第7話 簡略化された王宮
昨日の青い組紐の記録を、文化担当官が持ってきた。
私の文章の横に、小さな地図が貼られている。北岸の町は丸で、南岸の村々は四角で囲まれていた。
「これなら、贈り先がどちらなのかすぐ分かります」
担当官が言った。書記官に描いてもらったのだという。
私は、自分が書き上げた報告書を受け取る時より嬉しくなった。私がいなくても、この地図を使う人がいる。
「次は、町の名が同じ時に間違えないよう、川の名前も入れましょう」
「全部の図案を、無地にしてしまう手もありますけどね」
担当官が冗談めかして言った。
「急ぎの時には、それもよいと思います。でも、昨日の商人は喜んでいました。自分の町の結び方を知ろうとしてくれたと」
危険をなくすだけなら、贈らない方が早い。
それでも人は、何かを選んで手渡す。無事に届いた先でどんな顔をしてもらいたいのか、そこまでが贈り物なのだろう。
午後、カシアン殿下はこの地図の写しを外交鞄に入れた。
「私が別の使節を迎えている間に、君が休んでいても困らないな」
「休んでいても?」
「契約書に、休暇の日数も書いただろう」
読み落としてはいない。ただ、使うものだとはあまり考えていなかった。
私が契約書を探すと、殿下は少し笑った。
「休暇にまで出典を求めなくていい」
私は机の地図を見てから、鞄を閉じた。
ただ、その日は鞄を閉じても、すぐには帰れなかった。
帰り際に誰かが図案を持ってくるのではないか。明朝までに読んでおく資料があるのではないか。机の周りをもう一度見回す私へ、文化担当官が戸口から声をかけた。
「お預かりする案件は、こちらの箱へ入れます。急ぐものだけ、連絡先へお知らせしますね」
「本当に、それで足りますか」
「足りなければ、明日教えてください」
彼はごく普通に答えた。
私は、返す言葉がなくなってしまった。
王太子宮にいた頃は、席を外した間に何か起きれば、それも私が気づくべきことだった。仕事が来るかもしれないから、来ない時間にも椅子に座っていた。
でも、ここには箱と連絡先があり、明日話せる相手がいる。
門を出ると、夕暮れにはまだ少し早かった。
通りを行く馬車の窓に、仕事帰りの自分が映る。鞄が妙に軽く、何かを忘れたようで落ち着かない。
角のパン屋から、焼けた林檎の匂いがした。
昼に食べたものを思い出そうとして、紅茶しか思い出せなかった。私は店先で足を止めた。
「お一つですか」
店の女将に聞かれ、二つと言いかけた。
誰かへ差し入れるのではない。今、私が食べたいのだった。
「はい。一つ、お願いします」
温かい包みを受け取り、近くの広場の腰掛けに座る。
林檎は思ったより酸っぱく、縁の生地は指で触れただけで崩れた。仕事用の手袋を汚さないよう外していると、向かいで男の子が同じものにかぶりついた。頬についた欠片を母親が払っている。
私も小さく、一口食べた。
王宮を辞めたあとに残るのは、空白ばかりだと思っていた。
その空白に、こんな時間が入ることは考えていなかった。
食べ終えても、急いで立たなかった。明日、地図へ書き足す川の名前だけを手帳に記して、今度こそ鞄を閉じた。
誰かが代わりに確認できるようにする。それも、私の仕事の続きなのだ。
* * *
アルヴァレト王宮では、フェリクスが審査欄の削られた調達票に署名していた。
「首飾りは工房の手違いだ。これからは納入側の保証書を取ればよい。二重の確認は要らない」
ゲオルクが深く頷く。その横でリリアは、次の茶会に使う青い幕を選んでいた。蔦を銀の一本線が囲む、軽やかな図案だった。
翌日、招かれたウェンツ公爵は、その幕の掛かった椅子の前で足を止めた。
「こちらは、どなたのお席ですかな」
「公爵のお席です。お気に召しませんか」
「従属家用の幕が掛かっております。私の家は、いつ王家直轄に移されたのでしょう」
声は低かった。怒鳴られるより、周囲の貴族は黙った。
席の背に掛ける幕の一本縁は、所領の管理を王家へ委ねた家の専用意匠だった。
「縁取り一つで、そのような」
「でしたら、殿下のお席にも同じものをお掛けになれますか」
フェリクスは答えられなかった。
幕を外すために茶会は中断し、公爵は予定していた領内街道整備の協議を辞退した。リリアは、茶器の横で銀の縁だけを見つめていた。
「なぜ、誰も事前に止めなかった」
客が去ってからの問いに、外務官が答えた。
「照会欄がありません。殿下が昨日、不要とされたものです」
フェリクスの手元には、まだ自分の署名入りの調達票があった。




