第84話
雨の上がった夜のこと。地面に幾つもの水たまりが出来、雲の隙間から顔を出す満月の光をきれいに照らしている。涼しげな風が吹けば、木々が音を立て体を揺らしていく。澄んだ夜空、心地良い空気。あの夏の出来事、あの時の記憶が、何故だか遠い昔のように感じられる。それは、今日という状況があるからだろうか。それとも、ただの偶然だっただろうか。時間は進み続け、待つことを知らない。過去に戻ることを許されない現実で、今という時間のレールに沿って動き続けるしかない。しかし、こういう例は考えられるだろう。たとえその身が過去に行くことが出来なかったとしても、その時に存在していた心、精神、気持ちは、今も過去に存在し続けている、と…。
「さって、そろそろ寝ないとっ…」
永倉友莉の自宅。一人暮らしの家には少し大きいくらいの間取り。整頓された室内。彼女は、机に並べられた教科書やノート、筆記用具などを片付ける。現在の時刻は午後11時30分を過ぎていた。テーブルで勉強をしていた彼女は、片付けのためその場から立ち上がり、それらを持って間取り上繋がっているが、隣の部屋へ移動する。本棚のようなラックに綺麗に並べてある教科書の中から、明日使用するものを取り出して、それをそばにあった鞄の中に入れる。こうして彼女はいつも、明日使うものを今日中に用意する。その方が朝に焦る思いをしなくて済む。一人暮らしになれば、家事はすべて自分が担当する。朝早くに起きて他にやることも沢山あるため、時間があるときに出来ることを彼女はしてしまっている。続いて彼女はベッドの枕元に畳んで置いてあった寝間着を取りに行き、その場で着替え始める。下半身、上半身と続けて脱衣をはじめ、そして寝間着へと着替える。今着ていた服装は、すべて洗濯機へと行く。
そろそろ、寝よう。電気を消して、ベッドへと移動する、その時。
「ん…?」
突然、小さな物音がドア先で聞こえた。一度だけの、ハッキリとした音。風による何かだろうか、と彼女は一瞬思ったが、まだカーテンの開いている窓から外を見ても風はそう強くはない。物が飛ばされてくるような勢いには全く感じられない。それに、まるで今の音はドアをノックしたかのような音であった。電気を消した直後の音に、彼女は気になりドアの前まで行った。のぞき穴から周りを確かめるが、何も見えない。
「なんだろう…?」
つづいて彼女は、ドアの鍵を開け、静かに外に出た。さらに周りを見渡すが、誰かがいるようには思えない。ただの軋む音であったのか、どうなのか。正体が分からない音であったが、彼女は気のせいだと思い込み、室内へと戻っていく。
「えっ…!?」
ドアの鍵を閉め、ほっと一息ついて後ろを振り返った瞬間であった。室内の暗がり、それでも姿をハッキリと確認できる程度の明るさの中で、男の姿が目の前に現れた。驚愕の表情を浮かべた瞬間には、男は自身の手で彼女の口許を覆い、そして力をつけて勢いよくドアに全身を叩き付ける。彼女の背中を中心に強烈な刺激が全身に向かって走り抜けていく。声を出そうとも、動こうとも出来ない。まるで金縛りにあったかのような、感覚。たった力押し一つで拘束された彼女は、もはや何一つ身動きはとれなかった。ドアに叩き付けられたのと同時に、男の右足が彼女の足、内股に寄りかかり、顔面同士が急接近する。
「…っ…!!」
「その怯えた表情。目に写す涙。…久しぶりだな、友莉。こんな田舎で、今は普通の高校生だったとはな…?」
その顔がはっきりと見えた瞬間、彼女の全身に強烈な寒気が走る。間違いなく、はっきりとした覚えのある顔であった。顔も見たくない、思い出したくもない。けれど、記憶の中に残り続け、消えることのなかった、顔、声、そしてあの頃の出来事。まさに目の前にそれらが揃い、彼女は表情を強張らせ、目に涙を浮かべた。驚いたような表情をしながら、そして疑問を持ちながら。どうして、この男がここにいるのだろうか。それも、室内に。さっきの物音は、この男の…
…一時期、私を奴隷にさせた男のものであったのだろうか、と。
「再会を祝おうじゃないか。雨の消えた満月の晩。せっかくまたお前の顔を見られたんだし、お前も忘れられない俺に再び会えたという訳だ。あの時のようにな…?そう、どれだけ足掻こうが逃げられはしない」
なあ…?友莉。
男の空いている左手が、彼女の腹部に触れた。それだけでも彼女にとっては鳥肌ものだったが、寝間着の上からなぞるようにして、その手、指先は上半身の上部に向かって動いていく。彼女は必死になって抵抗しようと動くが、それも男の力の前にはどうすることも出来ない。そしてその時、思い出した。そういえば、あの頃…あの時も、男の力を前に自分は成す術が一切無かった。逃げようとしても、抵抗しようとしても、結局は何一つ出来ない。言われるまま、されるがまま。
そんなあの頃が、現実にあったという記憶や気持ち、思いが、今も彼女の中に取り残されている。
「…いや、逃しはしない…」
…。
急に目の前の光景が一変する。見慣れた室内の姿。自分の周りに荒れた状態で被さっている、布団。大きく目を見開いたまま、彼女は10秒間ほど静止していた。寝間着の自分、上体を起こした自分の姿。そして、誰もいない室内。その時、彼女はそれが夢であることに気が付いた。だが、そんなことをじっくりと考える前に、彼女の体に内なるものの襲撃がやってきた。覚えのある感覚。全身に冷や汗をかいた彼女はその場からすぐに立ち上がり、口元を押えながらふらついた体でトイレに駆け込んだ。
すべてを、吐き出したくなった。何もかも、捨てたくもなった。しかし、そんなことできるはずもない。自分の心の中で、いまだにあの頃の記憶が鮮明に残り続けていて、しかもそれが夢にも現れる。久々に訪れた強烈な苦しみに、彼女は拒否反応を起こした。それから数分して、再びベッドに戻る。今度は寝転がることなく、ただ座るだけであった。
「…なんで…、私…」
それからのこと。彼女はその晩一睡も出来なかった。その時の時刻は、夜中の2時であった。
9月下旬。静かな時を過ごすことの多い、落ち着いた時期に入りつつあった。今まで散々暑い暑いと言い続けてきた残暑というやつも、終わりを告げたのだろうか。夕方、真っ赤に空が染め上げられる時は、たまにひぐらしの鳴き声も聞こえる。少し時期が過ぎているような気もするが、それだけに季節の変わり目は確実に訪れつつあるのだろう、と多くの人は感じることが出来る。日中の気温は20度前後で落ち着き、風も穏やか。たまに来る台風に呆れることもあるが、それを除けば晴れも曇りも雨の日も、落ち着きあると感じることも出来る。そういう人がいても、不思議ではない。スポーツをするにも、読書をするにも、食を楽しむのにも、良い季節と言えるだろう。
無論、そればかりではなかったのだが。
「…」
「…い?」
「………」
「…おーい?友莉ー??」
普段の学校生活。何気ない日常。いつもと変わらない光景。そんなものが常に自分たちの生活であるとするならば、どれほど幸福なことであっただろうか。同じような境遇に立たされて苦しめられている人も、きっと中にはいるんだろう。自分だけがこのような事に遭遇している訳ではない。彼女、永倉友莉は昼休み中ボーっとしていた。机の上には弁当が広げられたまま、まだすべてを食べ終わってはいなかった。そんな様子の彼女に声をかけたのは、重倉であった。彼女の目線の先で手を振りながら、重倉は声をかけた。そうして彼女が気付いたのは、それから約10秒後。彼女は堅い表情のまま、ゆっくりと声の主、その顔に目を向けた。
「あっ…あぁ、ごめんなさい。呼んだ?ハル」
「もうすぐ昼休み終わるよ?ご飯!」
「あ、そうだった、いけない…」
完全にボーッとしていた時間、自分が何をしていたのか、気付いていない様子であった。そうさせるほどの考え事でもしていたのだろうか、と重倉は思いつつも、様子のおかしい彼女を励ますようにして、肩を叩いて会話をしようとした。
「全くーっ、友莉らしくないよー?」
「っ…!?」
その時、重倉が彼女の両肩に触れた瞬間だった。ビクッと彼女の体が激しく反応し、彼女の表情が一気に変化した。まるで目が点になったかのような表情を、重倉も確かに確認していた。制服を着ているので分かりづらいが、彼女がその内側で震えていることに、重倉は気付いた。明らかに様子がおかしい。明るく元気で多くの人の人気を集めている、いつもの永倉友莉ではない。まるで自分を見失っているようであった。これには重倉も流石に驚いた。思わず両肩から手を素早く離し、彼女の顔を見て話した。
「ちょっと…大丈夫?疲れてるんじゃない?」
「うーん…そうなの、かなっ。ごめんね?ホントに」
「私は良いの。いつでも元気400%だから!」
と、笑いながら返す重倉。彼女もそうして笑顔を見せたが、目の前に広げていた弁当は食べ切らずに片付けてしまった。この状況、他の人は気付いているのだろうか。重倉はあまり自分らしくないかもしれない、と思いつつも、周りを見渡した。特に周りが気を遣っているような様子は見られない。彼女が何かを隠しているのかもしれないが、それが何であるかを確認するのは、躊躇った。友人である以上他人事だと割り切っていた訳ではないが、今日の彼女の様子は自分が思う以上に深刻なような気もした。恐らくそうだろう、間違いはない。そうにも思えた。そんな彼女の様子が、重倉自身の気持ちや行動を抑制していたのである。
放課後になり、暫くして、重倉は一人の男のもとを訪れた。
「よぉ!お疲れ様さん!」
「お疲れ様!ちょっとだけ、良いかな?テツ」
…。
Space Fantasy Game
第84話 ー現実の、裏問題ー




