第5話 白い鳥は祝福ではない
グランツ帝国大使館に用意された私の執務室は、王立紋章院の薄暗い書庫とは打って変わって、大きな窓から明るい陽光が差し込む快適な空間だった。
華美な調度品は一切ないが、広々とした無垢材のデスクと、各国の典礼書と更新通知が並ぶ真新しい本棚がある。照会先の一覧も、手の届くところに置かれていた。誰にも追い立てられず、頁を開いてよい。
「外部意匠顧問」として正式な契約を結んで数日。私は、大使館に持ち込まれる日々の贈答品や式典用品の意匠確認を、次々とこなしていた。
王太子宮にいた頃のように、「予算がどうだ」「見栄えが地味だ」と文句を言われることはない。私の仕事は、ただ意匠の法的・外交的意味を検証し、事実を報告書にまとめることだけだ。
「アーレン顧問。お忙しいところ恐縮ですが、急ぎ確認していただきたい図案がありまして」
扉をノックして現れたのは、大使館の文化担当官だった。彼は、分厚い羊皮紙の図案書を抱えていた。
「アルヴァレト王国の有力貴族から、我が国の南部領地を治める伯爵家へ贈られる予定の、特注タペストリーの図案です。先日整った両家の友好婚約を祝う品とのことですが……」
「見せてください」
私は図案書を受け取り、ページを開いた。
そこには、精緻な刺繍の完成予想図が描かれていた。波一つない美しい湖畔を、二羽の『白い水鳥』が優雅に泳いでいる。そして背景には、湖畔を囲うようにして『重厚な鉄門』がそびえ立っており、その門は硬く閉ざされていた。
「非常に緻密で見事な構図ですね。王国側も、この婚約を大変喜んでおられるのでしょう」
文化担当官が感嘆の声を漏らすが、私は図案を見つめたまま無言で眉をひそめた。
アルヴァレト王国において、白い水鳥は「清廉」や「純潔」を象徴する吉兆の意匠だ。婚約の祝いとして選ばれるのは何ら不思議ではない。
だが、私の頭の中に叩き込まれたグランツ帝国の地域別意匠規則が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。
「担当官。この贈り先である南部領地では、独自の古い土着信仰が残っていますね?」
「は、はい。たしか、湖を聖なるものとする信仰が……」
「ええ。その信仰において、白い水鳥は『死者の魂を運ぶ使い』とされています。それでも単体であれば、ただの鳥として許容されることもありますが……問題は、その後ろにある『閉ざされた門』です」
私は細密図用鉛筆で、図案の門と水鳥を丸く囲んだ。
「白い水鳥と、閉ざされた門。この二つが同じ構図の中に配置された場合、当該地域では明確に『魂が冥界へ旅立ち、現世との門が閉ざされた』という意味になります。すなわち、強烈な『喪と別離』を示す図柄です」
「なっ……喪と別離!? 婚約の祝いに、破談どころか呪いを贈るようなものではありませんか!」
文化担当官が血相を変えた。
もしこのタペストリーがそのまま完成し、友好の証として大使館経由で南部伯爵家へ届けられれば、一族を激怒させる致命的な侮辱となる。先方に説明を求められ、両家が不安を抱いたまま婚礼を迎えることになるかもしれない。
「すぐにお断りの通達を出し、王国側に厳重に抗議しなければ!」
「お待ちください」
息巻く担当官を、私は静かな声で制した。
意匠の意味は「構成」と「地域」だけで決まるわけではない。誰から誰へ、どんな目的で使われるかという「文脈」も同じくらい重要だ。
「両家の書簡のやり取りを見る限り、王国側の貴族には確かな友好の意図がありました。莫大な予算をかけて特注のタペストリーを依頼しておきながら、わざわざこのような手の込んだ嫌がらせをするとは考えにくい。……意図と図案が、どこかで食い違っているはずです」
誰かが、途中で意味を変えてしまったのだ。
文化担当官から贈り主の許可を取り、王都の制作工房へ、発注書と下書きの確認を依頼した。南部伯爵家から祝宴準備のために来ている家令にも、図案を見てもらうことにした。
数時間後、届いた記録を読み解いた私は、小さくため息をついた。
「やはり、文脈(意図)の齟齬です」
「どういうことですか、アーレン顧問」
「王国側の貴族が出した当初の発注書では、背景は閉ざされた鉄門ではなく、『開かれたアーチ』となっていました。これなら『新たな世界へ向かう祝福』という意味で通ります。しかし、制作を請け負った工房の画工が、途中で勝手に構図を変更していますね」
「勝手に? なぜそんなことを……」
「制作メモに理由が書かれています。『開かれたアーチでは背景が間延びする。重厚な鉄扉を閉ざした方が、刺繍の銀糸が映えて見栄えが良い』……それだけです」
夕刻、図案を持ってきた画工は、当初の下絵を見て首をすくめた。
「勝手に閉めたつもりじゃないんです。リンデルの共通見本に、同じ湖と鳥の図があって。門も細かく彫ってあったので、こちらの方がお祝いらしいかと」
「仕上げの確認は?」
「枠の寸法だけでした」
家令は、完成図の閉じた門を長く見ていた。
「伯爵夫人は、亡くされた御子の追悼にこの図を用いられています。婚礼のお席では、お見せしたくない」
画工の指が、下絵の端を握った。
私は当初のアーチを指した。家令が頷く。
「こちらなら問題ありません。若君が幼い頃から遊んだ、屋敷の庭にもよく似ています」
「花は残せますか」
画工の問いに、私は初めて彼の顔を見た。
「残しましょう。変えるのは門だけです」
彼はすぐに鉛筆を持ち直した。黒く塗り込められていた門の向こうに、湖へ続く細い道が現れた。
私は詳細な報告書と修正案を作成し、執務室を訪れたカシアン殿下に提出した。
「発注書には、開いたアーチが描かれていました。画工が共通見本に合わせて門を閉じたのが、意味の変わった箇所です。贈り主へ経緯を伝え、アーチに戻す修正をお願いしたいと思います。先方の家令にも、こちらなら婚礼に使えると確認しました」
報告書を読んだカシアン殿下は、修正後の図を横へ並べた。
「鳥を替えずに済んだのか」
「はい。二羽の鳥は、結婚するお二人を表していたそうです」
「ならば、残せてよかった」
彼は修正依頼に署名し、それから私を見た。
「贈り物をやめさせずに済んだ。ありがとう、エステル」
カシアン殿下が、初めて私をファミリーネームではなく、名前で呼んだ。
少しだけ甘さを帯びた低い声に、胸の奥が不意に跳ねた。私は慌てて視線を伏せ、「お役に立てて何よりです」と事務的に返すのが精一杯だった。
無事に修正依頼の手配が済み、カシアン殿下や担当官が部屋を出ていった後。
私は机の上に残っていた、タペストリーの分厚い図案書を片付けようとして――ふと、その裏面の制作票の端に押された、小さな焼印に目が止まった。
丸い枠の中に、幾何学的な花をあしらった印。
それは、王太子殿下の簡略化改革に乗じて、最近王宮内でもやたらと調達数が増えていた『リンデル工房』の印だった。
「リンデル工房……」
建国祭の夜、首飾りを封印する前に確かめた印も、この花だった。
同じ工房は、宝飾だけでなく織物の図案も扱っているらしい。
私は制作票の写しを大使館の案件綴りへ加え、共通見本の取り寄せを依頼した。
門を一つ閉じたのは画工だった。だが、その変更を誰も確かめないまま贈り物が届くところだったことの方が、気にかかった。




