企業戦士 外伝 花痕 ―柏木ミツキ― 第6話 時任明
前書き
いつもお読みいただきありがとうございます。
今回から柏木ミツキ外伝です。
本編では東都建材と柏木林業の合併に大きく関わった彼女ですが、今回はその少し前から描いていきます。
岡田との過去、柏木林業を背負う理由、そして時任明との出会い。
直接的な話というよりは、ミツキらしい余韻と駆け引きのある外伝にできればと思います。
それでは、よろしくお願いします。
柏木ミツキは負けた。
喫茶店での会談。
東都建材。
時任明。
中田翔子。
風間ユウキ。
剛田リョウ。
若い企業戦士と、その周囲にいた者たち。
戦いとしては、柏木ミツキの敗北だった。
小型ドライアドは崩れた。
蔓はほどけた。
取引条件も崩された。
だが。
ミツキの中には、まだ納得できないものが残っていた。
東都建材には負けた。
でも。
時任明という男には、まだ負けていない。
そう思っていた。
柏木林業。
役員会。
会議室の空気は荒れていた。
「吸収合併など認められない!」
「柏木の名を捨てる気ですか!」
「東都建材に森を渡すなど、先代に顔向けできません!」
役員たちは口々に反対した。
無理もない。
柏木林業は老舗だった。
山を持ち、木を育て、森と共に生きてきた会社。
それを、まだ若い東都建材の傘下へ入れる。
簡単に飲める話ではない。
父は黙っていた。
専務の桐生がミツキを見る。
「部長」
「あなたはどう考えているのですか」
ミツキは資料を見つめる。
東都建材の提案書。
柏木林業の森林資源。
木材加工技術。
輸送網。
そして。
将来的な建設事業への参入構想。
悪くない。
数字だけなら、むしろ良い。
だが、数字だけでは決められない。
森は数字ではない。
社員も数字ではない。
根を張ってきた時間も、数字では測れない。
ミツキ。
「まだ決めていません」
会議室がざわつく。
役員。
「では、合併案は拒否で?」
ミツキ。
「いいえ」
「決めていないだけです」
桐生。
「何を確認するおつもりですか」
ミツキは静かに答えた。
「時任明という男を」
その夜。
ミツキは東都建材へ連絡を入れた。
受けたのは中田翔子だった。
「東都建材、中田でございます」
ミツキ。
「柏木ミツキです」
中田。
「お世話になっております」
ミツキ。
「時任さんに会わせてください」
中田は少しだけ沈黙した。
「業務上のご面談でしょうか」
ミツキ。
「ええ」
「ただし、二人で」
中田。
「場所は」
ミツキ。
「人目のある場所を選びます」
「心配しなくても、取って食べたりしないわ」
中田。
「それは信用しておりません」
ミツキは笑った。
「正直ね」
中田。
「時任さんに確認します」
数分後。
折り返しの連絡が来た。
場所は、夜の植物園に併設された小さなカフェ。
閉園後、関係者だけが使える静かな場所だった。
夜。
植物園のカフェ。
ガラス越しに、暗い温室が見える。
大きな葉。
熱帯植物。
白い花。
人工の光に照らされた緑。
ミツキは先に座っていた。
テーブルにはコーヒー。
窓際には、小さな鉢植え。
しばらくして、時任明が来た。
一人だった。
ミツキ。
「本当に一人で来たのね」
明。
「二人で、と言われましたから」
ミツキ。
「中田さんは止めなかった?」
明。
「止めました」
「でも、来ました」
ミツキは笑う。
「素直なのか、頑固なのか分からない人ね」
明。
「よく言われます」
二人は向かい合って座った。
しばらく沈黙があった。
ミツキは明を見た。
若い。
まだ未熟。
岡田のような圧倒的な熱はない。
黒川のような欲の匂いもない。
篠宮のように飾ろうとする目もない。
槙野のように奪おうとする根もない。
だが。
目を逸らさない。
ミツキ。
「あなたは私に勝った」
明。
「東都建材が勝ちました」
ミツキ。
「そういうところ」
「岡田に似ているの?」
明。
「岡田部長なら、もっと乱暴に言うと思います」
ミツキ。
「でしょうね」
明は資料を出した。
「柏木林業との合併案です」
ミツキ。
「仕事が早いのね」
明。
「中田さんが早いんです」
ミツキは資料を開く。
森の保全。
社員雇用の維持。
柏木林業の技術部門の存続。
山林管理部門の独立性。
東都建材の建材流通網との統合。
将来的な建設事業への転換。
丁寧だった。
甘くはない。
東都にも利益がある。
だが、柏木をただ飲み込むだけの内容ではなかった。
ミツキ。
「これは、あなたが作ったの?」
明。
「中田さんと一緒に作りました」
「俺一人では無理です」
ミツキ。
「正直ね」
明。
「嘘をついても、柏木部長には見抜かれると思ったので」
ミツキは少し笑った。
「見抜けるとは限らないわ」
明。
「でも、根は見られるでしょう」
ミツキの指が止まった。
明は続ける。
「柏木林業は、ただの木材会社じゃない」
「山主との関係」
「製材所との信頼」
「運送会社とのつながり」
「社員が持っている山の知識」
「そういうものが根なんだと思いました」
ミツキは明を見る。
明。
「東都が欲しいのは、柏木の山だけではありません」
「柏木が張ってきた根です」
「だから、切ったら意味がない」
ミツキ。
「綺麗ごとね」
明。
「はい」
「でも、綺麗ごとを数字にするのが仕事です」
ミツキは黙った。
その言葉は少し拙い。
けれど。
嘘ではなかった。
ミツキ。
「もし東都が大きくなったら?」
「柏木の森が邪魔になったら?」
「山を売れば利益が出ると判断したら?」
明。
「俺は反対します」
ミツキ。
「あなた一人が反対して、何が変わるの?」
明。
「一人では変わりません」
「だから、会社として反対できる仕組みを作ります」
明は資料の一部を指差した。
山林管理部門の保護条項。
売却時の特別決議。
柏木側役員の残留。
森林保全部門の独立予算。
ミツキ。
「用意がいいのね」
明。
「中田さんが怖いくらい調べました」
ミツキ。
「あの人、優秀ね」
明。
「はい」
「俺は何度も怒られました」
ミツキは思わず笑った。
明は少し恥ずかしそうにコーヒーを飲む。
それは、黒川のような駆け引きの余裕ではなかった。
篠宮のような飾られた優しさでもない。
ただ、未熟な男が。
未熟だと知りながら。
それでも前へ進もうとしている姿だった。
ミツキ。
「時任さん」
明。
「はい」
「あなたは、私をどうしたいの?」
明は一瞬、言葉に詰まった。
ミツキは静かに見つめる。
男はここで本音を見せる。
欲しい。
手に入れたい。
守りたい。
支配したい。
隣に置きたい。
そういう言葉の根を見る。
明はしばらく考えた。
そして言った。
「柏木部長には」
「柏木林業を守ってほしいです」
ミツキ。
「私を口説く場面じゃないの?」
明。
「そうなんですか?」
ミツキは笑った。
「違うならいいわ」
明。
「俺は、柏木林業のことを全部は分かっていません」
「だから、あなたが必要です」
「森のことも」
「社員のことも」
「根のことも」
「東都には分からないことを、東都の中で守ってほしい」
ミツキ。
「私を利用するのね」
明。
「はい」
「でも、俺も利用してください」
ミツキは明を見る。
利用する。
利用される。
その言葉を嫌がらない男。
綺麗なだけの関係に逃げない男。
そして。
所有しようとしない男。
ミツキ。
「岡田なら、そんな言い方はしないわね」
明。
「岡田部長なら何て言いますか」
ミツキ。
「勝手にしろ」
「でも負けるな」
「たぶん、そんな感じ」
明は笑った。
「言いそうです」
ミツキも笑う。
温室の植物が、夜の空気の中で静かに揺れる。
ミツキは窓の外を見た。
温室。
整えられた花。
管理された環境。
かつて篠宮が見せた世界。
でも、今夜は違う。
この温室は檻ではなかった。
外へ出る前に、根を整える場所に見えた。
ミツキ。
「私は、あなたに負けたと思っていない」
明。
「はい」
ミツキ。
「でも」
「あなたの後ろにある東都には、少し興味がある」
明。
「それで十分です」
ミツキ。
「それに」
一拍。
「あなた自身にも、少しだけ」
明が顔を上げる。
ミツキはコーヒーを飲む。
「勘違いしないで」
「観察対象としてよ」
明。
「分かりました」
ミツキ。
「本当に分かってる?」
明。
「たぶん」
ミツキは笑った。
「危ないわね、あなた」
その夜。
二人は長く話した。
柏木の森。
東都の未来。
岡田のこと。
中田の資料の細かさ。
風間と剛田の頼りなさ。
鷹名の構想。
建材だけでは終わらない会社。
いつか街を造る会社になるという夢。
明は上手く話せなかった。
言葉に詰まり。
資料をめくり。
時々、同じ説明を繰り返した。
それでも。
ミツキは聞いていた。
言葉の上手さではない。
根の向き。
この男が、何を見ているのか。
それを確かめていた。
夜明け前。
ミツキは一人で自室へ戻った。
シーツは乱れていない。
甘い香りもない。
ただ、机の上には、明が置いていった合併案があった。
窓辺のバラ。
岡田の夜に狂い咲いた、あのバラ。
その枝先に。
小さな新芽が出ていた。
花ではない。
蕾でもない。
まだ、ただの芽。
ミツキはそれを見つめる。
岡田は薔薇を狂い咲かせた。
時任明は。
花ではなく、芽を出した。
まだ咲かない。
けれど。
根は確かに動いた。
ミツキは小さく笑う。
「見つけられた、か」
翌日。
柏木林業。
役員会。
会議室は昨日と同じように重い空気だった。
役員たちは、東都建材との合併案を前に顔をしかめている。
ミツキは席に着く。
父が問う。
「決めたか」
ミツキ。
「ええ」
桐生。
「部長」
「本当に東都と?」
ミツキは資料を開いた。
「柏木林業は、東都建材と合併します」
会議室がざわつく。
ミツキは続ける。
「ただし、飲まれるのではありません」
「根を残したまま、より大きな森へ移ります」
役員。
「そんな都合のいいことが」
ミツキ。
「都合よくするのが、私の仕事です」
ミツキは合併案を示す。
山林管理部門の存続。
社員雇用の維持。
柏木側技術者の保護。
森林保全条項。
東都側への役員参加。
そして。
将来的な新会社構想。
建材を売る会社から。
街を造る会社へ。
柏木の木は、その未来の柱になる。
ミツキ。
「柏木林業だけでは、いずれ森を守れなくなります」
「でも、東都となら」
「森を残したまま、もっと広い場所へ根を張れる」
桐生。
「東都を信用するのですか」
ミツキ。
「信用ではありません」
「選択です」
父。
「時任明という男は、どうだった」
ミツキは少しだけ考える。
岡田とは違う。
篠宮とも違う。
黒川とも違う。
槙野とも違う。
まだ完成されていない。
弱さもある。
甘さもある。
危うさもある。
けれど。
根を見ようとする男だった。
ミツキ。
「面白い男でした」
父は小さく笑った。
「そうか」
「なら、悪くない」
その日。
柏木林業は、東都建材との合併へ進むことを決めた。
それは敗北だった。
だが、終わりではなかった。
森を奪われるのではない。
根を移す。
より大きな土へ。
より広い未来へ。
柏木ミツキは、そう決めた。
夜。
部長室。
ミツキは窓辺のバラに触れる。
小さな新芽は、昨日よりほんの少し伸びていた。
ミツキ。
「まだ咲かないのね」
葉が静かに揺れる。
ミツキは笑う。
「いいわ」
「急がなくて」
岡田が残した熱。
時任明が見せた芽。
柏木林業の根。
東都建材の未来。
全てが、少しずつ絡み始めている。
柏木ミツキは。
誰の花にもならない。
けれど。
自分で選んだ場所になら、根を伸ばす。
その根の先に。
やがて一つの名前が生まれる。
東都建設。
街を造る会社。
その始まりに。
柏木ミツキは確かにいた。
第7話 咲かない花。
後書き
お読みいただきありがとうございました。
今回は柏木ミツキ外伝の導入回でした。
ミツキは、ただの魔性の女ではなく、柏木林業を背負う企業戦士でもあります。
誰かに守られる花ではなく、自分で根を張り、自分で咲く場所を選ぶ女性として描いていきたいです。
次回は、ミツキの過去と、彼女の能力の原点に触れていきます。
引き続きよろしくお願いします。




