第8話 二年前の四十七号
グランツ帝国大使館での生活は、思いのほか早く私の肌に馴染んだ。
ここでは、誰も私が「婚約破棄された哀れな女」であることなど気に留めない。持ち込まれる図案や装飾品に対し、私が意匠監察官としての知見を述べれば、大使館の職員たちはそれを素直に実務へと反映させる。
無駄な駆け引きも、感情的な横槍もない。ただ事実と根拠だけがやり取りされる平穏な毎日は、私に専門家としての誇りを取り戻させてくれていた。
しかし、それでも――ふとした瞬間に、王宮の暗い書庫で過ごした日々が脳裏をかすめることがある。
『花びらの数を数えているだけの、無意味な仕事』
フェリクス殿下のあの言葉は、私の中に深く突き刺さったままだ。
私がどれほど必死に資料を読み解き、外交的禁忌を指摘したところで、提出される書類からは常に私の名前が削り取られていた。すべては「王太子宮からの通達」という形で処理され、私の努力はフェリクス殿下を彩るための見えない下地に過ぎなかった。
私の仕事は、誰かの記憶に残るようなものだったのだろうか。それとも、やはり無意味な徒労だったのだろうか。
「……手が止まっているな。少し休んだらどうだ」
ふいに頭上から声が降り注ぎ、私はビクッと肩を揺らした。
いつの間にか執務室に入ってきていたカシアン殿下が、デスクの前に立っていた。黒い軍服姿の彼は、相変わらず隙のない佇まいだが、その眼差しには労わりの色が浮かんでいる。
「申し訳ありません、大使殿下。少し考え事をしておりました。業務に支障は――」
「構わない。今は急ぎの確認事項もないはずだ」
カシアン殿下はそう言って、対面の椅子に腰を下ろした。
「今日は私用で立ち寄った。君に、見せておきたいものがあってね」
彼は脇に抱えていた書類入れから、一枚の紙を取り出した。丁寧に折り畳まれたその羊皮紙は、どう見ても最近作成されたものではない。
カシアン殿下がそれを私の前に差し出した。
書類の書式を見て、私は息を呑んだ。それは見慣れたグランツ帝国の公文書ではなく、アルヴァレト王国の――それも、王太子宮が他国へ送る正式な通達の書式だった。
「これは……」
「右上の管理番号を見てくれ」
言われるがままに視線を移す。
そこには『意匠照会第47号』という文字が記されていた。
私は目を見開いた。忘れるはずがない。それは私が王太子宮付き意匠監察官に就任して間もない、二年前の秋に作成した監察記録だった。
「……二年前の、アメリア皇女殿下のご婚礼の際の書類ですね」
私の言葉に、カシアン殿下は満足そうに頷いた。
「そうだ。私の妹であるアメリアが、セルネ王国王弟アルノー殿下へ降嫁する際、アルヴァレト王国から贈られる予定だった祝いの品に関する書類だ。……君は、この内容を覚えているか?」
「ええ、はっきりと」
私は色褪せたインクの文字をなぞるように視線を這わせた。
当時、王宮がアメリア皇女殿下へ贈るために用意していたのは、見事な白絹に『連なる白い小花と、銀の滴』をあしらった豪奢な刺繍の天蓋だった。
王国において、白い花と銀の組み合わせは「純潔と祝福」を意味する一般的な婚礼意匠だ。誰もがその美しさを絶賛し、そのまま目録に載せようとしていた。
しかし、私は王立紋章院の奥深くに眠る古い資料をひっくり返し、一つの致命的な事実に辿り着いた。
「アメリア皇女殿下が降嫁されるセルネ王国は、グランツ帝国南部宗派の文化的影響を強く受けている地域でした。そしてその南部宗派において、『連なる白い小花と、落ちる銀の滴(涙)』の組み合わせは、幼くして亡くなった子供への『弔意』を示す図柄と酷似していたのです」
もしあの天蓋が、他国の婚礼という最高の慶事の場に持ち込まれていれば。
祝いの席で弔いの図を見せられた新郎新婦は、どう感じただろう。贈り主にそのつもりがなくても、説明と謝罪が必要になっていたかもしれない。
私は急いで図案の変更を求め、銀の滴を『金糸で結ばれたリボン』へと変更するよう、この第47号報告書を書き上げたのだった。
「その通りだ。結果として、王国からの祝いの品は美しい金色のリボンがあしらわれた意匠へと変更され、妹の婚礼は何の瑕疵もなく、素晴らしいものとなった」
カシアン殿下は、書類の端を長い指でそっと撫でた。
「あの時、我が国の儀典長はこの報告書を受け取り、青ざめていたよ。もし元の図案のまま贈られていたら、最悪の外交問題に発展していたとね。……私は、この報告書を書いた人間に深く感謝した。妹が祝いの品を見るたび、悲しい意味を思い出さずに済むようにしてくれたのだから」
その言葉を聞いて、私は戸惑いを隠せなかった。
私にとって、あの報告書は意匠監察官としての当然の義務を果たしたに過ぎない。それに、王太子宮では「祝いの品にケチをつける不吉な女だ」と陰口を叩かれさえしたのだ。
それが、他国でこれほどまでに感謝されていたなんて。
「ですが、大使殿下。その報告書には……私の名前は記載されていないはずです」
私は書類の一番下、署名欄を指差した。
そこにあるのは、王太子宮の通達印と、片隅に小さく書き込まれた五桁の数字――私の『職員番号』だけだ。個人の手柄を良しとしない王宮の慣習により、私の名前はいつも削り取られていた。
「ああ、そうだ。名前はなかった。王太子フェリクスの名ばかりが前に出て、肝心の専門家の素性はどこにも記されていなかった」
カシアン殿下は静かに告げた。
「だが、この報告書に込められた膨大な検証の跡と、相手国への敬意は、文字の端々から読み取ることができた。礼を伝えたくて王太子宮へ照会したが、儀典部門による共同作成だという回答しか来なかった。番号が個人のものだと確かめられたのは、今回、紋章院へ問い合わせてからだ」
二年前の仕事が、ここまで届いていた。
王太子宮での扱いしか知らなかった私は、すぐに言葉を返せなかった。
「建国祭の夜、あの勧告書を見ておられたのは……」
私は震える声で紡いだ。
「この番号を、覚えていらしたのですね」
「確かめたかった。同じ書き手ではないかと」
私は第47号の隅を見た。二年前の自分が、照会先へ何度も足を運んだ日のことを思い出す。
カシアン殿下は、漆黒の瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。
そこには、外交官としての冷徹さではなく、一人の人間としての静かで熱い感情が灯っていた。
「あの夜、目の前の君が警告の書面を出した時、今の仕事も見られた。契約を頼みたいと思った」
彼はゆっくりと立ち上がり、机を挟んで私を見下ろした。
「私は、あなたの名前を知る前から、あなたの仕事を信用していた。だから、この仕事を君に頼んだ」
胸の奥底で、固く冷え切っていた何かが、音を立てて崩れていくのを感じた。
無意味だと言われ、名前を奪われ、誰にも評価されない暗闇の中で、私はただ一人で花びらの数を数え続けていた。
だが、その一針一針の検証は、決して無駄ではなかったのだ。私が編み上げた意匠の意味は、国境を越え、時を越え、こうして私を救い出すための光となって返ってきた。
視界が不意に滲み、私は慌てて俯いた。零れそうになるものを必死に堪えながら、私はただ、この静かな執務室で確かな温もりを噛み締めていた。




