第87話
夕食を自分の料理で済ませ、皿洗いをする青年。時刻は午後の8時を過ぎた頃であり、テレビの中では世界のアッと驚くような現象や出来事を取り上げた番組が放映されている。が、彼の耳にはすぐそばで鳴り響く水の音と、カチャカチャと皿などがぶつかり合う音で、テレビの音などは入ってこなかったし、映像も確認してはいなかった。無表情のまま、ただ淡々と目の前にある残り洗い物を手で取り上げ、洗剤でよく洗っている。単純な作業であったが、その光景はほかの人から見るに、恐らく機械のような人間の姿、情景であっただろう。感情の浮き沈みも一切見られず、良く言って普通というもの。悪く言えば何もないように見えてしまう。自分が昔はこのような姿ではなかったことを、彼自身はあまり深く考えてはいない。まるで遠い日の出来事のように、本当に古い過去の話だろう、と勝手に振り返っていた。
皿洗いが終わると、机の上に置いてあったリモコンでテレビの電源をけし、今度は本棚の前に行った。無論、本はならべてあるがそれだけではない。高校生活で使う教科書やノーとがびっしり並んでいて、整頓されている。具体的に言うと、月曜日から金曜日までの週間日程で、その日ごとにどの教科が必要なのかを把握している彼なので、曜日ごとに教科書類を分けている。使った時は常に元の場所に戻すようにしているので、準備をするのに手間をかける必要がない。「明日の教科書どこやっちまったか!?」などと、とある男子高校生のように焦る必要も彼にはないのだ。だが、これもそれだけではない。やや広く大きめで収納スペースが多くあるこの本棚、中央からまるで扉のように開閉すると、更に奥に別の収納スペースがある。そこには筆記用具や小説などが並べてあったが、同時にファイルなども大量にあった。彼はその中から、迷うことなく一つだけファイルを取り出した。表面には何も書かれておらず、ただ何度もめくられた跡が残っており、傷感も気になるくらいであった。その中身を一枚一枚捲っては、あるページに辿り着くと止まってしまう。
そこに映っている、やや長身で細見だが、ハッキリとした良い笑顔の表情で、右手を使ってカメラにピースをしている男の姿。空いた左手は、隣にいる自分の左肩に乗せていた。
「…」
静寂の中に現れる、かつての姿、情景。それを思い出しては、彼の表情はやや沈んでいくばかりであった。
中学時代…彼、相坂零治は恐らくほかの人から見ても聞いても、普通では経験することのない境遇に出会っている。そう、その頃は『相坂』という苗字ですらなかった。一年生の頃から野球部に所属し、その腕前は三年生のそれを凌駕するものとして、一年生の間では少し噂になっていた。地区大会などにはじめは交代要員として参加していた。はじめは目立ちすぎず、だが徐々に頭角を現していった。誰もがレギュラーメンバーを確信し、その腕前を褒めたが、彼にはそのような声があまり届かなかった。彼にはただ毎日、朝決まった時間に置き、ごはんを食べ学校に行き、授業を終え放課後に部活、そして帰って夜ご飯、シャワー、読書や勉強、そして寝る、この生活リズムが確固たるものとして存在し続けていた。そのような状況を知る友達など多くはなく、また彼自身もそれを打ち明けたりはしなかった。悪く言えば、愛想のない中学男子だった。淡々としている彼に友人はあまり寄り付かず、たまに気にかけてくれる男子や女子もいたが、彼は彼なりにごく普通な態度、ほかの生徒からすれば興味なさそうに相手をしていた。
しかし、ある時そんな彼にも変化が訪れる。
「よーし零治!今日は競馬ゲームだぜ!!」
「よし乗った!ガッツリコイン頂くぞ!」
「言ってろ、させるかってんだ!」
…所謂、『族』と呼ばれる生徒たちとの、関係。はじめ、彼にとってはただの男子生徒でしかなかったその者たちだったが、彼らが徐々に自分たちの性格を表に出してくれることにより、彼も次第に彼らを受け入れるようになっていた。彼らの工夫、自分たちも素の姿を出すことによって、零治という存在、殻の中にこもった本当の姿を引き出そうというもの。その工夫の波に、彼は徐々に飲み込まれていった。当然、族の生徒たちがそのような善良じみたことを目的とはしていなかった。仲間を作る、仲間に入れる。言葉だけ聞けば確かに彼らは善良なことをしていたのかもしれない。しかし、本当のところは違う。彼らが目的としていたのは、零治を仲間に引き入れ、自分たちの色に染めること。つまり、族としての素の性格を開花させようとしていたのである。彼はそのまま人を変え始めていた。自分の手の届かないところで。
「…なぜ、お前はそんなことまでして…」
「友達だと、思っているからだ。悪いものに手を染めることはない、それだけが友達で居続ける方法ではない…!」
高校生の零治が、そのファイルを開けて見えた一枚の写真。そこに映っているもう一人の男を、坂上優二という。とても中学生には思えない正義感の強い男で、零治を真っ先に心配してくれた同級生でもあった。彼は、零治が族と呼ばれる集団生徒の中との関わり合いを深めていることを警戒し、それを彼らの届かないところで警告した。態々お前がそこに足を踏み入れることはない、と。優二には、ある目的があった。族と呼ばれる集団たちと陰ながら対立し、非日常的な生活を取り払う、と。非現実、非日常的なものが悪い訳ではない。しかし、族たちの生活は、その本章のすべてを考えれば明らかに反社会的行為もそれに含まれる。それに零治が巻き込まれることを阻止し、族たちを排除しようとしていた。彼がその目的を定めたとき、零治はまだ集団の中でやや浮いた存在であった。馴染みの浅いものであったからこそ、優二はその状態異常に素早く気付いた。零治が完全に一員になる前に、助け出そうと。
しかし、結果的にそれが原因で、事件は発生した。中学生の間でも学内暴力というのはたまにあるが、彼らが絡んだものはその規模ではなかった。幾度も暴力事件が発生し、それに巻き込まれる人が毎回同じであるなら、当然教師たちもその間柄に因縁のような関係が張り巡らされている、と予測することが出来る。
「テメェ…バラされてえのか…!?」
「お前らには何も残らない。何も残すものはない…!」
やがて、教育委員会が動き出した。マスコミ対策をし、公にしないように気を付けながら、教師たちよりも上の立場にある委員会は、報告を受け暴力行為と該当する家庭を、警察と協力して調査。そこで族たちの首領が判明し、その幹部と共に多くの犯罪を犯していることが発覚、補導された。優二の目的はこれで後に果たされることになったが、その代償は自分と、そして零治にも向いた。
普通であることを、一度拒んだ零治。だが、普通でないことも阻止した優二は学校には通えなくなり、転校。族たちも強制転校を指示され、それに対して何の反論も無かったことから、これが成立。こうして、零治は普通を取り戻すために生活を改め始めた。だが、零治に待っていたのは、族と関わることよりも更に更に重いことであった。『相坂』を名乗る前の零治は、この一件をきっかけに両親と離散することになった。簡単な言葉でいえば、育児放棄であった。育児と言われるほど零治は精神的に未熟な中学生ではなかった。むしろその逆であった。が、かえってそのような彼の『ある程度出来上がった気質』が、離散を確実のものとしてしまった。本来は親許にいながら保護観察を受ければ良いだけかもしれない。だが、親の手が行き届かなくなることを告げられた零治は、それを否定することが出来なかった。普通の零治に戻る最中のことであった。だが、彼らと関わる前の『普通の自分』を、この時彼は永久に失うことになった。
「…」
ファイルから取り出した一枚の、優二の写った写真。彼はそれを見つめながら、心のどこかでいまだに残り続けている、あの頃を鮮明に思い出した。
「なあ零治、お前本当は結構面倒見がいいって、言われないか?」
「え?」
「いや、ただ何となくな。俺が知る前のお前は、もっと色々なことに目を向けてたと、俺には思うんだよ」
「…ただの中学生だよ」
その時、零治は否定した。自分のことさえよく分かっていない時期も、彼にはあった。むしろ、それが当たり前なのかもしれない。長所というものは、自分で見つけられないからこそ、長所である、と昔の偉人は言った。ある日の、学校帰りのこと。雨上がりの空、雲の切れ間から差し込む日差しに照らされながら、二人は街の焦燥を高めで眺めていた。街はいつも忙しい、そんな光景に一体何年付き合っているのだろうか。同じ中学生である優二が、金網に右手を寄りかかせ、その位置から遠くの大きなビル群を見ていた。この金網の下は急こう配となっているので、落下防止の役割を担っていた。
「すまんな、お前には迷惑をかけて」
「…?」
「でもな、俺は自分のしてきたことに後悔はしたくないんだ。一番タチの悪い人間かもしれないけどな。こうするべきだろう、と思った時には動く。それが俺のやり方ってもんさ」
「…」
そういうと、優二は金網から離れて、地面に置いてあった学生鞄を手に持ち、坂道を歩いて登り始めた。日陰になっていた道が、雲の陰から顔を出した太陽の光によって照らされる。まるでその光の中に、優二が入っていくようであった。一度振り返り、自信ありげな笑顔を見せると、合図をしてまた歩き始めた。
思えば、そのすぐ後であった。あの事件が発生したのは。
そして、俺の前から消えたのも…。
「…」
高校生の零治は、その写真を一度だけ、ぎゅっと力を入れた。その後、すぐにファイルに写真を戻し、棚を復元した。立ち上がると、少しめまいのような感覚を覚えたが、すぐに治りベッドの方へと向かった。ベッドの上には、西湖グラフィックスモニター装置が置かれてあった。
彼は、それを装着する。もう一人の自分がいる、その世界へ向かう為に。
Space Fantasy Game
第87話 ―過去からの、言葉―




