第6話 わからないと言える人
グランツ帝国大使館の外部意匠顧問としての業務は、極めて順調だった。
王太子宮にいた頃のように、意匠の恐ろしさを一から十まで説明し、それでも「古い」「気にしすぎだ」と一蹴される徒労感がない。ここでは私の検証結果がそのまま実務に直結し、正確な調達へと反映されていく。
だが、それは同時に「私の判断一つで全てが止まる」という重圧でもあった。
「アーレン顧問。申し訳ありませんが、こちらの意匠にすぐ確認のサインをいただけませんか」
昼前、文化担当官が足早に執務室に入ってきた。彼の顔には明らかな焦りの色が浮かんでいる。
「帝国の東部山岳地帯を治める辺境伯へ、我が大使館から贈る祝祭用記念品の意匠案です。工房への最終発注期限が本日の午後なのです。意匠そのものはシンプルな『青い組紐』ですので、すぐに終わるかと」
私は差し出された図案を受け取った。
記念品の銀の盆に、青い絹の組紐が左側へ流れるように結ばれた意匠だ。一見すると、爽やかで美しい飾りにしか見えない。
しかし、私は机の上に広げていた二冊の分厚い典礼書を見比べ、ペンを持った手を止めた。
「……申し訳ありません。すぐにはサインできません」
「えっ? 何か問題でも?」
「記述が、矛盾しているのです」
私は二冊の典礼書を、担当官の方へ向けた。
どちらも王立紋章院が編纂に携わり、隣国グランツ帝国の意匠規則をまとめた権威ある書物だ。しかし、一つは十年前に発行された正本であり、もう一つは三年前に追加された補遺だった。
「こちらの正本には、『東部山岳地帯における青い組紐の左結びは、相手への変わらぬ忠誠と敬意を示す』とあります。しかし、三年前に編纂された補遺の方には、全く同じ『青い組紐の左結び』が『永遠の決別を意味する』と記載されているのです」
「け、決別!? 忠誠と真逆ではないですか!」
担当官は目を丸くした。
「一体、どちらが正しいのですか? 発注の期限が迫っているのです。アーレン顧問の専門家としての直感で構いませんから、どちらか決めてください!」
「直感で決めることなどできません」
「しかし、このままでは発注が遅れて、辺境伯への贈り物が祝祭に間に合わなくなります!」
切羽詰まった担当官の声に、私の胸の奥がチクリと痛んだ。
――『いちいち書物をひっくり返すな! お前の勘などどうでもいい、さっさと結論を出せ!』
王太子宮時代、フェリクス殿下から幾度となく浴びせられた怒声が脳裏に蘇る。王太子宮では「即答できないこと」は無能の証明だった。時間をかけて検証しようとすればするほど、「仕事が遅い」「だから専門職など不要なのだ」と嘲笑された。
今、ここで「忠誠の意味で間違いないでしょう」と適当なサインをしてしまえば、担当官は喜び、発注は間に合う。私の評価も「手際の良い顧問」として保たれるかもしれない。
だが、私は意匠監察官だ。
「担当官。現状の資料だけでは、判断不能です」
私はペンの軸を強く握りしめ、はっきりと告げた。
「曖昧な推測でサインをすることはできません。もしこれが『決別』の意味で伝われば、辺境伯との間に取り返しのつかない外交問題を引き起こします。期限が迫っているのは承知していますが、結論を出すための『照会』の時間をください」
担当官は恨めしそうな顔をしたものの、私の強い語気に押され、「……わかりました」と引き下がった。
私はすぐに立ち上がり、書物から目を離した。
資料が矛盾しているなら、現地を知る人間に直接聞くしかない。私は大使館の職員に手配を頼み、王都に滞在しているグランツ帝国東部出身の商人や、馬車ギルドの職人たちを執務室へ呼び寄せた。
「ああ、青い組紐の左結びですね」
執務室に招かれた恰幅の良い商人は、私が描いた図案を見て大きく頷いた。
「アーレン様の仰る通り、意味が二つあります。東部山岳地帯は中央を大きな川が流れておりましてね。川の北側の交易都市群では、これは『変わらぬ忠誠』を示す立派な意匠です。ですが、川の南側の農耕地帯では、五年前に起きた領主と農民の激しい対立を機に、領主への反抗――『永遠の決別』を示す旗印として、この意匠が定着してしまったのですよ」
地域差、そして時点による意味の変化だった。
同じ東部山岳地帯でも、川を一つ挟むだけで、同じ組紐の意匠が「忠誠」と「反逆」という真逆の意味に分岐していたのだ。三年前の補遺には南岸の事例だけが拾われ、北岸の事例と混在して記載されてしまったらしい。
私は担当官に向き直った。
「記念品の贈り先である辺境伯の領都は、川の北部ですね?」
「は、はい。間違いなく北部です」
「北岸の式典で使う品なのですね。ご領地全体へ贈るものなら、南岸での意味も無視できません」
担当官が式次第を確かめた。北岸の交易都市の開港祝いで、記念品はその議事堂に置かれるという。
同席の職人は、北岸の市章を織り込んだ今年の祭布を広げた。左結びの青い紐が、同じ位置に描かれている。商人が持つ祭事の案内とも一致した。
「この使用先と配置なら、敬意を伝えられます。報告書には、北岸の式典に限ると書きます」
私は安堵の息を吐き、改めて図案書に細密図用鉛筆で事の顛末と根拠を書き込んだ上で、確認のサインをした。担当官は「すぐに工房へ走ります!」と図案書を抱えて飛び出していった。
午後の締め切りには間に合わなかった。私は担当官へ、照会に要した時間も含めて日程を組み直してもらった。
職人たちに礼を言って帰らせた後、私は一人執務室に残り、大きく息をついた。
「……騒がしかったようだな」
ふいに扉が開き、カシアン殿下が姿を現した。
手には、私が先ほど提出させたばかりの『意匠監察報告書』が握られている。
「申し訳ありません、大使殿下」
私は反射的に立ち上がり、頭を下げた。
「私の判断が遅れたせいで、本日の発注締め切りに間に合いませんでした。専門家として、即座に正しい知識を引き出せなかった私の責任です」
王太子宮であれば、確実に叱責を受ける場面だ。「役立たず」「花びらを数える時間ばかりかかっている」と。
しかし、頭を下げたままの私の耳に届いたのは、静かな衣擦れの音と、羊皮紙を捲る音だけだった。
「なぜ謝る? 君の報告書を読んだが、極めて妥当な処置だ」
「え……?」
「二つの資料の矛盾に気づき、適当な判断で発注を進めず、『現状では判断不能』と一度止めた。その上で現地出身者への聞き取りを行い、地域差という変数を特定して結論を出した。照会に要した時間も、業務時間だ」
顔を上げると、カシアン殿下は報告書を見つめながら、満足げに目を細めていた。
「次に保留する時は、分かったことと、まだ足りないことを先に知らせてくれ。担当者も、その間にできる準備を選べる」
「……はい」
私は報告書の末尾に、照会した二人の名と祭事案内の番号を書き足した。
殿下が出ていったあと、文化担当官が戻ってきた。発注は翌朝一番の便に乗るという。
「先ほどは、勘で決めてくれなどと申し訳ありませんでした」
「私も、保留としか言いませんでした。次は、何時までに何を確かめるかお伝えします」
二人で時間を書き込んだ予定表を見直した。まだ間に合う。
私は、ようやく握り続けていたペンを置いた。
自分が今、どれほど恵まれた、真っ当な職務環境にいるのかを実感し――私は新しい職場の空気に、静かな戸惑いと、かつてない安堵を覚えていた。




