第50話 癒しの聖女
暗い回廊を、靴音が急き立てるように響いていた。
アルスはフィアナを背負い、肩に重く伝わる体温と呼吸の浅さに歯を食いしばる。
セレナは背後を警戒しながら、弓を構えたまま周囲を見渡す。
ミリアは震える手でライトの魔法を操り、かろうじて光を絶やさないようにしていた。
冷たい空気の中には、まだ“あの見えざる影”が残した魔力の残滓が漂っている。
油断すれば再び襲い掛かってきそうな気配に、誰もが息を潜めた。
「――もう少しで転移陣の部屋よ!」
セレナが前方を見つめ、張りつめた声で告げた。
アルスは小さく頷き、さらに速度を上げる。
セーフゾーンに入り、鉄格子の扉を抜けると、視界の奥に薄い青光を放つ魔法陣が見えてきた。
「ミリア、フィアナは……このまま回復できるのか?」
転移陣を前に、アルスが息を荒げながら問いかけた。
ミリアは唇を噛み、沈痛な面持ちで首を振る。
「……精神に干渉された形跡があります。
普通の回復魔法では、完全には癒せません」
アルスの眉が寄る。
焦燥が滲むその横で、セレナが低く尋ねた。
「教会なら、治せるのかしら?」
ミリアは一瞬ためらい、少し困ったように言葉を選ぶ。
「いつもの教会は“祈りの教会”。
冒険で得た加護や経験を具現化する場所です」
彼女は小さく息を整え、続けた。
「でも……精神への干渉となると、私がいた“聖教会サンクト・レメディウム”でなければ対応できません」
言葉とは裏腹に、ミリアの声はどこか沈んでいた。
アルスはそのわずかな変化を感じ取り、視線を向ける。
「何か……あるのか?」
ミリアは短く黙り込み、背中のフィアナの浅い呼吸を見つめた。
やがて、決意の光がその瞳に宿る。
「……行きましょう。
聖教会へ」
その声には、もう迷いはなかった。
四層の転移陣が淡く輝き、光が視界を包むと、一瞬の浮遊感のあと、彼らは一層の転移部屋へと戻っていた。
壁際の隠し扉を押し開け、湿った空気と共に外の風が流れ込んでくる。
長く続いた緊張が、ようやく少しだけ緩んだ気がした。
アルスは意識の薄れたフィアナを背に負い、暗い洞窟を慎重に進んでいく。
出口の光が近づくにつれ、胸の奥に溜まっていた重圧が少しずつほどけていった。
洞窟を抜けた瞬間、夕暮れの風が頬を撫でる。
守衛が驚いたように立ち上がったが、アルスたちの表情を見てすぐに道を開ける。
息を整える間もなく、四人は街道沿いを王都カレドニアへと歩き出した。
「もう少し……もう少しで着きます」
彼女の声に、アルスは黙って頷く。
背中のフィアナは浅い呼吸を繰り返し、時折小さく呻いた。
やがて王都の城門が見えてきた。
衛兵たちは冒険者の姿を見ると一瞬身構えたが、血に染まった衣服とフィアナの容態を見てすぐに通行を許した。
石畳の大通りを抜けると、街の中心にそびえる白い聖堂が夕陽に照らされていた。
四人は教会の大門をくぐり、広い中庭へと足を踏み入れた。
白亜の回廊の下では修道女たちが祈りを捧げており、夕陽を浴びて柔らかな光が差している。
ミリアの姿を見た修道女の一人が息を呑み、思わず声を上げた。
「……まさか……ミリア様?」
誰かが息を呑むように呟いた。
その声が合図のように、周囲の修道女たちが一斉に顔を上げた。
次の瞬間、誰もが驚きと戸惑いを隠せぬ表情で彼女に視線を向けるが、フィアナの様子を見て、修道女たちはすぐに駆け寄った。
「すぐに聖母様のもとへ!」
「癒しの間を開いて!」
案内されるまま、アルスたちは白い扉の奥――大聖堂の中心部へと足を踏み入れた。
そこは、外の喧騒とは無縁の静寂に包まれた、神聖な空間だった。
天井のステンドグラスから、七色の光が柔らかく床へと降り注いでいる。
ミリアが歩みを止め、祈るように声を発した。
「……聖母エリオナ・ルクス……」
名を呼ぶと同時に、奥の祭壇に淡い光が生まれる。
光の中から、白い衣をまとった女性が現れた。
穏やかな微笑みを湛え、まるで母のような慈愛に満ちた瞳がこちらを見つめている。
「詳しい話は後にして……まずはこの子を救いましょう」
聖母エリオナは静かな声で言い、修道女たちに指示を出す。
「ミリア、あなたも手伝って」
その言葉に、ミリアは胸に手を当て深く頷いた。
「はいっ……!」
修道女たちが手際よく準備を始め、聖堂全体に温かな光が満ちていく。
「ミリア様……!」
「お戻りになられたのですね……!」
彼女たちの声には、敬意と安堵が入り混じっていた。
その様子を見て、アルスとセレナは思わず顔を見合わせる。
「……なぁ、ミリアって、もしかして凄い人なのか?」
アルスが小声でつぶやく。
セレナは苦笑しながら肩をすくめた。
「さぁ……でも、周りの反応を見る限り……そうみたいね」
やがて、聖母エリオナが聖壇の中央に立ち、静かに指示を出した。
「始めましょう。
神の光のもとに癒しを――」
修道女たちは静かに頭を垂れ、儀式の準備に入った。
修道女たちが床を聖水で清めていくあいだ、香炉の煙はゆるやかに立ち上り、銀の水盤に映った光だけが、揺らめきながら天井へ返っていた。
修道女たちは無言のまま聖堂の床を拭っていった。
磨かれた石の上では、ステンドグラスの光が淡く揺れ、その揺らめきさえ祈りの形を取っているようにアルスには見えた。
銀の水盤に聖水が注がれると、澄んだ音が響き、光の粒が静かに跳ねる。
その音を聞いた瞬間、アルスは胸の奥に張りついていた焦りが、わずかにほどけるのを感じた。
一人の修道女が香炉を掲げ、祈りの香を焚くと、白い煙がゆるやかに天へと昇り、甘くも清らかな香りが空間を満たしていく。
それはまるで、フィアナに絡みついた痛みと恐怖までも、少しずつ洗い流していくようだった。
別の修道女は、中央の白い石の寝台に横たえられたフィアナの肩へ薄い布をかけ、そっと耳元で囁いた。
「どうか、怖がらないで……神の光があなたを包みます」
その声は母が子をあやすように優しく、フィアナの硬くこわばっていた表情が少しだけ和らぐ。
聖母エリオナが一歩進み、フィアナの手をそっと取ると、彼女の唇が静かに動き、古の祈りの言葉が紡がれていく。
「主よ……この魂を憐れみ、迷いを照らす光を……」
その声に呼応するように、修道女たちが円を描くように立ち並んだ。
そして――聖歌が始まる。
低く、美しく、透明な旋律。
複数の声が重なり、空間全体が音の波に包まれていく。
それはまるで風に揺れる鈴の音、あるいは朝露に触れた光のようで、穏やかで、しかし胸の奥に響く強さを持っていた。
聖母エリオナの手から放たれる柔らかな光が、フィアナの胸元へと流れ込む。
その光は静脈のように全身を巡り、闇を祓うかのように淡く脈打った。
ミリアもまた祈りの輪に加わり、両手を胸に当てて目を閉じる。
その表情は真剣で、どこか懐かしさを帯びていた。
儀式の中、修道女の一人が静かにアルスの背に手を添えた。
「導きの手」と呼ばれるそれは、祈りの力を媒介し、守護者の想いを神へと導くための儀式。
不思議と、アルスの胸の鼓動が落ち着いていく。
まるで彼の想いが、祈りの力の一部として循環しているようだった。
別の修道女は机の前に座り、聖典を広げ、聖母の祈りの言葉を一つひとつ、滑らかな筆致で羊皮紙へと記していく。
その記録は、やがて“癒しの奇跡”として後の世へ伝えられるのだろう。
そう囁くように、淡い金色のインクが羊皮紙の上で輝きを放った。
聖母エリオナの声が少しだけ強くなる。
祈りの波が空気を震わせ、聖堂全体に神聖な圧が広がった。
ミリアの額にも汗が滲み、彼女は必死に祈りを続ける。
――仲間を、失わせはしない。
その想いだけが、彼女を支えていた。
やがて、光が最高潮に達した時、聖母エリオナは指先で空中に神の印を描く。
淡い軌跡が輝き、天へと昇っていく。
修道女たちはフィアナを囲み、最後の祈りを捧げた。
「神の光が、あなたの歩みに寄り添いますように――」
その言葉と同時に、聖堂の鐘がひとりでに鳴り響いた。
まるで天が祈りに応えたかのように、やわらかな光がフィアナの体を包み込む。
数秒後――
フィアナの指が、わずかに動いた。
閉じられていた瞳がゆっくりと開き、頬を一筋の涙が伝う。
「……あったかい……」
小さく呟いたその声に、ミリアの目が潤む。
フィアナは寝たまま涙を流し、そして――ゆっくりと上体を起こした。
「……すごく……頭の中が……すっきりした」
その笑顔は、ほんの少し儚げで、それでも確かに“生きている”証だった。
聖堂に満ちていた光が静かに収まり、やがて穏やかな静寂が訪れた。
神聖な儀式を終えた空間には、柔らかな息づかいと祈りの余韻だけが残っている。
アルスは胸の奥から長く息を吐き、セレナは胸を撫でおろして静かに聖母エリオナへ一礼した。
ミリアも小さく祈りを終え、その横顔には安堵と、どこか決意めいたものが宿っていた。
フィアナはまだ少しぼんやりとした表情で周囲を見回している。
その頬を伝う涙は、痛みの名残ではなく、確かな“救い”の証だった。
――それを見届けるように、聖母エリオナが一歩前へ進み出る。
「……無事に癒えましたね」
穏やかな声が聖堂に響き、修道女たちが一斉に頭を垂れた。
聖母エリオナは静かにフィアナの額へ手をかざし、光の残滓を確かめる。
「もう心配はいりません。
あなたの魂は、光の導きの中にあります」
フィアナは弱々しくも微笑みを返し、「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
聖母エリオナはその姿を見届けると、ふとミリアの方へと目を向ける。
柔らかな微笑をたたえたまま、静かに彼女のもとへ歩み寄った。
「……帰って来た、というわけではないのですね?」
その声には、寂しさと理解の両方が滲んでいた。
ミリアは一瞬だけ視線を伏せ、それから静かに首を横に振った。
「はい……私は、この方々と共に行きます」
言葉は短く、それでいて揺るぎがなかった。
聖母エリオナは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その瞳には、慈しみと誇りが静かに宿っていた。
そして、祭壇の静けさを裂くように、ゆっくりと名を呼んだ。
「――癒しの聖女、ミリア」
その呼び名が聖堂に落ちた瞬間、空気が止まった。
アルスもセレナも、そして寝台の上のフィアナも、驚愕に目を見開く。
「せ、聖女……!?」
アルスが言葉を詰まらせる。
セレナは信じられないというように、ミリアを見た。
フィアナは目を丸くして、かすかに息を呑んだ。
ミリアは静かに微笑んだ。
その微笑みには、過去への郷愁と、未来への決意が混じっている。
「……私は、この聖教会で“癒しの聖女”と呼ばれていました。
けれど、それはもう過去のことなんです。
私は外の世界を見たい。
仲間と共に歩いて、自分自身の力を試してみたいんです」
ミリアの言葉は柔らかく、それでいて確固たる意志に満ちていた。
聖母エリオナは、ミリアの返答を聞いたあと、ほんのわずかに遠くを見るように目を伏せた。
それは引き留めたい者を送り出す痛みを、誰より知っている者の表情だった。
修道女たちは驚きのあまり言葉を失い、次いで切実な声を上げた。
「ミリア様……どうか、聖母様の為にも、おやめください……!」
「私たちはあなたの帰還を祈っていたのです。いかないでください……!」
「ミリア様……!」
その声には涙が混じり、聖堂に悲しみの余韻を響かせた。
だが、聖母エリオナがゆるやかに手を上げる。
その仕草ひとつで、誰もが口を閉ざした。
「いいのです」
聖母エリオナの声は静かで、しかし確固としていた。
「この子が求めるのなら――私は、その人生を祈るだけ」
ミリアの瞳が潤み、唇が震えた。
聖母エリオナはその頬にそっと手を添える。
「あなたの選んだ道が、どれほど険しくとも。
その足元には、常に神の光が差すでしょう」
そして彼女は、アルスへと視線を移す。
その瞳には、厳しさと優しさが同居していた。
「聖女を……いえ、『私の娘』ミリアをお願いします」
その言葉に、アルスは息を呑んだ。
重くも温かなその願いを、胸の奥で受け止める。
「……はい。必ず」
短いその返事に、嘘はひとつもなかった。
ミリアはそんなアルスを見つめ、そっと微笑む。
「行きましょう、アルス様……皆さん」
背後では修道女たちが涙をぬぐい、静かに祈りの言葉を口にしていた。
聖母エリオナは最後にもう一度、柔らかく告げた。
「神の導きが、あなたたちの旅路にあらんことを――」
白亜の聖堂を出ると、西の空はすでに夕陽に染まっていた。
吹き抜けた風が四人の髪を撫で、その中でミリアの金の髪だけがひときわ柔らかな光を帯びる。
けれど彼女は、もう振り返らなかった。
その背中には、過去を越えて歩き出す聖女ではなくミリアとしての強さがあった。
……が、内心では完全に爆発していた。
(ちょっ、ちょっと待って!? お母様!? なんであそこで“私の娘ミリアをお願いします”なんて言っちゃうんですかぁ!?)
(しかもアルス様のあの真顔! “必ず”って何!? “必ず幸せにします”の“必ず”ですか!? え、え、そういうことなんですか!?)
頭の中で、勝手に鐘が鳴り響く。
ゴーン、ゴーン。
(だめですっ、まだ心の準備が……でも、あの目……覚悟のある男の目でした……!)
(ああもう、あんな目で見つめられたら……わたし、わたし……!)
――脳内では既に、純白のドレス姿でアルスと並んでいた。
(いえ、違います、これは違います! 落ち着いてミリア! あなたは聖女! 冷静にっ――そう……冷静に!)
と言い聞かせながらも、頭の中では祝福の花びらが舞っている。
(ああでも、もし腰を抱かれて“ミリア”って呼ばれたら……その時はもう……)
頬が真っ赤になっていることに気づき、慌てて両手で隠す。
「か、風が……少し強いですね……!」
誰も何も言っていないのに、必死で誤魔化すミリア。
(だめですっ、このままじゃ帰り道で倒れます……! ああ神様、わたしの脳内を沈めてください……でもできれば、あと少しだけこのままで……!)
ミリアが真っ赤な顔でごまかすのを、セレナがジト目で見つめた。
「……ミリア、顔が風じゃなくて恋色になってるわよ?」
「ひゃっ!? そ、そんなこと……っ」
慌てて手を振るミリアに、アルスは首を傾げながら微笑む。
「……大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですっ!!」
その返事が少し裏返ったのを、フィアナがくすくす笑いながら見ていた。
――夕陽の中、四人の笑い声が、王都の石畳に優しく溶けていった。
後日、アルスが聖教会サンクト・レメディウムに寄付をしたのは言うまでもない。




