたはずの過去の恋が、現在進行形としてよみがえってもおかしくない。

 由貴也の想いを勘ぐるような言葉を発した瞬間、巴の瞳に怒りの灯火が点いて揺れた。そのまなざしはまぎれもなく、お前に由貴也の何がわかる、と壮司を責めていた。

「由貴也のことは、お前よりも私の方がわかっているっ!」

 巴の今日一番の怒声に、部屋の四隅が震えた。壮司は言葉が継げなくなる。が、自分の冷静な部分が急速に失われていくのがわかった。

 心の根本的な部分に同類項が多く抱える巴と由貴也には、壮司が相容れない部分が確かにある。それは理解していたつもりだったが、今この場面でまざまざとそれを見せつけられることがどれほどの屈辱か、巴にはわからないだろう。

 恋人である自分よりも、他の男の心情を慮り、怒る。自分は何なのか、彼女と付き合っているのは誰なのか――気がついた時には、巴の肩をつかんでいた。そのままゆっくりと、しかし抵抗を許さず畳へ押し倒す。

 巴の艶やかな緑の黒髪が畳に広がって呼吸しているかのような輝きを放つ。その髪の上へ無造作に放り出された手を、壮司は上から押さえつけた。

 押し倒された衝撃が去ったのか、巴がのしかかる壮司の下で薄く目を開ける。

「壮司……」

 さすがの巴も、失言に気づいたのか、この状況に対する困惑の中にも、後悔の色をにじませていた。だが、もう壮司の中で暴れる凶暴さは止まらない。由貴也に優しすぎる巴。それが由貴也をふったことに対する罪悪感からくるものだとわかってはいても、顕在化した苦々しさが、壮司を駆り立てた。

「壮司。悪かっ――」

 謝ろうとする巴の唇を無理矢理ふさぐ。黙ってろ、と低く言葉を発する代わりだった。

 巴のことをまったく考えていない、強引で乱暴な口づけだった。彼女の口腔を犯し、自分の支配下に置く。

 お互いの唇を重ね合わせたままで、巴が抗議のくぐもった声を上げた。なおもそれを無視し、彼女の唇をむさぼり続ける。

 長い時間の後でやっと唇を離すと、巴は荒い息をつきながら、ぐったりと畳の上に横たわっているだけだった。壮司の手の中にあった巴の手首は、力なく垂れ下がってる。

「おざなりな謝罪なんて聞きたくねえよ」

 どうして自分に何も言ってくれなかったのか。後から人づてにこの事態を聞かされる自分の気持ちは考えてくれなかったのか、会うたびに「変わったことはないか?」と聞いた自分の言葉に、どうして「何もない」と答えるのか。マグマのように熱した感情が次から次へとあふれてくる。

 こんなことになっているとわかっていたら、何を投げ出しても、お前を守りに行ったのに――。もうどうしようもない後悔が、壮司をさらに尖った気分にさせる。

「そう、じ……」

 先ほどの深い口づけの余韻でまだ定まらない焦点をしながらも、不安げな瞳が下から壮司を見上げている。

 壮司は自分の中に、制御のきかない熱した気持ちがあるのと同時に、冴々とした冷酷さや残忍さもあることも自覚していた。自分には何も言わない。結納にも応じない。その巴を伯父たちに手出しのできない自分だけのものにする方法がひとつだけあった。

 今宵、この家には他に誰もいない。

 巴がこれから行われることを察したのか、両手を捕らえられたままで膝を立て、足裏で畳を擦って後退りしようとする。

「逃げんな」

 その巴にのしかかって動きを封じる。白い夜着と相まって、巴は標本に縫いつけられた憐れな蝶のようだった。

 巴の動きを完全に封じて、自分の体の下にある彼女の姿を見る。巴を伯父たちにも手出しさせない唯一の方法――それは彼女を今ここで抱いてしまうことだった。

 壮司が巴に手をつければ、彼女を他の男に嫁がすわけにはいかなくなる。今どき、と言われかねないことも、この古めかしい一族では十二分に通用する。何より、巴に貞淑さを求める祖母が、そんなことを許しはしない。

 誰にも、巴を奪わせはしない。

 地上のものをすべてなぎ倒そうとするような風に、家中の梁が鳴った。その中で、壮司は鈍重ともいえる動きで巴に迫る。

 巴は、この後の展開はわかっているのだろうが、どうしていいかわからない、という顔をしていた。同時に、信じられないという顔でこちらを見ている。

 何が信じられないのか。壮司が突き詰めて考えたその時、自分の中で何かが割れた。

 巴は壮司の豹変に思考がついていけていないのだ。いつだって壮司は彼女の前では優しくありたかった。大切に扱いたかった。そういう良い面しか見せたくなかった。そうして、内外にも自分が巴にふさわしい男だと認めさせたかった。

 だが、もうそんな悠長なことを言っている暇などない。次に由貴也の親がまた、同じようなことを仕掛けてきたらどうする。万が一由貴也がその気になったらどうする。もう手段など選んでいる場合ではない。

 一度、遠ざかった怒りや冷たさを呼び起こす。ただ無害な男の顔をして巴の横にいるだけでは、彼女を持っていかれてしまう。

 焦りが壮司を突き動かす。流れ込んできた躊躇を振り払うように再び巴へ迫る。声すら出せない彼女の顔に、影がかかった。

 獣が獲物を食らうように、壮司は巴ともう一度唇を重ねようとする。だが、巴は寸前で顔を反らせた。それが混乱と恐怖からの行動であることがわかっても、壮司は許さなかった。代わりに露になった目に痛いほどに白い首筋に唇を落とす。巴の細い体がさらに強ばったのがわかる。

「壮司、待て……まっ」

 待ってという言葉の末尾に食らいつく。巴に逃げ場などないのだとわからせるように、より深く唇を合わせる。

 気持ちのどこかが急いでしまう。どこかが巴とふれあっていないと安心できない。触れあっていても心が何かを責め立てる。

 誰も、俺から巴を奪わないでくれ――!

 胸の中で渦巻き、叫ぶ激情が、自分を自分ではないもののように動かした。

 紅の羽織から、巴の腕を抜き、脱がせる。それを畳にぞんざいに放り投げると、白い寝間着一枚になった巴がびくりと肩を震わせる。その反応をささいなものと無視してしまうほどの殺伐さが、今の壮司を占めていた。

 彼女のきっちりと合わせられた浴衣の襟元をくつろげ、たゆんだそこから手を差し入れる。何もへだてるものがないなめらかな素肌が、壮司の指先に触れる。身を固くする巴をほどくように、愛撫をほどこしながら、開かれた胸元へ唇をよせて痕を残した。巴はただなされるがままになっていた。

 やわらかな素材でできた帯に手をかける。ためらいはなくなっていた。

 巴は俺のもんだろう――。そう思いながら、帯を引く寸前に何かが引っかかる。見ないふりをすることもできる小さな違和感だったが、なけなしの理性が立ち止まって考えることを求めた。

 なあ、と自分に問いかける。巴は“物”なのか。感情もないただの所有物なのか。さっきから今まで、巴のことを思いやってやったことがあったのか。

 そう思った瞬間、すっと、背中から体温が下がっていくのがわかった。急に視界の靄が消える。

 体を起こし、下にいる巴を改めて見た。目に涙をためて、唇を噛んで、必死に耐えている姿がそこにはあった。抵抗もせずに壮司の前に身をさらす巴は、捧げられた贄のようで痛々しい。

 怒りやいらだちや焦りが急激に冷めていく。自分は何をやっていたのか。おびえととまどいのサインを全部踏み倒して、巴を力でねじ伏せようとしていた。

 怖がっているせいで蒼白な巴の顔に手を伸ばす。頬に触れた瞬間、こらえていたのだろう涙がついに落ちた。それを指の腹でぬぐってやりながら、頭をそっとなでる。

「悪かった」

 巴の乱れた着衣を整えてやっていると、涙で濡れた目が下から壮司を見ている。見る間にその目に必死さが浮かび上がってきた。

「いいから! 大丈夫だからっ。我慢するから」

 巴の手が、彼女の浴衣の襟元を直していた壮司の腕をつかむ。悲鳴のような叫びは、ひとえに壮司に嫌われたくないがための言葉なのだろう。そして最後の一言は、偽らざる巴の本音なのだろう。

「我慢しなくていい。こういうことは我慢するようなことじゃない」

 紅の羽織を巴の上にかけてやり、なだめるようにその髪をすいた。いくら伯父たちから巴を奪われないようにするためだといっても、巴を我慢させるようでは何の意味もないと今になって気づく。

 また泣かせちまった、と苦々しく思いながら、ぼろぼろと次から次へと涙をこぼす巴をやわらかく抱きしめた。巴の様子は張りつめていたものが切れたようで、壮司は自己嫌悪の嵐に見舞われる。

「そんなに泣くな。もう何もしねえから。怖い思いさせて悪かった」

 子供をあやすように背を弱く叩き、髪をなで続ける。正気に戻った今は、こんな巴に無体を強いる気にはとてもではないがなれない。

 巴は壮司にしがみつきはしなかった。ただ、壮司の腕の中で手で顔を覆い、身を縮こまらせて泣き続ける。そういう弱々しい姿を見ると、自分を殴り倒したくなるような衝動に駆られた。

 巴をなだめながら、自分をも落ち着かせていたのかもしれない。次第に警戒心が薄れてきたのか、泣きじゃくっていた巴がそろそろと壮司の浴衣をつかんだ。遠慮がちだが、こちらに触れてきたことに安堵する。

「このまま寝ろ」

 巴の背を休まずなでながら、壮司はそっとささやく。ただでさえも泣くと眠くなる巴だ。体が熱くなるほど泣いた今ではぼんやりとした目つきをしていた。

「……今までお前に言わなかったのは」

 泣き疲れて、かすれたかすかな声で巴が言った。

「帰ってくると言うと思ったんだ。こんなことになっていると知ったら家に戻ってくると」

 そうだともそんなことはないと言うこともできず、壮司は巴の言うことに耳を傾けた。今度は自分の感情を高ぶらせて、巴を傷つけるような真似はしない、絶対に。

「せっかくこの家を出て一人暮らしを始めたのに、私のせいでそれを台無しにしたくなかった……逆にそれでお前を不安にさせていたのにな」

 自嘲気味に巴は弱く笑う。それからまた止まりきらない涙をこぼした。

 自分の腕の中の巴に壮司は申し訳なさが募った。自分は巴に我慢をさせてばかりだ。伯父伯母がこうして自分たちの仲に横やりを入れるのは、半人前の壮司には何もできないと思っているからなのだ。事実その通りだ。

 恋人という、固いようで何も確約のないもろい関係。自分たちをつなぐのは不可視の絆しかない。だから壮司は誰に邪魔されようとも泰然としていられるだけの余裕が欲しかった。巴を自分だけの、他の誰にも手が届かない存在にしてしまいたかった。

 焦りがよくない結果しか生まないというのはもう十二分にわかっていたというのに。自分の力のなさを痛感する。

「……それに、きれいな理由だけではないんだ」

 まどろみの縁にいるような声で巴が続ける。

「私は由貴也がかわいいから、できる限りのことをしてやりたかった。それにはお前に知られない方が都合がよかった」

 できる限りのこと――今回由貴也は陸上を交換条件に出されていた。巴はそれを撤回させたかったのだろう。今回の事態を壮司が知っていたなら、もう絶対に巴を伯父との交渉事の表には出さない。由貴也が大切で、彼の親である伯父伯母に悪感情を持っていない巴が強く出れないことを知っているからだ。

「それで伯父さまにお前がまた嫌なことを言われるのが嫌だった」

「今さら、何言われたって構わねえよ」

 壮司は複雑な出自から伯父伯母に散々な嫌みを言われて育った。それが増えるとしても、今回の事態が収まるならむしろ喜んで引き受ける。

「お前は勘違いしているようだから言うが、私は伯父さまも伯母さまも好きではない」

 眠りに片足踏み入れていながらも、存外しっかりした巴の断言に壮司は驚く。例え壮司と二人っきりの今であれ、目上のものに対する好悪を口に出すなど、この古賀家では許されることではなかったからだ。

「由貴也の親であれ、お前を理不尽に悪く言う人のことを好きになれるはずがないだろう」

 伯父伯母は巴や由貴也の前では、極力壮司にえげつない行いをするのを避けていたが、それでも巴は知っていた。

「お前が嫌なら、いつだって伯父さまたちと断絶したって構わない。結納もそれで――……」

 お前が安心するなら、とつぶやいて巴は眠りに落ちた。

 外はいまだに荒れ狂っている。嵐の音に耳を傾けながら、壮司は巴の寝顔を見ていた。

 涙で頬にはりつく髪を払ってやりながら、壮司は考える。どうするのがいいのだろう。巴をこんなふうに傷つけずにいるにはどうすればいいのだろう。

 一番は自分が激昂しないことだ、と痛烈な後悔とともに考え、少し冷静になろうと巴から離れた。

 畳に横たわる巴はまったく起きる気配がない。あんなに泣いたのだから無理もない。もう初夏だというのに猛烈な雨は冷たく、肌寒い。壮司は布団を敷こうと押入れを開けた。

 引き戸をすべらすと、柔い香りが壮司を包んだ。よく干された布団から、日だまりのにおいがする。いつ帰ってくるかわからないのに、毎日干していてくれたのだろう。今夜、出迎えてくれた時に見せたうれしそうな顔は決して演技ではなかったのだ。

 込み上げてくる苦さを飲み込んで、壮司は手早く布団を敷いた。自らの愚かさに打ちのめされるのは、後でもできる。

 目にも白いシーツの上にそっと巴を横たえる。布団をかけようとすると、その目がふっと開いた。

「壮司……どこ行く」

 今にも霧散しそうな声で巴が呼びかけてくる。きちんと覚醒しているかどうかもあやしい様子だ。

「どこにも行かねえよ」

「帰らないで……」

「ここにいるから。安心して寝てろ」

 伸びてきた巴の手に応えて抱き返す。本当は少しひとりになりたい気分だったが、そうもいかなかった。

 なし崩し的に添い寝をする形になってしまった。甘えたな猫のように壮司の胸に頬をつけて眠る巴に、胸の中でごめんな、と謝る。きっとずっと壮司が帰ってくるのを待っていたのだろう。

 おそらく一番いいことは、頻繁に壮司がここに顔を出すことだ。そうすれば祖母のことも、巴のことも見逃すことはなかった。例え巴が口をつぐんでいても、肌で異変を察せられたはずだ。自分と巴の問題を――いや、自分の力不足ゆえの問題を、巴ひとりに背負わせてしまった。抱きしめる巴の体は細くて頼りなくて、この彼女に負担をかけていたと思うとたまらない気分になる。

 それにしてもこの体勢は非常にまずいのではないだろうか。ああいうことをした後なのに、巴は無防備すぎた。

 こわいもの見たさに近い気分で、おそるおそる下に目をやると、壮司が簡単に直しただけだった巴の浴衣がはだけて、白い肩が見えていた。壮司はあわてて目をそらし、掛け布団を引き上げる。巴の体をすっぽり覆い隠した。

 その拍子に、巴がやけに艶めいた吐息を漏らし、寝返りを打つ。仰向けになった壮司の胸板に頭を乗せ、すやすやと寝ている。その投げ出された手は壮司の肩にかかっていた。その誘われているとしか思えない体勢に、狙ってんのか、と苦悩する。だが、巴は壮司の上で完全にかつ安らかに寝ていた。

 壮司は息をつきながら、その体に腕を回して安定させてやる。それを巴は抱きしめられていると勘違いしたのか、眠っていながらも、さらに体をすりよせてきた。心の中の自分が止めてくれと全力で叫ぶ。

 持てる力を総動員して、理性をつなぎ止める。二度ともう巴の意思に反したことはしたくない。

 このままで一晩。気の遠くなるような苦行だったが、自分がしでかしたことを鑑みれば、当然の罰なのかもしれない、と巴の頬に残る涙の痕に壮司は思った。

 外は相変わらず、豪雨と強風が暴れ狂っていた。





 壮司は庭の木々が梢から朝露を滴らす音で目を覚ました。

 障子を透かして、朝日の射し込む明るい天井が見える。昨日の嵐が嘘のように快晴だ。

 体の上から重みが消えている。布団の中には壮司しかおらず、部屋を見回しても、巴の存在を感じさせるものはなかった。

 明け方近くまで起きていた、いや眠れなかった壮司は寝不足だ。よく働かない頭に手を当て、しばらく仰向けのままでいた。昨夜の記憶が流れ込んでくる。

 自分の愚行の数々に死にたくなるが、それへの反省は後で存分にやるとして、脇に置いておいておく。起き上がり、布団を上げ、身なりを整えた。

 顔を洗い、洗面所から出たところで、朝餉の膳を持った巴と行き会った。妙な間が空く。

「……おはよう」

 壮司が普段通りを装い、先んじて口を開いたが、成功したとは言い難かった。巴も「……おはよう」と返してくるが、互いに床に視線を向け、赤面している状況だ。最高に気まずい。

「……きょ、今日はこっちの客間で食事をとらないか。ふたりだし」

 巴が声を裏返らせながらも、懸命にこちらに話しかけてくる。壮司も「ああ、そうだな!」と不自然に大きくなってしまった声で応じる。

 普通通りにと念じても、夜の記憶が邪魔をする。こころなしか巴の淡い水色の着物の襟元も、いつもよりきっちりと合わせられている気がする。

 壮司の部屋がある離れには、洗面所や浴室などの水回りはもちろん、玄関も独立してあり、訪問者を通す客間まである。元々、精神を患った母が、母屋に姿を見せて家族以外の人と対面するのを避けるためにしつらえられた建物なのだった。

 巴に続いて客間に入ると、木目調の座卓には温かい朝食が並んでいた。焼いた鮎に、きゅうりの浅漬け、豆の煮物、茄子の味噌汁など旬の献立が食欲をそそる。

 巴が戸口近くの下座に座ったので、壮司は上座に腰を下ろす。巴からちらりと視線を向けられ、壮司は手を合わせた。

「いただきます」

 壮司が言うと、後に続いて巴が「いただきます」と唱和した。

 上座につくのも、いただきますの号令をかけるのも、いつもは義父がやることだ。それを今は自分がやっている。ふたりきりの食卓といい、新婚夫婦のようで、壮司は照れくさい。けれども穏やかな気持ちが胸に満ちた。

 粛々と食事は進んでいく。巴とふたりきりといえども、長年の習性で食事中はあまり会話をしないのだった。

「壮司」

 食後のお茶をふたりでのんびりと飲んでいると、巴が呼びかけてきた。壮司は反射的に顔を上げる。

 巴の顔をまともに見たのは今が初めてで、泣き腫らした目が痛々しかった。

「……そんな顔をしないでくれ」

 自分は知らず知らずのうちに顔を曇らせていたらしい。巴が居心地の悪そうにうつむく。

「昨夜はその、泣いたりして悪かった。少し、驚いただけで、お前が嫌だとか、そういうわけではなく……」

 たどたどしく言い訳をする巴に壮司はいたたまれなくなる。

「お前が謝ることじゃねえよ。俺こそ怖い思いさせて悪かった。もう二度とあんなことはしないって約束する」

 昨夜のことを口に出すと、お互いにまたうつむいて赤面するはめになる。二十歳の男女ではなく、まるで中学生のようだ。

「あのな……それで、結納のことなんだが」

 いつもよりも格段に小さな声で話す巴に、「それはもういい」と遮る。

「俺がもっと頻繁に様子を見に帰ってこればいい話だ。お前が嫌なら無理にとは言わねえよ」

「そうではなくて、結納は受けてもいいんだ。いや、それも違って……」

 歯切れ悪く話す巴は、いつもの理路整然さが失われていた。おろおろとしている姿を思わず新鮮だと思ってしまう。

「壮司はうちに婿養子に入るんだろう?」

「ああ」

 今さら聞くまでもないことを聞かれて、怪訝に思いつつ答える。壮司がこの家の婿養子になることなど、それこそ巴と正式に許婚になる前から決まっていたことだ。

「だったら、私がお前に“嫁ぐ”わけではないだろう?」

 ここまで言われても壮司はまだ巴が何を言わんとしてるのかわからない。巴がさらに言葉を噛み砕いた。

「だからな、お前が私に結納金を渡すのではなくて、私が……お父さまがお前に支度金として結納金を渡すのが道理だと思うんだが」

「………………」

 言葉が出ない。まったくもってその通りだ。

 昨夜から息巻いていた壮司だったが、肩透かしを食らった気分になる。何とも反応できず固まる壮司に、巴が笑った。

「理解したようだな。お兄さま?」

 からかうように、巴が上目遣いで壮司を見てくる。よくよく考えてみると、なかなかに複雑怪奇な状況だ。壮司は巴の実父とは養子と養親の関係だ。つまり巴の父は花嫁の父であり、花婿の義父なので、結納の送り手側でもあり、受け手側でもあるのだ。

 そして、壮司は巴とは戸籍上の兄妹だった。

「……その『お兄さま』は止めてくれ」

 壮司が力なく懇願すると、巴は音もなく立ち上がった。

「そうだな――」

 隣に座った巴の手が伸びてくる。

「お前は私の兄ではなく夫になるのだからな」

 壮司の首に腕を巻きつかせて、身を寄せてくる巴に、壮司は驚く。昨夜手荒に巴を扱ってしまったので、当分は彼女の方から触れてくることはないと思っていたのだ。

 壮司が驚いて目を瞬かせていると、巴はさらに強く抱きついてきた。

「……お前が二度と不安にならないように愛情表現をしようと思ってな」

 何なんだと混乱する壮司に、巴が持論を披露する。彼女の中では今回の騒動はそういう解決策に至ったらしい。

「――お前こそ」

 気がついたら壮司はつぶやいていた。

「お前こそ、由貴也のことなんぞ考える暇がないようにしてやる」

 壮司はいささかいたずらっぽく言い放つ。腕を回し、巴を抱き寄せる。視線が重なる。どちらからともなく見つめあい、そして、顔が近づく。昨夜とは違い、おだやかな空気が流れていた。

 朝食がそこで中断したのは言うまでもないことだった。

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